文法訳読式の指導法は乗り越えられなければならない (3) その5 | writfren-edのブログ

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7]「文法・訳読式教授法」は英語コースの中でどのような位置にあるのか

此処までの議論で、「文法・訳読式教授法」と呼ばれている方法論が必ずしも日本の英語教育の主流にあった訳ではなく、「文法・翻訳式教授法」 (いわゆる G-TM) もまたしかりということが分かったと言えます。このことは、草創期のドイツの G-TM 同様、この日本でも上記二つの典型的 G-T で行われていた英語の授業は少なく、皆教師の力量と生徒の実態との相関関係の中で、工夫という名の何らかの変更が加えられ、広がって ‘いた’ し、現在も ‘いる’ と言っても良いのではないでしょうか。

 

もっとも、そうした変更を加えた様々なスタイルの G-T でも、十分な英語学習の効果を上げていれば何も問題はありません。ところが、ヨーロッパでも G-T 確立後直ぐに DM (direct method) が現れ、日本でも先の大戦を境に複数の教授法が乱立する状況になっている現状をみても、後で議論しますが、最早「文法・訳読式教授法」と呼ばれる G-T の基本思想をそのままに、その練習方法と授業構成の方法のみに頼って英語コースを編成することは無理な情勢になっていると云えるでしょう。

 

それでも、高校の授業については、現在大学受験校を筆頭に G-T が主流を占めていると思えるような報告が多い状況もあります。しかし、指導要領の内容はそうでない方法も使うことも求めています。そのような中で、どちらかと言えば G-T の優位性とその徹底を主張する側からは、‘会話偏重の取組みが進んだ結果、英語が分からない、英語が嫌いという生徒が増加している’ 旨の指摘がなされています。ところが不思議なことに、中学検定教科書が dialogue  のテキストを多用(すべてが dialogue ではない)するようになる以前には、‘文章主体のテキストの和訳と文法ルールの勉強ばかりしていて、生徒は興味が持てず、英語が分からない、英語が嫌いだという声が多い’ という主張が多かったことも覚えています。両極の主張がほぼ同じ問題指摘であれば、問題の本質は教授法や教科書には無い可能性があり、この立場からの議論をいくら行っても対立するだけで余り意味はないと云えるでしょう。

 

尤も、受験校の教師が「文法訳読式の指導法は乗り越えられなければならない (3) その3」で触れたように、G-T が本質的には自分の現在の英語力よりレベルの高いものに取り組むという性質を持っているが故に、このことを教授法選択の決定的な理由としているなら話は別です。しかし、その場合、現実に話し手の存在する言語を教えなければならない現在の外国語教育への要求を満たすものではなく、既に様々な議論が行われ分かっているように問題指摘の方が多い教授法ということになります。この点で、現在の外国語教育が基礎を置く考え方は、現在のレベルよりもほんの少しだけ高いレベルの教材にアタックしながら、言葉の運用能力を学ぶと同時に言語も学ぶという立ち位置とは違う、言語学習以外の要素の方が重要視されている特殊な教授法ということになるのではないかと思えます(これが受験英語の本質?)。言い換えれば、究極的にはlearning language の為の言語学習活動に終始するか、learning language と using language の両方の言語学習活動を組合せて言語習得を目指すかの違いということになります。

 

運用能力を伴う言語習得への方向性は、「文法訳読式の指導法は乗り越えられなければならない (3) その4」でも少し触れているように、現在では ‘‘唯一の教授法で言語学習の全てをカバーすることは出来ない” という考え方の定着にあり、当然、G-T の存在も ‘折衷主義 (eclecticism)’  の中でその長所を組み合わせるべき複数の教授法の中の一つという位置付けにあることは確かと云えるでしょう。

 

なぜ eclecticismなのか

ここで、ここまで余り詳しい説明も加えず使い続けて来た  ‘折衷主義 (eclecticism) ’  について簡単に確認して置きたいと思います。

 

