文法訳読式の指導法は乗り越えられなければならない (3) その3 | writfren-edのブログ

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5] 「文法・訳読=英文解釈」が知的作業の正体なのか: 

上記のように「文法・訳読」という概念では、parsing/construing のようなある意味でありふれた作業が、大きく bottom-up 手法に頼って内容理解を試みる学習・研究活動に使われているようです。そして、その過程が、いわゆる文法・言語学分野の知識と関って良く見えるのではないかと思える記述が、少し長くなりますが、以下に引用するアレントの難しいドイツ語の文章の訳に取組んだ研究者のブログの記事 (‘英語教育の哲学研究2‘, 2008/4/7)の中に見られます:

 

   『その作業の中で感じたことを、備忘録的に書き記しておくなら、「文法訳読」というの  

    は、かつて渡部昇一氏が力説していたように、かなりに高度な知的訓練になりうるとい

    うことです。

     知的訓練というのを、私なりに言い換えてみます。

     ざっと読んだだけでは正確に意味がわからない、知的に深く、文法的に複雑で、知

    らない語彙がたくさんある外国語を読むためには、文法関係を正確に捉えながら、辞書

    を引いて、その文法関係と語彙情報を基に相当に考えなければなりません

     いいかげんな当て推量ではなく、格関係に基づいて文の意味構成の可能性を絞り込む

    ということは、外国語と母語の両方で、言語に忠実に思考するということです

     辞書を引くということは、一見した外国語を segmentation (分節化) し、その

    segmentを単位としながら、grapheme-phoneme correspondence (書記素-音素対

    応) に基づいてarticulation (調音) して、その sound representation (音的表象) を

    working memory (作動記憶) に入れながら、辞書にある数々の単語 --- ここでは紙の

    辞書の使用を想定しています--- の word recognition (単語認知) を行いながら目的の

    語を探します。

      ③これらの知的作業は正確な知識に基づき、迅速に遂行されなければなりません (

    もなければいつまでたっても文法訳読は終わりません)。この際には phonotactics 

            (音素配列論) といった無意識に獲得されたような知識も役立ちます。いやこれらの知

            識は、知的作業の役に立っているだけでなく、知的作業によって、より確実なものにな

            っていると言えるかもしれません。

     そうやって見つけた単語の記述を読みこなすことも外国語と母語を使った高度な知的

    作業です。さらに、目的の文に最も適切な訳語をひねり出すことは --- しばしば最適

    の訳語は辞書には掲載されていません --- semantic features (意義素) の分析によ

    って、自らが知っているはずの日本語の類義語を総動員して、最適な日本語を探し出す

    というこれまた高度な言語使用=思考です。この最適語探しは、文法関係の正確な理

    解に基づいていなければならないことは上述した通りです

     このように外国語の高度な文章を、大量に (ということは短時間のうちに)、正確に

    文法訳読するということは、まさに「知的格闘」 ともいえるぐらいの高度な知的訓練

    です。私はわずかばかりのドイツ語を訳すなかで、「このような知的訓練は、時間をか

    けることができる若いうちにきちんとやっておくべきだった」 と少し後悔しまし

    た。』

(番号、下線は筆者により追加)

 

まず、上記の文の下線部①~⑤に関して、筆者は以下のような印象を持ちます:

 

   ①    ここには、この翻訳者が自分自身の現在のドイツ語力を相当に超えた文章にアタッ

    クしていることが現れている。そして、「正確に意味がわからない、知的に深く、文法

    的に複雑で、知らない語彙がたくさんある外国語を読む」、という部分は、「文法 ・

    翻訳式教授法」にも、「文法 ・訳読式教授法」にも、いわゆる G-T と呼ばれる教育・

            学習活動に共通したものであろうことは、「文法訳読式の指導法は乗り越えられなけれ

    ばならない (1)」で触れた G-T の教育目的に合致していることから分る。「文法関係

    と語彙情報を基に相当に考える」という件は既に議論した parsing の手法の適用が

    現れているが、この段階では ‘機械的に訳す’ というプロセスを通っているかについては

    意識されていない。勿論、学習経験が豊富なら意識することもないのだが...;

