「聖書と法華経の旅する物語」の第3章を書いています。2019年頃の文章なので、こんなものかなと思いつつ書き直しています。

*聖書の一節

*法華経の一節

上記の一節はとても部分的です。詩句を章全体のまとめ文としたい。

*詩句

この3構成でいきます。詩句を書こうという発想は当たりでした。

自由文、自由詩を思い思い書いていると楽しい。しかし35節まであるので先が長い。

 

11節

*マタイによる福音書の山上の説教

*白いハスのような聖典:〔第5章 薬草の比喩〕

 

イエス・キリストによる民衆に対する教えと癒しが始まりました。彼の噂が一帯に広まりました。

マタイによる福音書5章から山上で集まった多くの群衆の前でイエス・キリストは口を開き、教え始めた。イエスが下山するまでの8章に到る文章を一体で読む。

 

 白いハスのような聖典:〔第5章 薬草の比喩〕を読むかぎり、大雲の雨が一仏乗の理法であり、普遍的であること。雨水を吸ってなお個々別々の個体の性質に従って生長する植物たちの有り様はよく理解できるし観察できます。

 〔第5章 薬草の比喩〕において、初めて出てくる「三千大千世界」という語句の意味について考えていました。アブラハム、イサク、ヤコブの三人に与えられた約束の地、英語でプロミス ランドです。そういう理解でよいと考えます。

「大きな雲が、三千大千世界のすべてを覆い隠すように」との表現は、出エジプト記の19章でシナイ山における神の到来を思い出します。

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白いハスのような聖典:〔第5章 薬草の比喩〕

 「その時、世尊は尊者マハーカーシャパ及び諸々の大弟子に告げられた、よろしい、よろしい。カーシャパよ、よくぞ如来の真実の功徳を説かれた。まことに言う所のとおりである。如来には、また無量無辺・阿僧祇の功徳が有ることを、あなたたちよ、もし無量の億劫(おくごう)において説き明かすとしても、説き尽くすことはできない。

 カーシャパよ、まさに知るべきである、如来はこれ諸法の王であるから、もし説くならば、すべて虚しからざることがない。一切法において、智慧の方便をもって、これを演説し、その説く所の教えは、すべてことごとく実相に至らしめるのである。如来は、一切の諸法の帰着する所を観知し、また一切衆生の深心の所行をも知って、通達することが自在である。また諸法を窮め尽くして明らかに解析し、多くの衆生に、一切の智慧を示すのである。

 カーシャパよ、比喩を用いれば、三千大千世界の山や川、渓谷、土壌に生ずる所の草木・灌木(かんぼく)及び諸々の薬草は、種類が若干にして、名前・色彩が各々異なって、密雲はあまねく布いて、あまねく三千大千世界を覆い、一時に等しく雨をそそぎ、その潤いはあまねく草木・灌木及び諸々の薬草の小さな根っこ・小さな茎・小さな枝・小さな葉と、中ぐらいの根・中ぐらいの茎・中ぐらいの枝・中ぐらいの葉と、大きな根・大きな茎・大きな枝・大きな葉とを潤し、諸々の樹木の大小は上中下に順応している。各々受ける性質が有り、一雲の雨を降らす所は、その種子・性分にかなって、生長することを得るのである。花・果実は開き実り、一つの土地に生ずる所、一雨の潤す所なりといっても、しかも諸々の草木に、各々差別が有るようなものである。

 カーシャパよ、当に知るべきである、如来もまたまた、このようなものである。世界に出現することが、大雲の起こるように、大きな音声をもって、世界中の神々・人間・アスラに普遍させることは、かの大雲のあまねく三千大千国土を覆うようなものである。」

 

詩句

Hallelujah!

「白いハスのような正しい教えを説いた聖典」の第5章 薬草の比喩はイエス・キリストの山上の説教を知ることで良いと思います。イエスが下山するまでの良い知らせを繰り返して読みましょう。

「薬草」の薬はイエスの癒しを象徴的に表しています。草とは民草であり、民の多いことを草にたとえていう語です。薬草とはイエスと群衆のことです。

大乗仏教の用語はとても理解しづらく、そしてイメージが浮かんでこない。聖書を引きながら、言葉を探し歩く日々、数年、数十年でしょう。

「一切種智を終着点とブッダに到る乗り物」の説明を試みようと思います。一切種智は聖霊です。終着点とは十字架上のイエスの脇腹を刺したローマ兵の槍でしょう。点が槍先に見える。

ブッダに到る乗り物とは十字架にかけられたイエス・キリストです。イエスが十字架にかかることが、十字架上に乗っているという見方です。私はこの観点に賛成です。

教科書としての「現代語訳 法華経」を、サンスクリット語から直接に現代日本語に翻訳した本を詳細に精読を繰り返していくとやっとたどり着くことができる。

この私が今読んでいる「現代語訳 法華経」は2008年に発行出版されて、翌年の2009年に本を買いました。それから現在は2024年ですから、「ブッダに到る乗り物」が「十字架上に乗ったイエス・キリスト」だと知るまでに15年かかったのです。

幸運だったと思いますが、功徳善根を積んできたおかげだと思います。多くの徳本を植えることと何度も強調したい。

真の幸福とは功徳善根を積んでいこうと発心すること。

如来の知見とは、わらしべ長者のように初穂であるわらしべを手で握って話さないこと。

進むべき道はイエスの聖霊が教えてくれる。毎日祈ること、イエスを手で握るイメージを毎朝わらしべ長者のまねをする。日本昔話はある意味で福音書である。