文法訳読式の指導法は乗り越えられなければならない (3) その4 | writfren-edのブログ

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6] 「文法・訳読式教授法」は主流の教授法だったのか:

ここまでの検討の中で、大正時代までには既に確立していた筈の日本独自の「文法・訳読式教授法」と外来の「文法・翻訳式教授法(G-TM)」の違いは、本質的には両方の教授法の中で行われる中核の作業である日英語相互間の ‘変換’ という意味での ‘翻訳’ の質の違いとその利用のされ方の違いであるように思えます。そこで、議論を始める前に、以下に簡単に整理しておきたいと思います:

 

「文法・訳読式教授法」:

 - 英文の構造に単語を当て嵌めた機械的翻訳から始め、内容の深い理解を目指して、日英両 

       語の文法知識を駆使し、吟味を繰り返して日本語に変換するという形の翻訳(=英文解

       釈);

 - 完全に日本語で理解した内容を日本語化して自家薬籠中のものとして、以後の自身の思考

   や表現に活かす;

 - 翻訳に成功することによって、その有用性に確信を得た文法の知識は、再度使われる (但

       し、学習者の意識としては副産物程度の可能性が強い)

 

「文法・翻訳式教授法」:

   - 英語の学習が主目的(現代語学習の場合の必然的目的)であり、翻訳は英文の構造に沿っ

       て、直訳の形で日本語に移す; 英文の構造に単語を当て嵌めた機械的翻訳から始めるが基本

   であるが、どのレベルの理解度で翻訳を止めるかは、学習者に任される;

   - 訳文(章)は、英文(章)の意味のチェックに使われる (meaning check);

   - 翻訳に成功することによって、有用性に確信を得た文法の知識は、再度使われる

       (但し、学習者の意識としては、目的の達成となる筈)

 

もし、上記のような整理の仕方が有効であるとすれば、「文法・訳読式教授法」は日本の語学教育界で G-T とされている方法論の中で最も深いレベルの内容理解をもたらす最良の方法ということになるように思われます。その場合、この方法論は確立後に、その普及活動が積極的に行われたのかということが気になります。しかし、こうした事柄についても詳細なリサーチが行われ、データが存在する可能性は低いので、ここでは常識の範囲内で考えてみたいと思います。

 

歴史的に見て「文法・訳読式教授法」は浸透したと云えるのか

明治以降の行政文書なりの詳細な検討が無いことには決定的なことは言えないのですが、外山(1976)によれば、明治30年代中盤(1900年頃)には ‘「文法・翻訳」時代’ になっていたようです。またもや「翻訳」、「訳読」、「文法」という日本語の使い分けが曖昧さを生みます。しかし、ここまでに、この三語の意味にこだわって何度も念押しをしながら、オランダ語学習の「文法=訳読」法と「文法・訳読式教授法」、及び「文法・翻訳式教授法 (外来の G-TM ) を絡めた結構長い議論をしていますので、差異は明確と思います。外山が指摘する ‘「文法・翻訳」時代’ の方法論が、平賀の云う「文法・訳読式教授法」なのか、それとも外来の「文法・翻訳式教授法」の変形なのか判然としませんが、この時期に双方が影響し合って、前者が確立して行ったと考えるのが自然でしょう。

 

この時期の明治30年 (1897年 ) に東京外国語学校、31年に東京師範学校、33年女子英学塾 (=津田塾) 等という形で中等教育の英語教員養成機関が幾つも立ち上がっています。従って、教師養成という形でこの方法論の普及も行われていた可能性があります。しかし、全国230を超える中学校の英語教育において、「文法・訳読式教授法」がどれほどの影響力を持っていたかは、はっきりしません。僅か7年ほど前の明治23年頃には変則英語教授法の教育を受けた慶應義塾の卒業生が多数おり、教員として重宝されていた現実を考えれば、譬えこの和製 G-T を学んだ教師が居ても、15年後の明治末までにこうした方法論が十分浸透したとは思えません。そして、1927年(昭和2年)には戦争に向う時局の悪化も手伝って、英語廃止論も出て来る事態となっており、英語教育はある程度下火になっているようです。

 