   ②   「外国語と母語の両方で、言語に忠実に思考」するという表現は、ここで機械的和訳

    の産物をドイツ語、日本語それぞれの段階で文法関係を確認し、対応の正確さを確かめ

    る作業を行っていると思える。訳者の日本語文法は、外国語であるドイツ語より遥に高

    いレベルで身に付いているので、解釈に際して discourse (談話) の領域にある co-

            text, context, background knowledgeの利用レベル (取り分け background 

            knowledge) が、二言語間で異なる可能性も高い;

   ③    この文の直ぐ前の段落で説明している bottom-up 手法の分析方法が、正確な知識

    に基づいて迅速に行われる必要が強調され、遅いと文法訳読は終わらないとされてい

    る。そして、早く終わらせる為にはドイツ語の単語を素早く認知するのに役立つ音素配

    列論もあるとの主張に思える。

     このことは、G-T では自分の力量を超えたレベルの文章にアタックすることが常で

    あり、それをいかに手早く処理できるかが大切であることを示す発言のように思える。

    その際に語彙の理解が楽でないと次の解釈が大変になることから、語彙理解の大切さを

    指摘する記述でもある。しかしながら、’二言語対称語彙’ による理解と辞書だけに頼

    ってその問題を乗り切らなければならないという事態の解決に音素配列論の知識が

    どの程度役立つのかは、俄かにはわかりずらい。

   ④   「目的の文に最も適切な訳語をひねり出すことは --- しばしば最適の訳語は辞書には

    掲載されていません --- semantic features (意義素) の分析によって、自らが知っ

            ているはずの日本語の類義語を総動員して、最適な日本語の表現を探」す。ここで、言

            語学で扱っている範囲の体系的知識だけで処理しようとするが故の非常に難しい作業に

            直面している。実際には 意味論の範囲外の discourse competence の援用や back‐

    ground knowledge の利用も行っているだろうが、日独語夫々の土俵を行き来するこ

    とになり、各土俵間に於ける知識・技術に落差もある為、納得のいく意味の一致が困難

    な作業になるように思える;

        ⑤    「この最適語探しは、文法関係の正確な理解に基づいていなければならない」という

            件は、多分無意識に近い形で援用している background knowledge がドイツ語領域で

    手薄なため、与えられた単語の意味と既知文法規則の組み合わせに大きく依存せざるを

    得ず、④と同じ結果になっているようである。

 

20世紀前半の構造主義言語学や後半の生成文法の発展を経て、現在平賀の言う「文法 ・訳読式教授法」に取り組む学習者は、音韻論、音素配列論から意味論までの領域の全ての分析手法や情報を視野に入れて学習活動に取り組んでいるということになります。言い換えれば、言語学を構成する全ての研究領域に亘って、自身の知識を総動員して原文の意味内容を理解し、日本語に移す作業をするということです。そして、現在では、1970年代になって現れ、それまで sentenece のレベルに留まっていた言語学の領域を  'beyond the sentence'  にまで広げたとされる discourse analysis や 言語学の領域からはみ出しているとも言われる pragmatics (語用論;言語運用論?) までが検討の内に入る場合すらあります。言語情報の処理の top-down process で支配的な役割を果たすからでしょう。

 

明治期の学習者から見れば、音声理論や意味論の領域で現在よりもはるかに初歩的な段階 (漢文訓読でも必要ですから、譬え無意識にでも discourse の領域は検討していたでしょう) にあり、概念すら無かった pragmatics (語用論;言語運用論) 等という領域まで含めねばならず、別世界のような知識の広さ、深さになります。したがって、彼らにとっては現在の人達の話は、恐らく余り良く理解出来ないのではないでしょうか。それなのにこれに匹敵する知的作業を要求され、手探りで欠落する部分を埋め合わせて高度な理解に達した明治の英語学習者は超人と云えるかもしれません。知的作業の最たるもののひとつでしょう。筆者にはとてもそれだけのエネルギーを投入する集中力も、意欲も、忍耐力はありませんので、敬服に値します。そして、現在は、reading skill の分野に、‘その時点の自分の到達レベルよりも少しだけ高いレベルのテキストにアタックする活動を繰り返すことによって読解力を伸ばす’ という考え方があることを有難いと思っているところです。

