『つぐない』 -すべてがウソだったとしたら- | Nothingness of Sealed Fibs

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京都シネマで『つぐない』を見てきました。


ストーリーは、妹のウソによって、引き裂かれてしまった姉とその恋人にたいして、妹が負い目をおいながら、戦争の暗い時代を生き抜いていくというもの。イアン・マキューアン著『贖罪』の映画化。ストーリーが多少、映画の内容ネタバレになってしまうので、ここでは詳しくは書きません。


で、脚本もすばらしいのだが、


この映画は、何といっても、「映画的」によくできた作品なのだ。

タイプライターの音、時計の音を効果的につかっているのはもちろん、時間軸を行き来するシークエンスの編集、俳優の演技などが非常に丁寧に計算されている。

監督の映画的手腕にびっくりしているだけで、あっという間に時間がたってしまう。

また、映像の構図もすばらしい。個人的には、キーラ・ナイトレイ演じる主人公の最期のシーンの美しさに息をのんだ。


で、である。脚本もすばらしく、映画的にもすぐれているにも関わらず、この映画は、ものすごく「恐ろしい」しかけに満ちた作品になっていると僕は思うのだ。

なぜか?


こ映画が、観客に「私たちは、一番大事な部分を見せてもらっていなのではないか?」あるいは、「今見ているシーンは、映画の中において、真実なのか??」という疑いを常に起させるからである。


常に、説明不足であることで、何が真実なのか、観客は混乱する。

ブラウニーが戯曲を書いているという設定も、この混乱を助長させる。


ラスト近くで、年老いたブラウニーがでてきて、衝撃的な事実を明かすシーンがあるが、このとき老いたブラウニーが事実として言ったこと全てが虚構である可能性はぬぐえない、という思いが消え去らないままに、僕はこの作品を見終えた。


つぐないは、つぐないうるのか。いや、つぐないきれないのだ。

おそらく、大抵の観客はこれが、この映画の主題であると感じるだろう。

たしかに、そのテーマもあるだろう。


しかし、僕にとっては、この作品のテーマは、「目にみえるもの、耳に聞こえるもの、それらがすべてウソだったとして、あなたは生きていけるか?」という問いだと感じられた。

この問いは、この映画の内容が生む問いではなく、この映画が作品全体を賭けて表現している問いだ。

それは、名作『トゥルーマン・ショウ』の問いの変奏バージョンでもある。


『トゥルーマン・ショウ』では、身の回りの日常生活すべてが、『トゥルーマン・ショウ』というテレビ番組のために作られた世界であることに気づいた主人公トゥルーマンが、偽物の海を航海し、海の絵が描かれたスタジオの壁についてるドアから「真実の世界」に飛び出して幸せを得るという話だった。

確かに、生まれてからずっと親しんできた世界が、ぜんぶ虚構とわかったら・・・という設定はすこし、怖い。

でも、『トゥルーマン・ショウ』の本当の怖さは、トゥルーマンがスタジオから抜け出して獲得した「真実の世界」すらも、一回りおおきな虚構にすぎない可能性が残されている点にある。


『つぐない』を見て、ぼくは、『トゥルーマン・ショウ』を見た時と同じ種類の寒気を感じた。


僕が生きている世界が、たんなる「虚構」だったら…人を愛する気持ちも「虚構」なのか??

「虚構」と言って分かりにくいのであれば、「夢」と言ってもいい。

自分の人生が単なる長い夢だとしたら…僕が死ぬということは、夢が醒めるってことなのかもしれないとすら思う。

ここまでくると、そのまますぐに、すべては夢ではないかと疑ったデカルトの懐疑論に直結する。


考えるまでもなく、映画だってフィクション=虚構である。

観客は映画の虚構的ストーリーに感情移入することで、リアリティーを感じ、カタルシスを得る。

映画という虚構に対して観客が感じるリアリティーとは一体何なのだろうか?不気味でよくわからない。


『つぐない』のしかけにやられて、僕はこんな不気味な地点までやってきてしまった。

でも、そのしかけを、僕にしかけだとと思わせることが、この映画の本当のしかけなのかもしれない。

だからこそ、『つぐない』はマジに恐ろしい映画だと思う。