ヨハネによる福音書
信仰の光と信じない人々の盲目
9章35節
イエスは人々が彼を外に追い出したことを聞くと、彼を見つけ出して言った、「あなたは人の子を信じるか」。彼は答えて言った、「その方はいったい誰でしょう。主よ、その方を信じることができますように」。イエスは彼に言った、「あなたは以前から見ている。あなたと今語っている人がそれだ」。彼は声を挙げた、「信じます、主よ」。そして彼を礼拝した。
イエスは言った「審きのために私はこの世に来た。視えない人が視えるようになるために、視える人が盲人となるために」。ファリサイ派の中で、彼と共に居合わせた人々がこれを聞いて彼に言った、「まさかこのわれわれも盲(めしい)だとおっしゃるのではないでしょうね」。イエスは彼らに言った、「仮にあなたがたが盲人であったとすれば、あなたがたに罪はなかったことであろう。しかし今、自分たちは視えると言っており、あなたがたの罪はそのまま留まっている」。
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これらのことばのゆえに、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。その中の多くの人々は、「悪魔に取り憑かれて気が狂っている。どうしてお前たちは、彼の言うことに耳を貸したりするのか」と言っていた。他の人々は言っていた、「これらの言葉は悪魔に憑かれた人のものではない。悪魔に盲人たちの目を開くことなどできないではないか」。
宮清めの祭り
10章22
その頃、エルサレムで宮清めの祭りがあった。冬のことであった。イエスは神殿境内でソロモンの柱廊を歩いていた。
するとユダヤ人たちが彼を取り囲んだ。そして彼に言い始めた、「いつまでわれわれの魂を中途半端にしておかれるのか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってほしい」。
イエスが彼らに答えた、「あなたがたに言ったのに、信じようとしない。私が自分の父の名において行っている業、それが私について証ししている。しかし、あなたがたは信じようとしない。あなたがたは私の🐏羊たちに属さないからである。私の羊たちは私の声を聞き、私も彼らを知っており、彼らは私について来る。そして私は彼らに永遠の命を与えようとしており、彼らは永遠に滅びることがない。また、私の手から彼らを奪うものはない。
10章29節の後に10章「良き牧者の講話」1節から18節を移す
私の父が私に与えて下さっているものはすべていまさって大いなるものであり、父の手から奪うことのできるものは誰もない。
良き牧者の講話
10章1節
アーメン、アーメン、あなたがたに言う。羊たちの中庭に門を通って入るのではなく、ほかのところを乗り越えてくる人、それは盗人であり、強盗である。門を通って毎朝入ってくる人が羊たちの牧者である。この人には、門番が戸を開き、羊たちがその声を聞く。彼は自分の羊たちをそれぞれの名前で呼び、彼らを連れ出す。自分の羊たちは皆、追い出してしまうと、彼らの先に立って行き、羊たちは彼の後について行く。その声がわかっているからである。
よそものには決してついて行くことがなく、逃げてしまうであろう。よそものの声はわからないからである」。
イエスは彼らにこの謎めいた譬えを話したが、彼らは自分たちに語られたことが何であるのか知らなかった。
そこで、イエスはまた彼らに言った、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。私が羊たちの門である。私よりも前に来た人々は皆、盗人であり、強盗である。羊たちは彼らの言うことを聞かなかった。私が門である。人が私を通って入るなら救われ、入ったり出たりして牧草を見だすであろう。盗人が来るのは盗み、屠り、滅ぼすためにほかならない。私が来たのは人々が命を得、豊かに得るためである。
私が良い牧者である。その良い牧者は、羊たちのために自分のいのちを棄てる。雇い人であって牧者ではない者、羊たちが自分のものでない者は、狼が来るのを看ると、羊たちをそのままにして逃げてしまうものである。
――狼はそれらの羊を奪い、散らしてしまう――。
雇い人であって、羊たちのことを心にかけていないからである。私が良い牧者であって、私は自分の羊たちを知っており、私の🐏羊たちも私を知っている。父が私を知っており、私も父を知っているのと同様である。そして私は自分のいのちを、羊たちのために棄てる。
私には、この中庭には属さない他の羊たちもいる。私はそれらの羊たちも導かなければならない。彼らも私の声を聞くようになり、いつか一つの群、一人の牧者となるであろう。
私が自分のいのちを棄てるそのゆえに、父は私を愛している。いのちを棄てるのはそれを再び受けるためである。私からそれを奪う者は誰もいない。私が私自身からそれを棄てるのである。私にはそれを棄てる力があり、それを再び受ける力がある。この命令を私は自分の父から受けたのである。私と父は一つである」。
「白いハスのような正しい教えを説いた聖典」 第15章 如来の寿命の長さ
この道理を考えて、如来は、実に完全なる滅度に入らないでいながら、衆生たちを教化するという願望のゆえに、如来は完全なる滅度に入るだろうということを告げるのである。良家の息子たちに、このようにいうことが、如来の法門であって、ここにおいて如来に虚言は存在しないのである。
「良家の息子たちに、このようにいうことが、如来の法門であって、」
昔から「このようにいうことが」という言葉の意味合いに心が留まっていた。イエスが「この命令を私は自分の父から受けたのである。」そういうことなのかなと考える。
如来の寿命の長さの章は、このヨハネによる福音書の9章と10章をよく読みましょう。夕方から「ヨハネ文書」を読んでいたら、「錯簡」があるようだという脚注を発見した。そこでこの「錯簡」という前提で節の並びを脚注の指示に従って書き直してみました。
「錯簡」とは① とじ違いのために本のページの順序がくるっていること。
② 文字・文章などの前後が入れ違っていること。
この「ヨハネによる福音書」は錯簡がとても多いです。これを脚注の指摘に従ってページの節や章を入れ替えて、話の筋が通るようにしている昔と現在です。
ユダヤ人たちは、彼を石殺しにしようとして再び石を取り上げた。
10章32
イエスが彼らに答えた、「父から与えられた多くの良い業を、私はあなたがたに見せた。そのうちの、どの業のゆえに私を石で撃とうというのか」。ユダヤ人たちが彼に答えた、「良い業のために石で撃とうというのではない。冒瀆のためだ。つまりお前は人間でありながら、お前自身を神にしようとしているからだ」。