上記から明治30年代中盤から昭和20年代中盤(1900年頃~1930年頃)の30年間に「文法・訳読式教授法」の普及活動が行われていたとしても、どれ程積極的、組織的であったかは明確ではないように思われます。そして、この期間にも大正11年(1922年)~昭和11年(1936年)までの約10年間は H. Palmer の在日中であり、 Oral Method への取組みも行われたことから、訳読方式への批判も確実に存在していたことになります。

 

このような歴史的流れに加え、現在 G-T スタイルの授業を行っている教師の授業を見ても、「文法・訳読式教授法」の手法を熟知して授業を行っているのか不明の場合が多い現実があります。教員養成が安上がりで簡単であるというこの方法論の特徴を考慮すると、むしろ、教えるクラスの状況に合わせ、適当につまみ食いされ、各々の教師に都合の良い変種として浸透して行ったように思えるのは筆者だけでしょうか。

 

また、戦後四半世紀程経過した頃に英語教育を受けた筆者の記憶では、田舎の場合中学校で英語を教えていた教師の教員免許が副免(許)で、普段は理科等の他科目を教えていた現実も結構多かったということもあります。このような状況の中で、戦後 Oral Approach という名の Audio-Lingualism の流入を手始めに、英会話ブーム等で DM (direct method) 系の教授法も巷でもてはやされて学校教育にも一定の影響を与え、Cognitive Code Method 等も紹介されるという形の約30年を経て、1980年代中盤に communicative の方法論が試みられる時代になります。そして、現在の教授法に対する考え方からすれば、この間に「文法・訳読式教授法」は、eclectic に組み合わせることが推奨されている様々な教授法の中の ‘one of them’ の位置取りになっていったように思えます。従って、明治30年頃~昭和に掛る30年間で日本の中等教育の中に浸透していたかどうかには大いに疑問があるように思えます。

 

現実の授業を振り返ってみて「文法・訳読式教授法」は浸透したのか

日本の英語教育の流れの中においては、「文法・訳読式教授法」は、その浸透の度合に関して上記のようなことが云えそうなのですが、実際の授業ではどのように扱われて来たのでしょうか。

 

まず、筆者自身の経験から触れておきましょう。中学校時代の授業は教師が訳してくれて、それを音読した覚えはあるのですが、余り記憶がありません。2・3年次の若い先生は Oral Ap‐proach らしきものを試していたような気がします。しかし、繰り返し練習(pattern practice だったことは確かです)が目新しいだけで、現在の知識を以って振り返ると、事前の vocabu-

lary checking は無く、pair work に発展させることも無し。ということで、直ぐに飽きる授業だったと云えます。授業のそれ以外の部分では日本語訳をやっていたような気がします。やはり、何らかの形の G-T手法の授業を受けて英語を身に付けた教師が短期の研修を受ける程度で直ぐに応用することには無理があったのだろうという印象を持っています。

 

そこで、高校時代の授業になりますが、現在も進学校では文科省の科目割は無視して、リーダーと文法のクラスを分けている学校も多いようですが、同様の科目構成でした。当時は文法の検定教科書が存在していました。英語科の中では文法のクラスとリーダーのクラス相互の連絡はないようで、双方とも教科書の順序に従ってコースが進行する形が採られていました。当然、これを統合する責任は生徒に行くことになります。

 

文法では、(ほぼ教科書の記述を読むだけの) 簡単なルール説明と単文、重文、複文の和文英訳のみ。いわゆる passage の英訳は無し。語彙については生徒が自分で辞書を引くのみで、習得のための練習も全く無し。数名の生徒が指名され、当てられた和文英訳の答を板書し、教師が直して、正解を書き写すと、又同じ作業の繰り返しで、1時間に何サイクルか続くというものです。

 

リーダーの方は、最初に当日習う部分 2~3ページのテープ録音を1回聞かせ、2回目は再生を一時停止し、クラスで後についてコーラス・リーディングを行なう。次にひとりの生徒に読ませ、教師が止めた所 (一文、数文、1段落があるが教師によって違う) までの英文和訳をさせ、必要があればコメントするというものです。クラスは只々ノートに聞いたことを書くのみです。

 

担当教師による若干の違いはありましたが、文法・リーダーの両方の授業は、恐らく教師自身が過去に受けた授業を基にしているものと思われます。そして、このやり方は、英語科の教師に共通していましたので、以下のことが、戦前に中等教育を終え、師範学校等の専門学校又は新制大学を終えた教師が主力の時代の特徴かも知れません:

