二週間ぐらい前の週末、ふと出かけてみることにした。久々の外出。
行先は、相方さんのアイデアで、須磨方面に。JRで一時間くらいだ。
まずは、須磨海浜公園の水族館で肩慣らし。ひさびさの水族館は
家族連れで大賑わい。格安料金で見学できるのはありがたい。
三宮のチケットショップで入場券を1200円で購入。
いざ入場してびっくり。とても広い。水族館なのにこんなに歩くとは
おもわなかった。強い暑さを水槽の涼しさで和らげながら、たくさんの
お魚とアナコンダをみて大満足。
日が少し低くなってから舞子に移動。駅をおりると、すぐに移情閣、
別名「孫文記念館」が迎えてくれた。スッとした美しい洋風建築である。
ちょうど少し前に、司馬遼太郎さんのエッセイで、晩年の孫文が
なぜだか神戸に講演に来たことが書いてあった。
講演の中で、孫文は、明治維新期の日本を「植民地」と表現した、
と司馬さんの本には書いてあった。とても重い言葉だと思う。
孫文という人については、あんまり知らないのだけれど、もしも、
生まれる時代がちがっていたら、孫文は、とても優しい普通の良医に
なっていたのではないだろうか。そんな気がする。
むろん、歴史に「もしも」は存在しない。
しかし、孫文のような「良い人」が政治を担わなければならなかった
ということは、それだけ当時の中国が厳しい局面になっていたことの
裏返しなのではないか。
政治家について、政策立案能力よりも、人徳が要求される時代は、
それだけ危機の度合いがつよい。僕はそう思う。
なぜなら、
「その政治家の言っている内容」よりも「その政治家のものの言い方」が
重要視されるということは、もはや政策の求心力だけでは立ち行かなく
なってしまっていると思われるからだ。
政策の内容で勝負できなくなった共同体は、意思決定の体制自体を
変革しようという方向に動きやすい。
僕は、「言葉」と「人」なら、言葉を大事にしたい。
「人」も「言葉」のひとつであると考えるからだ。
「言葉」よりも「人」を見ようとするとき、すでに「人」という「言葉」の魔力に
引きずられているような気がするのだ。
僕らが見極めなければならないのは、「人」よりも「言葉」ではないのか。
「悪い人」よりも「悪い言葉」に気をつけなければならない。
民主主義とは、そのような特色をもった政治体制ではないのか。
今の日本を見て、孫文ならばどう形容するだろうか。
展示されていた孫文の写真をみながら、そんなことを感じた。
記念館をでると、外はうっすら夕暮れ時。
将棋盤にむきあうおじさんたちや、サイクリング中の子供たち、
釣りにいそしむ若者と、たくさんの人が週末を憩っていた。
相方さんに了解をいただき、ビールを飲みつつ、たこ焼きをほおばる。
しばらく待っていると、人工的な橋と自然の夕日が重なってきた。
海と陸の境目で、「人間の偉大さ」と「人間のちっぽけさ」が
せめぎ合っていた。いや、協力しあっていたのだろうか。
夜7時ごろ帰宅。。なかなか素敵なプチ旅であった。

