『スッタニパータ』の理解
386 修行僧は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くならば、執著に縛られるからである。それ故に諸々の〈めざめた人々〉は時ならぬのに出て歩くことはない。387 諸々の色かたち・音声・味・香り・触れられるものは、ひとびとをすっかり酔わせるものである。これらのものに対する欲望を慎んで、定められたときに、朝食を得るために(村に)入れよ。386の時ならぬのに―正午すぎをいう。午後に托鉢に出歩いてはならぬ、というのである。托鉢以外の所用で出歩くことは、南アジア諸国でも許されている。定められたときに―午前中をいう。 ここで「諸々の目ざめた人々は・・・」(buddha, 複数)というが、その原語は「ブッダ」である。それは、過去・現在・未来の三世の諸仏というようなものを考えていたのではなくて、「夜間に外に出歩いてよいか、どうか」ということが問題とされるような普通の人間としての賢者を考えていたのである。仏教が最初に説かれたときには、後生の仏教徒が考えたような「仏」を問題としていたのではない。思慮ある人、求道者としてのブッダを考えていただけなのである。この箇所の前後の関係から見ると、ブッダ(buddha)とビク(bhikkhu)とは、同義語なのである。両者が分離する以前の段階を示している。また求道者としてのbodhisattvaをブッダから区別したのは、後代の思想的所産なのである。いわゆる〈仏教学〉なるものを捨ててかからなければ、『スッタニパータ』を理解することができない。『スッタニパータ』の書写行を疲れたカラダ(老骨)に鞭打って続けています。『スッタニパータ』を理解することができないという教えに拝礼したい気持です。勉強と書写行を続けてきてよかったです。+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:386 修行僧は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くならば、執著に縛られるからである。それ故に諸々の〈めざめた人々〉は時ならぬのに出て歩くことはない。387 諸々の色かたち・音声・味・香り・触れられるものは、ひとびとをすっかり酔わせるものである。これらのものに対する欲望を慎んで、定められたときに、朝食を得るために(村に)入れよ。386の時ならぬのに―正午すぎをいう。午後に托鉢に出歩いてはならぬ、というのである。托鉢以外の所用で出歩くことは、南アジア諸国でも許されている。ここでいう「托鉢・・・AIに入力しているとなぜか〈時ならぬ〉確定が実行されてしまいます。まだ文章を確定するタイミングではない。旅人(The Traveler)さん、ご提示いただいた経典の記述と注解(おそらく中村元訳『スッタニパータ』など)は、初期仏教における「時間(時/非時)」と「欲望への自制」をめぐる非常に重要な戒律・教えを示していますね。経文の構造と解釈のポイント1. 「時」と「非時(時ならぬのに)」の意味 正午(12時)までの時間(時): 托鉢を行い、食事を摂ることが許される時間。 正午以降(非時): 原則として食を求めて外出したり、食事を摂ったりしてはならない時間。仏教の戒律(律蔵)において、正午から翌朝の日の出までは「非時食戒(ひじじきかい)」とされ、正午以降の食事が禁じられていました。したがって、「時ならぬのに歩き廻るな」というのは、「正午を過ぎているのに食を求めてウロウロするな」という具体的な戒めを指しています。なぜ「時ならぬのに出て歩くこと」が禁じられるのか?① 執着と欲望の連鎖(第386・387偈)正午を過ぎても食べ物を求めて街や村を徘徊することは、単なる空腹を超えた「食への貪り(執着)」のあらわれです。 第387偈にあるように、世の中の「色(視覚)・声・香・味・触」という五感の対象は、人間の心を容易に酔わせ、惑わせます。定められた時間外に外を歩き回ることは、これらの感官の欲望に自ら身を晒す危険(執着の縛り)を生むため、自戒が求められたのです。② 社会的・倫理的な信条(生活の節度)修行僧(出家者)は在家の人々の布施によって生活しています。