 

   ①    語彙の学習は予習扱いである。日英対照語彙の暗記が基本だからであろう;

   ②    練習問題は宿題。教室で取り組んだことは一度もなし。教室での作業は解答のチェ

      ックと正解の書き写しのみ;

   ③    和文英訳の解答チェックは全てのエラーを直す形で、細部の正誤に拘る;

   ④    英文和訳は、直訳か、意訳かに余り興味がない。内容が分かっていれば良いようで

      ある。大多数の生徒が教科書ガイドにある日本語訳をみて答えて、その場を凌ぐだ

                けの対応;

   ⑤    サイド・リーダーのクラスも、通常練習問題が無いだけで、やり方は同じ。

 

また、上記のような授業スタイルは筆者が高校で教えていた時に年輩の教師が行っていた授業の特徴の一部でもあり、強く印象に残っていることも付け加えておきたいと思います。

 

次に、ブログで見つけた以下の G-T 授業の批判記事を紹介して、若干の検討をしてみたいと思います:

 

   『文法訳読式は薬毒式

    タイトルはありがちな感じですが、僕が学部生 (教育学部) だったとき (約15年前) に

    は教授が文法訳読式からの脱却を掲げてました。

 

    僕自身の中高生活を振り返っても、① 左側に英文を書き写して、② その下に新出単語 

    とその意味を辞書で調べさせ、③ 右ページに予習として英文の和訳を書き、④ 余白に

    板書を写し、⑤ 教員が和訳を読み上げてそれを書き写す…という授業を受けてきまし

    た。

 

    公立ではもう絶滅したのかもしれませんが、僕の勤める学校や他の私立でもまだまだメ 

    ジャーな教授法のようです。 (その理由も書きます)

    僕自身も訳読式は無駄の多い教授法だと思うので、その理由を説明します。

 

    先程の僕の体験談に沿って文法訳読式へのツッコミをいれていきます。

 

    1)    左側に英文を書き写す

       ただ書き写すためだけの時間がもったいない。そんな時間があるなら読み終わっ

                   た英文を覚えるつもりで一回書いた方がよい。

                   写し間違う可能性が高く、それをそのまま覚えてしまったら悲劇。

 

            2)    英文の下に新出単語とその意味を辞書で調べる

                   1)と同様にスペルを写し間違う可能性が高い。

                   単語を辞書で調べるが、意味が複数ある場合、文脈からの判断が必要。それが

                   予習でできる時点で授業は必要ない。「とりあえず最初の見出しの訳を書く」の

                   なら、これも時間のムダ。

 

             3)    右ページに予習として英文の和訳を書く。

                    2)と同様に文脈まで理解して正確な訳を書けるのなら授業は必要ない。

 

             4)    余白に板書を写す。

              ここで書くのは大体が新出の文法について。予習で訳までさせておいて、今さら

                    説明?ってなる。

 

              5)   教員が和訳を読み上げてそれを書き写す。

                  日本人の、日本人による 「日本語ディクテーションタイム」。最大のムダ。和訳

                    配ればいいのに、と思うが「他のクラス(学年)で配ってないから」という理由で

                    大体却下される。

 

              6)   (書いてなかったけど) テストでは教科書の和訳を書かせる問題が出る

                    生徒は英語のテストなのに日本語を丸暗記していく謎。テストの波及効果が英語

                    力と関係ない方向に結び付くので、結果英語力がつきにくい。

 

               以上です。

 

               僕も大学院生だったときに母校で1年非常勤講師をしましたが、メインの先生がど  

               っぷり訳読式で、テストもその先生が作る以上僕も訳読式の授業をせざるを得ず、

               鬱屈とした思いをしました。何が一番悔しかったかと言うと、和訳を言うときだけ

               生徒が全員真剣にこちらを向くことです。

 

               非常勤なので舐められていたのもありますが、「和訳が切り札」みたいになるので

               「薬毒」式と言われる由縁を肌感覚で理解しました。気分的にはこんな感じ(笑)

 

                「和訳を授けよう」

 

               今の学校は教師の裁量権が大きいので、僕は和訳はさっさと配ります。自作の読解問

               題で和訳をさせても、文法的な骨子を板書で説明し、板書を使いながら訳は言います

               が、その訳を聞きながら書こうとする生徒には「和訳は後でプリントで確認して、今

               は説明を聞くように」と言えます。

               和訳を書き写す時間があればリスニングや英文の暗唱ができるので、本当に勿体な

               い!