19世紀後半の reform movement  以来、主に DM の流れの中から Palmer の Oral Method など、様々なシステム化された教授法が出てきます。そして、G-T が発展過程にあった時代の ‘歴史言語学’ から、20世紀に入ると共時的な分析を行う ‘記述言語学’ に研究の重点がシフトします。当然、その新しい情報が応用言語学分野の研究にも取り込まれ、Audio-lingual Method 等の新しい教授法の裏付けにも使われることになります。

 

しかし、そうした教授法も、ある特定の場面では上手く作動しても、全ての学習者に対して上手く行く訳ではありません。戦前までの日本に於ける Oral Method の採用も汎用性という点では不十分が残っています。又、初めてきちんと組織化された教授法とされるアメリカの Audio-lingual Method は、元来 アメリカ軍の戦争遂行を後押しするため、スタッフに派兵する国の言語を学習させる目的で開発された、別の言葉を使えば、湯水のごとく資金を注いだ方法論です。従って、その中心的理論である行動主義  (behaviorism) の ‘習慣づけ’ と構造言語学の bottom-up の分析手法 (contrastive analysis) を組み合わせた ‘pattern practice’ を中心に置き、参加者は English village 方式で食住を共にして、oral work のみならず、四技能に亘って終日学習するというものでした。戦後1950~60年代に一般に使用し、主にスペイン語・ロシア語等々の学習に利用したのですが、結果は日本に於ける Oral Approach という名の Audio-lingual Method と同じようなものだったということになります。そして、日本では com-

municative approach 導入の際も同じ失敗を繰り返したのですが、これについては、今は触れないことにします。

 

G-T、DM や Oral Method の不十分もさることながら、始めてシステム化して応用した audio-lingualism の不備などを受けて、1970年頃には既に best method を探して方法論を探る動きが出てきます。この間に起こったことの記述は Stern (1980, pp. 477-513) に概略のことが書かれていますので、興味のある人は手始めにここから参照してみて下さい。要するに結論は、best method は無いということにあり、以下の様な整理がなされます:

 

  ① どの教授法が一番良いかという具体的証拠はない;

  ② 教授法間の似ている点の方が違っている点よりも大きい;

  ③ 教師は自分ではある method に従っていると言っている割には、一つの method に固執

          していない。むしろ違う method の色々な要素を混ぜ合わせている。

 

こうなると、教授法分野の課題は、‘自分達の教える学習者に合った、自分達の方法を創り出すために、どの教授法 (効果が実証されているもの/その一部分) を、如何に組み合わせるか・混ぜ合わせるか’ ということになります。そして、再度述べれば、G-T も又その混ぜ合わせるべき複数の方法論の内の一つということになり、one of them の意味はここにあります。

 

その結果、課題に答えるためには、‘目標言語の何を教えるか’  及び  ‘(第二言語)学習者はどういう人間なのか’ ということの把握が重要となり、研究・検討の対象と課題がそちらにシフトして行きます。したがって、現在 では syllabus designing language learner(s) が焦点となり、教材の内容・構成や配列の方法が検討されたり、学習者の年齢、使う learning/com- munication strategy、過去の学習経験、好む学習スタイル、motivation 等の言語習得に関わる様々な側面の研究・評価が行われ、その取り組みが継続中ということになります。

 

学校に於ける英語教育ではどのような形で G-T 手法の授業が行われる可能性があるか

このように、海外では1980年代には既に ‘ただ一つの教授法では立ちゆかない’ という結論が出ていた中で、最近いわゆる G-T と呼ばれる教授法に対する批判と思える以下の二つの記事が目に止まりました (スペースの関係で部分的引用ですがご容赦下さい)。

 

  『ⓐ 中学校では最初の中間テストが終わり、続々と結果が返却されてきた。私はこの1週

     間はいつになく気持ちが穏やかでない、というか憤っている。

     いつもはできるだけ丁寧に文章を書こうとしてるが、今日はそうはいかない。

     まず最初に声を大にして言いたい、

 

            『文法完璧主義、減点主義の英語のテストなんていい加減にやめませんか?』

 

       英語を始めたばかりの中学1年生を相手に、“a/an がないから全部バツ”、“複数形のsが

           ついてないから全部バツ”、 “一般動詞の否定文を問うている問題でも目的語のスペルが

           ちょっとちがうから全部バツ”、“be動詞の文から一般動詞の文に書き換えさせる問題

           で、前置詞ちがうから全部バツ”

 

           …ちょっとちょっと、なんでいまだにこんなことに拘っているんだ?

