別れ | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

突然祖母が亡くなった。急な知らせだった。とてもパワフルな祖母だった。すくなくとも、とてもパワフルに見えた祖母だった。

祖母は弓道の高段者だった。僕は弓道についてはよく分からないのだが、少しでも祖母にとっての弓道の意味を考えてみようと思い、祖母のもとへ駆けつける飛行機のなかで、内田樹さんと光岡英稔さんの対談をまとめた『荒天の武学』(集英社新書)を開いた。

『武道的な力というのは、端的に言えば、一個の生き物としてあらゆる状況を生き延びることができる能力ということだと思うんです。』(p.50の内田氏の発言)。

なるほど。その意味ならば、祖母は優れた武道家だったのだろうと僕には思われる。祖母は、戦中を満州ですごし、家族を戦災で失い、幼い子供を抱えて引き揚げ、女手一つで父と叔父たちを育てながら、戦後の激動の時代を生き抜いてきた。

だからだろうか。祖母のもとを訪ねるたびに、「おばあちゃん」というよりも「すごい人」という気がしていた。孫を前にしても、どこか緊張感を保ち続けていた人だった。

もちろん、僕の記憶にある祖母の姿は60代半ば以降の、いわば現役引退後の余生を送る姿でしかない。それでも、編物、紙人形、弓道、福祉活動など、祖母はいつも駆け回っていた。 バリバリの現役だった頃の祖母だったら、きっと圧倒されたに違いない。

飛行機で現地入りしてから通夜までの空き時間に、祖母の暮らした街並みをぶらぶらと歩いてみた。南国らしい穏やかな陽気の中で、たくさんの猫が塀のうえでくつろいでいた。「ふるさとは遠きにありて思うもの」という。祖母は生まれ故郷から遠く離れた南国の地で、何を感じていたのだろう?


祖母が毎朝ラジオ体操にいっていた広場、よくお参りにいっていた神社、どこも人影は少なく、もうこの地に祖母がいないのだという確かな証拠は目当たらなかった。通夜で祖母に対面しても、もう祖母と話せないのだという実感はわいてこない。ここ数年、年に一回は祖母とよく話す機会があったためだろうか、「こんなとき祖母ならどう言うだろうか?」と考えてみると、大抵の場合すぐに「こう言うだろうな」という答えが思い浮かぶ。祖母は、物事への態度がいつも変わらない、芯のはっきりした人だった。


喪主として会衆へ話した父は、「おかあさん、頑張りましたね…安らかに眠ってください」と祖母の棺にむかって声を振り絞って挨拶を閉じた。はじめて耳にする父の声色だった。祖母と父が一緒に歩んだ日々に思いが及び、つい目頭が熱くなった。

関西に戻ってくると風の冷たさが身にこたえた。


我が家には、祖母が泊まった日に電球をいじっていった洗面台がある。

その日、朝早く起きた祖母は、二つあった電球の一つを緩め、片方だけ点灯するようにした。

「電球が二つとも光ると明るすぎて、電気がもったいない」というお話だった。


今も、洗面所の電球はそのままである。おそらく今後も、そのままだろう。