 

               テストでも初見以外で和訳の問題は出したことがありませんが、模試の結果を見て

               も、訳読式でやってる他学年との間に和訳問題の得点率に差はありませんでした。

               (むしろ勝ってた。笑)

 

               もちろん未修の単語や文法を含む文をじっくり読んであたりをつけていく技術は大

               事ですが、今はどれだけ速く意味処理をしていくかがテストなどでも問われるの

               で、そういう意味でも一文ずつ訳すというのは時代に合わない気がします。

 

               授業では、いかに英語を聞いて、読んで、書いて、話させるかを考えればムダは消え

               ていくと思います。

 

               授業って本当に哲学ですよね。

 

               以上、「文法訳読式は薬毒式」でした!』

(英語教育 ~The Sky is the Limit.~, 2019年1月15日)

 

 

上記の引用を読んで、筆者には 1)、2)が授業時間内の作業か時間外の作業か不明なのですが、恐らく時間内で取組みの点検をしながらでしょう。そうしないと教師の仕事は文法説明と日本語訳の提示だけになってしまいますので。それにしても、この授業は、英語教師を経験したことのある人には、その光景が目に浮かぶ様な気持ちになるのではないかと思えます。そして、筆者もこのブログを書いた人と同じような考え方を共有しています。加えて、筆者は以下のような疑問や印象を持ちます:

 

   ①    恐らくノートの作り方を教えていると思えるので、教師は生徒が復習や自習をする

    際に参考になるよう指導していると思われる(多分、受験準備の為);

   ②    日英対照語彙リストを生徒に作らせるだけで終わり、以後生徒の暗記に任せてしま   

    うという vocabulary work は、後に reading や文法ルールの学習の際に生徒がそうし

    た作業に注意を向けるに十分な習得に達するのか。語彙が重たければ、他の要素に注意

    を向ける余裕が無くなるのが常だが;

   ③    板書の「新出の文法」が deductive な、練習を伴わない単なる説明になっている

    か。それとも学習項目を含む 文(章) の書き取りを行い、その上で inductive な学習 

            (これは G-T の範囲を逸脱するが...) に繋げるような方向にあるか否かによって、夫々

    の教師の評価が分かれる可能性がある;

   ④    訳読の作業が宿題になっていて、教師が ‘日本語>日本語’ dictationで内容をチェッ

    クさせる作業は、construing/parsing という言葉で説明される日本独自の「文法・訳

    読式教授法」の「訳読部分(=英文解釈)」と同質の作業を行うことを生徒に求めるだ

    ろうか。教科書ガイドの訳の丸写しで終わらないか;

   ⑤  「和訳を授けよう」という姿勢は、知識の注入を目的とする教育方法 (classical 

            humanism) の根幹部分の一つであるから、この指摘は G-T の側から見れば妥当と思

    えるが、単なる meaning check と思しき ④ のような和訳の提示に権威付けが果たし

    て必要かという問題がある(これは Stern も指摘しているように、G-T スタイル教授

    法そのものが本質的に持っているものではあるが...)

 

ここで取り上げた二つの事例 (広い意味では G-T 手法と言える) をみても、日本の(中等教育の)学校で本来の意味での「文法・訳読式教授法」(或いは「英文解釈」)が主流の位置にあったとは言えないように思えます。そして、こうした授業では、学習者の頭の中で、本来「文法・訳読式教授法」が意図するような「訳読」のプロセスが起こる可能性は極少数の学習者に限られるとしても不思議ではありません。何よりもこの方法論が求めるようなレベルの「訳読」作業を授業の中で実現すること(宿題にしてしまえば思考のプロセスの点検は出来ない)が、精緻な教材研究や学習者に合った授業構成、テキストの内容の深い理解を求めるようなクラスの雰囲気の確立も含め、教師にとっては相当に困難であろうことは、上記の例を見ても分かるかと思います。「文法・訳読式教授法」の本分が全うされている授業は,もともと少数派であったのではないかという印象を持つのは筆者だけでしょうか。

 

 

次回は、「7]「文法・訳読式教授法」は英語コースの中でどのような位置にあるのか」です。