           そんなことで、胸膨らませて英語を学び始めた学習者に自信を失わせて、一体何がした

           い?

 

           今回の学習指導要領改訂、教科書の刷新のメッセージが何なのかわかっているのか?

           文法がわかってないとちゃんとした英語は使えない?そんなの嘘八百。逆に、文法的に

           正しいかどうかばかり気にしているからいつまでたっても簡単な一歩が踏み出せないん

           でしょ?

                (芽を摘むな、英語教師 ’2021-06-05)』

 

  『ⓑ  最近の若い教員の中には留学経験のある人も珍しくなく、… 略 … TEFL やTESOL な

              どの本場の「英語教授法理論」の資格を取れるプログラム … 略 … 英語圏の大学院に

              行っていたという人もいます。 … 略 … いざ日本に帰ってきて教育現場に入ると、

              局は保守的な英語教員と同じような「ただ英語を日本語に訳すだけ」の工夫のない授

              業に終わってしまうケースが少なくありません。… 略 … 実は現場の英語教育改革に

             はいくつかの障壁が立ちふさがっているのです。

              

              なぜ「文法偏重」のスタイルを変えたくてもできないのか?

                     障壁その1:長老たちに合わせなければならない 

                     障壁その2:まともな教科書はないのか?   

                     障壁その3:授業とは関係のない業務が多い

 

                                   (‘なぜ日本の英語教育は「文法偏重」から脱却できないのか?’

                                Posted on 2018年2月12日by sonotasan)

 

ⓐⓑとも現状の英語教育が抱える問題点の指摘とその改革への要望の実現を阻んでいると思えるG-T 手法の教授法に対する批判のように思えます。しかし、良く読んでみると、既述のように教授法そのものだけでなく、G-T 手法に頼る方向に流れやすいようなコース運営や授業を行っている教師と指導要領を単なる ‘絵に描いた餅’ にしてしまうような事態を作り出している学校行政に対する不満でもあるように思えます。何故なら、これらの問題について、筆者は以下のような感想や疑問を持っているからです:

 

   ⓐについては:

 

       - 学校に於ける通常のテストは achievement test であり、授業で教えたことが身

                  に付ついているかを試すものであるが、授業の方針とテストの方針の関係の検討は

                  きちんと行ったのだろうか;

             - たとえ検定教科書を使って授業計画を立てるとしても、主に learning language 

                   のための練習を行う部分と using language (= exercises in 4 skills/com- 

                   municative practice) のための練習を行う部分の区別、更に receptive

                   skills (listening/reading) を扱うのか productive skills (speaking/writing) を

                   扱うのかの区別を lesson 末尾の activity や練習問題も含めて検討した上でプラ

                   ンし、授業中や宿題の activity や exercise の取捨選択・追加等が行われるであ

                   ろう。そうした作業が行われていれば、テスト問題作成の際にエラーの扱いも含

       め検討されるのではないだろうか;

             - G-Tの特徴である正誤を問う練習問題の考え方の延長上で、何の検討も無く正誤を

                   問う問題が主体のテストが作られている可能性がある。しかし、実際には lan-

                   guage conscious の問題があり、入門期は云うに及ばず中級に至っても  ‘間違い

                   を直すこと’  が習得を止める可能性が指摘されている。Error correction は本来 

                   writing/speaking (productive skills) の授業の際に最も細かく検討され、減点の

                   方法なども決まる。こうしたことが行われていれば、当然 test writing の際も考

                   慮され、テスト問題の質が変わると思うのだが、そうした議論は出来ているのだ

                   ろうか。

 

現在は小学校でも教科として英語を教えていますが、この記事の書かれた 2018年当時は移行期に入るところだったでしょう。1年生ならば入門期に当たります。従って、英語科や担当教師が通常英語教育の分野で議論されている事柄を検討したか、又はそうした視点を持っているのかについて疑問を持つことになります。‘1980年代に既に折衷主義に舵が切られていたのに、まだか...’  という気持ちもあるのですが...。

 

