司馬遼太郎記念館訪問 -本とともに生きるありかた- | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

三週間ほど前になるが、相方さんは東大阪に用事があってお出かけ。

なにも用事のない僕は、たまには家をでて外の空気にあたろうと思い、

相方さんに便乗して、同じく東大阪にある司馬遼太郎記念館に行って

みることにした。



到着は昼下がりの午後3時。記念館は、司馬さんの自宅に併設されている。

司馬さんが執筆していた当時の状態で保存されている書斎を窓越しに見学後、

デザイン性の高い記念館に入館。記念館の建物は安藤忠雄さん設計らしい。

写真の通り、壁一面に司馬さんの蔵書(の一部)が収納されている。圧巻。


世界の名著、日本の歴史、地域の歴史、戦史など、膨大な量の書物があった。

僕の持っている本もいくつか確認できてちょっと嬉しかった。本は展示品なので、

実際に手に取って見られないのが残念だが、司馬さんの本への愛情は十分に

感じ取ることができた様に思う。


ちょっと残念だったのは、この記念館の床が、きれいすぎるということだ。

僕のゴム底のサンダルが、歩くたびに「きゅきゅきゅ」と音をだしてしまい、

他のお客さんに申し訳ないなぁと感じていたら、他の人の靴底もゴムの場合が

多いみたいで、そこらじゅうで「きゅっきゅっ」と鳴っていた。

まぁ気にしなければ、それほど気にならないレベルではあったけれど。


記念館訪問を機に、あらためて、司馬さんの業績について考えてみた。


僕にとって司馬さんのすごさは、その視野の広さにある。

斎藤道三、会津藩、河井継之助など、どちらかのいうと歴史の本流には

残らなかった人々に司馬さんは注目する。これらの人物たちは、司馬さんが

いなかったら、歴史の主人公とは見なされないままだったろう。


なぜ、司馬さんは、マイナーな存在に光を当て続けたのだろうか。

それは結局のところ、歴史のうねりを「一人の英雄の所作」に還元したくない

という思いを司馬さんが持っていたからではないだろうか。僕はそう感じる。


歴史は、やもすると勝者だけがクローズアップされる物語になりがちである。

たとえば明治維新。薩長土肥が勝った。しかし、会津藩や長岡藩という敗者も、

薩長土肥に劣らず、人間にとって大事な精神を具現したのではなかったか。


事実、旧長岡藩からは、山本五十六や井上円了といった異才が出ている。

見方を変えれば、薩長土肥と戦えるだけの力を会津、長岡はもっていたのだ。

明治維新を立ち上げるときに、会津、長岡は敗れたけれど、その後の社会を

形成する過程では、会津、長岡出身者たちの力も大いに活用されたのである。


敗れたものを、そのまま「悪者」にしないこと。これが司馬さんの構えである。

勝者・敗者を決めるのは、一時の運であって、善悪によるものではない。

だから、勝者から見習ってはまずい点もあるし、敗者から学ぶべきところも

たくさんあるのである。司馬さんには、敗者への温かいまなざしがある。


しかし、前回も書いたが、司馬さんの視座は「人物」の魅力を雄弁に語るが、

一方で「言葉」は茅の外におかれたままになってしまう。そこが気になる。

たとえば、マルクスを語る際に、彼がその日の暮らしにも難儀する貧困の中で

大英図書館にかよって『資本論』を書き上げたことに注目して、『資本論』の

中身には言及しないようなものだ。司馬さんはマルクスについては何も書いて

いないけれども。


たしかに、マルクスという人物の残したエピソードは魅力的である。

しかし、魅力的であるかどうかということは、僕にとってはどうでもよい。

僕が大切にしたいのは、マルクスが残した言葉が真実に触れているかどうか、

この一点だけである。言葉に注目するとき、その言葉を誰が言ったのかは

どうでもよくなる。


司馬さん自身はイデオロギー的な思想には批判的であるようだ。

思想には「酔っぱらえない」体質であることを司馬さん自らが告白している。

意地悪い言い方をすれば、司馬さんは、思想に酔わずに、人に酔ったのだ。


無論、小説家としては、登場人物の魅力を描かなければならない。

しかし、「魅力のあるなし」は「真実に触れているかどうか」という基準に比して

危険度が増す。登場人物の魅力を描いてしまうことで、かえって隠れてしまう

ことがあるのではないか。僕にはそう思われてならない。


さて、『平家物語』、『太平記』などは、歴史上の事実どおりではないことが

指摘されている。しかし、江戸時代の歴史家、頼山陽の『日本外史』は、

この二つの物語をもとに、日本史を描いている。このことは、広く膾炙した

書物が、フィクションの部分も含めてリアリティーを持ちうることを示している。

おそらくこれから長い月日を経た後に、戦国・江戸・明治といった時代が

司馬さんの小説を通して語られる時代が来るだろう。

その意味で、僕には、司馬さんの小説群が、『平家物語』や『太平記』のように

ひとつの時代を語るスタンダードになるのではないかという予感がある。