定刻を過ぎてから生活の場を訪ね歩くことは、在家の人々の日常生活の負担や迷惑となり、結果として教団の信用を失うことにも繋がります。外出そのものが全面禁止されているわけではない注解の補足にもある通り、ここで戒められているのはあくまで「不適切な時間(午後の時間帯)に、欲に引かれて食を求める目的で出歩くこと」です。 許される外出: 説法、学問、怪我や病気の治療、あるいは僧伽(教団)に必要な所用など、本来の目的に沿ったものであれば午後であっても問題はありません。 禁じられている本質: 「定められた生活の節度(時)」を乱し、欲望のままに心と行動を拡散させてしまうことへの警鐘です。要約 〈めざめた人々〉(仏陀や真の修行者)が「時ならぬの時に歩かない」のは、心の静寂を守り、欲望の罠に陥らないための「心の節度」を保つためにほかなりません。+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:386 修行僧は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くならば、執著に縛られるからである。それ故に諸々の〈めざめた人々〉は時ならぬのに出て歩くことはない。387 諸々の色かたち・音声・味・香り・触れられるものは、ひとびとをすっかり酔わせるものである。これらのものに対する欲望を慎んで、定められたときに、朝食を得るために(村に)入れよ。386の時ならぬのに―正午すぎをいう。午後に托鉢に出歩いてはならぬ、というのである。托鉢以外の所用で出歩くことは、南アジア諸国でも許されている。ここでいう「托鉢」という意味を説明してください。仏教の伝統(特に初期仏教や上座部仏教)における「托鉢(たくはつ)」とは、修行僧(比丘・びく)が自ら食料を調理・蓄積せず、鉢(はち)を手に携えて人々の住む村や街を巡り、信者から食料(食事)の施しを受ける修行・生活の形式を指します。パーリ語では「ピンダパータ(Piṇḍapāta)」と呼ばれ、「食料(団子状の食べ物)を鉢の中に落とし入れてもらうこと」が原義です。引用されているスッタニパータなどの経典の記述を踏まえると、ここでの托鉢には以下のような重要な意味と役割が含まれています。1. 執著(執着)や欲望を断つための修行仏教僧は自ら食料を栽培・料理・貯蔵することを禁じられています。「明日のために食べ物を残す」「自分の好きなものを選んで料理する」という行為自体が、所有欲や生存への執着、味覚への執着を生むからです。 毎日、その日に与えられたものをただ感謝していただくことで、「食に対する執着や欲望(色・声・味・香・触への酔い)」を制御する訓練となっています。2. 生計の維持と規則正しさ(非所有の徹底)僧侶は自活するための生業(農業や商売など)を持ちません。生計のすべてを施しに頼ることで完全な非所有(無所有)を実践します。 また、「定められたとき(正午まで)」にのみ食事をとる(過午不食:かごふしょく)という戒律を守ることで、生活の規律を保ち、午後からの瞑想や教えの学習に集中する時間を確保します。3. 在家信者との繋がりと「福田(ふくでん)」の機会托鉢は単に食べ物をもらうだけの行為ではありません。僧侶が自ら巡ることで、生活者である信者(在家者)に対して「お布施(布施波羅蜜)をする機会」を提供しています。 仏典では、清浄な修行僧にお布施をすることは「良い功徳の種をまく畑(福田)」に種をまくようなものであり、信者にとっても功徳を積むための大切な宗教的機会と位置づけられています。まとめここで言われている托鉢とは、単なる「乞食(こじき・食料乞い)」ではなく、「欲望を抑え、人々に功徳の機会を与えつつ、一日の定められた時間内で生存に必要な最低限の食事を得るための厳格な宗教的実践」を意味しています。だからこそ、「時ならぬとき(正午以降)」に無駄に村を出歩いて食べ物を求めたり巡ったりすることは、世俗の歓楽や味覚への過剰な執著につながるため厳しく戒められているのです。「仏典では、清浄な修行僧にお布施をすることは「良い功徳の種をまく畑(福田)」に種をまくようなものであり、信者にとっても功徳を積むための大切な宗教的機会と位置づけられています。」このように清浄な修行僧がいる国は繁栄するという。これは信じていい。私は信じる。