そして、これに対しては、筆者の以下の ⓑ に対する感想や意見が一つの回答を与えてくれと思います。

 

   ⓑについては:

 

         最近は、外国で TESOL  や TEFL を学んだ教師も増えているようだが、まだまだそ

     の数は、‘障壁その1’ を打ち破れるほどではないと思える。大抵の場合、現役教師が

     この分野について学ぼうとして補助金等を探してみても十分なものは無く、勉強時間

     の保証は無しと云え、これでは学位レベルのコースの履修は無理である。現役教師の

     再研修という点では現状と変わらない為 (廃止された ‘免許証更新制度’ も失敗してい

     る)、結局何も変わらない可能性が高い。

 

               日本の教員免許制度の中で行われている大学の教師教育(教育大学は、一般の大学よ

     りも詳細に亘るが)や in-service の教員研修が抱えるこの分野の教師の専門的知識

     に関わる弱点に加え、‘障壁その1’・ ‘障壁その3’  の両方に関係する  ‘職場の団結力’ 

     の問題がある。英語科に限らず教育内容・授業内容が教科の中で議論になりにくい傾

     向である (障壁その1) 。そして、新しい試みをする教師は、常に職場の少数派であ

     る。

 

           また、多くの場合、新しい考え方が出されると、それは否定されず、沈黙の拒絶、或

     いは実行する際の問題点の指摘の列挙という形の議論減速行為という形で現れ、其処

     に座り込むという問題もある。民主主義であり、時間を掛けて議論できる場合は良い

     ことだが、どちらにしても、こうした事態が、積極的な変革の方向性を皆で受け流し

     てしまえるような土壌が出来上がることにつながるという側面もある。もっと問題な

     のは、年度が代わると、それまでの議論がリセットされてしまう傾向もあり、その底

     流では、多くの場合、職場の政治状況も影響したりする。

 

            ‘障壁その3’ に関しては、確かに授業に関係のない雑務が多く、残業代を含む労働条

     件の改善は急務なのだが、それだけでは解決出来ない可能性が大きいと思える。即

     ち、教育活動が本質的に holistic であるのに、学校運営上、全体の教育活動の中では

     比較的領域の狭い教科指導と全校に関わる部活・行事・クラス経営を含む生活指導領

     域に分けて、別々にシステム化されており、全校に関わる後者の方が一人の教員の教

     育活動の中でも、学校運営の上でも比重が大きいという問題がある。教員は皆、常時

     二足の草鞋を履いていることから、一人の人間の中でこの比重の違いのバランスを取

     るのは意外に大きなストレスとなる。

 

          そして、他教科の中身に口は出せないが、生活指導領域は皆対等で、全員に同じ義務

     と責任が出て来ることから、誰もが意見を述べることが出来て、意見統一が難しい場

     合も多い。筆者の経験では多くは ‘生徒を手足として使うのか’・‘生徒にプランさせ実

     行させるのか’(・‘いかに手を抜くか’ もあるには、あるが...)の考え方の違いが

     根底にある。また、この活動領域は、‘江戸の敵を長崎で討つ’ 良い機会でもあるとい

     う問題が絡みつく可能性もある。生活指導がらみの問題は年間を通じて恒常的に存在

     することから、この分野に関わる小委員会や部会の会議と職員会議は、文書作成とい

     う事務処理を伴うため無意識の内にストレスの宝庫となり得る。

 

               恐らく、こうした問題も解決しないと、少しばかりの、自己研修の為の補助金の支給

       や事務・雑務処理の削減をして貰っても、集中的に勉強する意欲は湧いてこないよう

       な気がする。

 

このように、‘障壁その2’ に関わる議論をする前に、‘障壁1・3’ のような外的要素と言える部分に問題が顕在化する傾向にある学校では、本来は学校当局者が解決に腐心するべき事柄に原因のある様々な意見の相違や齟齬が、各教師に body blow の様に効いて来て大きなストレスになる可能性があります。私見では意見対立は必ずしも ‘悪’ ではなく、エネルギーの根源でもありますので、これを乗り越える知恵が学校当局者に欲しいということはあるのですが...。取り分け全ての教育活動の動きがスムーズにならず、生徒の動きに対して後手に回った場合の意見対立の中では、その疲労は極限になり、授業準備にまで手が回らなくなるという形で教師を蝕む場合が意外に多いように思っているのは筆者だけでしょうか。

 

G-T 的な手法の授業が行われているから英語が楽しくないと思われているように見える現状の背景に、教授法とは直接関係の無い、英語科の教育の中身や学校運営に関わる仕事の仕方、学校全体の教育活動と関連する問題が横たわっていることは不幸なことと言わなければならないでしょう。

 

まともでない教科書が授業の中身に影響して授業を駄目にするのか

上記のように、現在教えている心ある英語教師は、既に確立し、殆どの場合、筆者の見解では ‘超保守’ とも言えるような ‘村社会’ の論理で運営されている学校教育の中で、もがきながら、新しい方向を目指そうとしていると言えます。

 

そして、英語教育を取り巻く外的諸要因の他に、ⓑ の投稿者によって、もう一つの英語教育内部の問題として、‘検定教科書’ の問題が提起されています。そこで、この問題について検討した上で、再度 G-T の問題に触れたいと思います。

 

小学校・中学校・高校の場合、教師の眼前には検定教科書という名の ‘mandatory syllabus と教材を兼ねる素材’ が存在します。この義務付けは、中学の場合その縛りは非常に厳しいものとなります (義務教育であることと同時に、高校受験が同じ問題を使って横一線で行われるからでしょう)。高校の場合、比較的緩やかですが、英語科が教科書を決めてしまえば、採用前の議論の際に自分は別の教科書を推したとしても、それに従わなければなりません。

 

この状況の中で、英語の授業を組み立てるのに必要な resource となる ‘まともな教科書はないのか? (障壁その2) ’ との問いが発せられるということになります。教科書を使わないと追及を受ける可能性が大きいにも拘わらず、こうした教科書が本質的に持っている ‘帯に短し、襷に長し’ の要素が、教師の授業プランの足枷にもなるからです。この問題に係わる部分の ⓑ の投稿者の記述は以下のようなものです:

     

   『とにかくまともな教科書の少ない事少ない事 _| ̄|○

    比較的マシな教科書を使えたクラスの授業ではそこそこ手応えはあったのですが、もら

            った教科書の中でも最低レベルのやつを使わなければならなかったクラスに本当に申し

            訳なかった。

    そのしょーもない教科書を使わなければならなかったクラスには、すごく勉強熱心でほ

            ぼ毎時間質問に来る生徒がいて、教科書のとある部分が何度見てもワケわからないみた

            いな事を不満気味な表情で言っていました。僕は「教科書というのはね、とてもよくで

            きているものなのだから、ちゃんと注意して読めばきっとわかるはずだよ。もう一度よ

            く読んでみなさい」みたいな、教科書を正当化するようなセリフはとても言えなかった

            し、実際その子が指摘していた教科書の部分は確かに酷かったので、「たしかにこの教

            科書は『なぜそこがそうなるのか』の説明もロクに書かれていないし不親切だね。既に

            英語をよく知っている人じゃなければ読んでもよくわからない説明の仕方で、まだ英語

            を勉強中の人には極めて分かりにくい。お世辞にもおもしろい内容でもないし、ために

            なる内容の教科書とも言えない。正直言うと僕もこの教科書はあんまりいいとは思って

            ないし、この教科書を見て特に得るものがないと感じても、それは君が悪いのではない

            よ」と、正直に思った事を言いました。するとその子は、「そうですよね!何でこんな

            教科書で勉強しなければいけないのかと心底疑問に思っていました!」と安心した表情

            を見せてました。(ちなみにこの子は成績は優秀で、できないから教科書に八つ当たり

            していたわけではありません)

    このような「しょーもない教科書を使って教えなければならないという制約」がある

            と、「最新の英語教授法」のノウハウを持っていようが、英語を日本語に訳すだけの工

            夫のない授業スタイルしか知らなかろうが、あまり関係なくなってしまうのです。

    ちなみに、教科書のせいで授業の質が下がるのは僕の授業だけではありませんでした。

            当時僕が勤めていた高校にはイギリスの大学に英語指導法の研修に行っていた先生がい

            ました。その先生はそこで英語のみを使って指示を出し生徒たちにも英語だけでコミュ

            ニケーションを取らせるための指導技術を学んできていたので、ある日その先生の授業

            を見学させてもらいました。

    授業の始めは、教科書は使わずにその先生がイギリスで学んできた事をヒントに作り出

            したオリジナルのアクティビティを中心にやりました。すると生徒たちは活発に英語で

            コミュニケーションを取り合い、僕はこの先生の指導技術の高さを感じたのでした。

    ところが、この先生が「検定教科書」を使い始めると、急に生徒たちから活気が消えて

             いくのが手に取るようにわかりました。僕が教員の目線で見ても急に授業がつまらな

             くなった感じがしましたし、実際この辺りを境に何人かの生徒が授業と関係ない事や

             居眠りをし始めました。生徒たちは机を合わせて4人1組のグループに分かれていたの

             で、各グループを見て回ったのですが、やはりその時も「この教科書、生徒に何をさ

             せたいのかよくわからんです」と教科書に不満を持つ生徒が見られました。

    文部科学省は口先では「旧来の英語教育から方針を切り替え、リーディング、リスニン

            グ、ライティング、スピーキングの4技能全てにバランスの取れた授業をすべきであ

            る」とか言っている割には、検定教科書の中身はいまだに昔ながらの「文法訳読方式」

    で授業を進める事を前提としたような内容になっています。つまり、文部科学省が口で

    言ってくる要求と、実際にこちらに提供してくる教材に矛盾が生じており、それが現場

    教員の足枷になっているのです。』

             (‘なぜ日本の英語教育は「文法偏重」から脱却できないのか?’

Posted o2018年2月12日by sonotasan)

 

ここでは、教科書が文部科学省の方針を実現する形で書かれていないということについて、二つの具体的事実が挙げられています。それは:

 

     ①    生徒も何を目的としているか分からない内容であること;

     ②    英国で研修を受けてきた教師でも、自由なプランの部分では成功しているにも

       関わらず、検定教科書を取り上げる段階になると、学習への集中力を維持できな

                   い。

 

筆者も、自身の経験という background knowledge に拠れば同じような感想を持つことも多いので、この文章を読んでいると諸手を挙げて賛成したくなります。しかし、文章は co-text のみで、situational context の情報(臨場情報)も無いことを考慮すると完璧に理解できる訳も無いので、以下のような考えが浮かんできます:

 

     ⓵ 中間・期末の試験の準備という観点では、生徒は教科書のポイントになる部分を

                   意識的に知っている方が良いとは思う。しかし語学の授業に於いて一回一回の授

                   業の中で、ある activity の目的を生徒が知っている必要があるかは不明。

                      但し、面白くない教科書が出来上がるプロセスには、筆者の知る限り教科書が

                   創り出されるプロセスにも問題がある。新しい教科書が出来上がると出版社は白

                   表紙の本を作り、色々な学校に持って行き、実際に教える教師の意見を聞いて回

                   る。そうした意見を集約して最終版が出来上がると、練習部分を中心に、編集者

                   や執筆者が意図していたものとは異なる language focused の、正誤だけが問題

                   となる G-T 的なものに変わってしまい、会議で「昔の教科書に戻っているではな

                   いか」という抗議が行われることもある。出版社は売れない教科書は作らないの

                   で、今後もこの傾向は変わらないだろう。それでも、中学用の教科書は頑張って

                   いるという声もある。

          ⓶  英国で習った方法が上手く作動している事実は理解できるが、次の教科書を使っ

                   た作業との関連はあったのか、又、教科書のどの部分を取り上げた時に意欲が無

                   くなったのかは不明。もし main text の訳読の作業の場合、生徒を一人ずつ指名

                   し、和訳を求めたかどうかも不明。もし、この方法であれば、一気に motiva-

        tion が下がることが予想される。四人のグループになっているという条件を生か

                   す方法は検討されたのか。

 

教科書の執筆・編集を行う側と印刷・製本・販売を行う側が相克する関係にある以上、英語科と教師は、決められた教科書を単に adopt’ して教えるだけでなく、自分達の学校の生徒に合うように教科書の内容を adapt’ し、必要があれば各課の末尾にある exercise, activity, task を新しく  create’ して追加し、 コース及び個々の授業の中身を決めて行く必要があると云えるでしょう。

 

教科書を adopt するだけでそのまま使う場合、‘教科書教える’ ことになりますから、余り問題は起こらないのかも知れません (G-T 手法採用の場合、この方向性が採り易いことは事実)。しかし、‘教科書教える’ 場合、exercise, activity, task 、或いは各課の本文 (main texts) までも adapt したり、 create したりする為、その教科書の仕組みを分析し、独自の方針を立て、その方針に沿って adapt/create しなければなりません。

 

そこで、次に授業の構成 (lesson planning) との関わりで、英国で教授法を学んだ教師の授業についての上記の ⓶ の問題を少し考えてみたいと思います。

 

この件については、既に書いてある部分もあるのですが、

 

      ⑴    授業の始めオリジナル・アクティビティが単なる warming-up activity の位置

                   付けなのか、何か他の意図があるのか;

      ⑵    教科書で取り上げている箇所が本文なのか、練習部分なのか;

                ⑶    本文ならば何をするのか、reading か、和訳か;

          ⑷    練習問題部分ならどのような練習問題なのか

 

のようなことが、まず頭に浮かびます。そして、

 

          ⑴    単なる warming-up activity であれば、終わってしまえば、次にはつながらな

                    い。次の部分につなげる意図がある場合、vocabulary work を兼ねるような 

                    communicative activity に属する言語活動があり得る;

          ⑵    教科書の本文であれば、それを使って何をするかが問題で、(1) の oral work 

                    の続きであると仮定すれば、テキストの内容に関する discussion のような形が

                    想定できる。その場合、学習者が skimming や scanning がある程度出来、

                    oral work にも少しは慣れていることが前提となる;

          ⑶    もし、本文の reading の場合、末尾に comprehension questions が付いてい

                    れば、それを使うことになるし、無ければ自前のものを追加する必要がある。も

                    し、和訳ならば、何らかの作業を伴うものに改変しないと、‘教師の指名+生徒の

                    和訳の発表’ という形になり、既に触れたように、一気に motivation が下が

                    り、放棄する者も出る可能性がある;

      ⑷    つぎの作業が、練習問題部分への取組みなら、宿題、時間を区切って取り組ま

                    せ、板書などで報告するような形が多くなるだろうが、慣れると集中力は維持で

                    きないだろう。内容を改変し、ゲーム化する。又は、練習の形態を変え pair 

                    work や group work 化する等の手を加えることが考えられる。その場合、task 

                    の作業内容を理解させてからスタートする必要があるが、この時に introduc- 

                    tion としての ‘立ち上がりのデモンストレーション’ のような単純な作業のプラン

                    が意外に難しいので、注意してプランする必要がある。また、ここで喋り過ぎた

                    り、注意をそらすような行動を取って、動きを潰してしまうケースはよく見られ

                    る。

 

ということで、教科書の文章や練習問題をそのまま使わず、内容と学習者が行う言語活動を検討し、目的に合わせて task 化することも良い方法のように思えます。そして、メモ程度のもので授業が出来るようになるまでは、ある程度詳細な lesson plan を書く必要が出てきます。その際 ‘単なる見よう、見まね’ ではない、授業の組み立て方や exercise, activity, task の選択などを行う為の理論や理屈も必要になります。その時、様々な教授法の背景にある教授理論の知識も必要ということになるでしょう。

 

尤も、先に述べた職場の教育労働条件の悪化による body blow を受けて英語科内の何人かの教員が疲弊している場合は、科内の相互協力態勢も必要ですから、‘団結力’ が必要になります。以下の syllabus designing の作業が教員間のコンセンサスを創り出す効果も兼ね備えることから、‘どちらが鶏か、どちらが卵か’ は不明ですが、問題を抱える職場は、出来るところから手を付ける必要があるように思えます。

 

 

次回は、「8] Syllabus と Lesson planの詳細な検討の必要性と ‘ececticism (折衷主義)’」です。