 

上記のごとき血の滲むような努力と忍耐を伴う作業もある場合には必要かも知れません。しかし、話を一歩進める前にもう一つ、以下のブログ記事を見てみたいと思います:

 

   『すこし前、「文法訳読(教育)」という言葉には二つのイメージがあると書いた。

            今あらためてもう一度書いてみると、こんなふうになる。

 

            A 英語入門者の文法教育のために用いるべきアプローチ。英文は原則的に単文

           で、それを正確に和訳することが求められる。和訳は翻訳ではなく、直訳を基本

           とする。なぜならば、英文を英文法に即して正確に理解することが求められてい

           るからだ。また、その和訳を用いて英訳する場合が多いので、英訳しやすいよう

           な直訳的日本語が望ましいとも言える。ここでの中心課題は、いわゆる五文型や

           主語、動詞、目的語、補語を理解したり、動詞、名詞(名詞節、名詞句)、形容

           詞(形容詞句、形容詞節)、副詞(副詞句、副詞節)、代名詞といった品詞概念を

           徹底することである。

 

     B ややレベルの高い水準の英語学習者 (英語中級者)を対象とする教育手法

          で、英文を一つ一つ丁寧に和訳させながら読解させようとするものである。この

          とき用いられる英文は、複数の文章から構成されるのが原則であり、ある程度ま

          とまった知的思想的な深みのある題材がとりあげられる。古典的教材としては原

          仙作の『英標』(私は『英標』を用いた最後の世代だと思う)、文法訳読式の伝統

          の風格のある入試問題としては京都大学のものが想記されるだろう。逆に、セン

          ター試験の英文では B の題材として相応しくなく、最低限、私大および国公立2

          次試験の英文が B の範疇に当てはまると考えられるだろう。

 

          さて、私が重要であると考えているのは、A の「文法訳読」のイメージだった。

          そしてこの観点から、Birdland の問題集 (文英堂 Birdland English Course準拠  

          の練習問題集のことらしい -筆者記入-) は非常に好ましくないと批判した。と

          ころが、さきほど江利川先生(和歌山大学)のブログを見てみると、驚くべき事

          を発見してしまったのである。どうやら A の教育手法は、実は「文法訳読」と

      は呼ばないらしいのである。一部引用してみよう。

 

    ヨーロッパでルネッサンスの時代(1416世紀)から19世紀までの約500年にわたって

          支配的だった Grammar-translation MethodGTM方式)と、「文法・訳読式教授法」

    とは区別して扱う必要があることだ。

 

          西洋の G-TM は,相互に意味的なつながりのない短文を翻訳することによって

         「文法を習得する」ことを主眼にしていた。これに対して、日本化された G-TM 

          である文法・訳読式教授法では,意味的につながりのある長めのテキストの読解

          を通じて「意味内容を理解する」ことを重視してきた。

 

          やや意外であるが、ここまではっきり指摘されてしまったのである。私として

          も、B は「文法訳読」であるが、A は「文法訳読」ではないと言わざるを得な

          い。

 

      では、仮に A の方式が Grammar-Translation Method(GTM方式)なのかと

          問われたとしたら、どうだろうか? Yes と言いたいような気もする。だが、江

          利川先生らの文章を読む限りはそういう雰囲気は全然伝わってこない。また、

          「このペンは誰のモノですか」みたいな和訳をする訓練と、中世の学生たちのラ

          テン語の学習とは全くかけ離れた世界に思えるのだ。

 

          とすれば、A 型「文法訳読」は、公の名前を持っていないということになる。公

          認されていない教育方法は、存在しないも同然ではないか。私は大学の学者たち

          の作る学界の動向には無縁だったので、そういうことを知らずにブログに書いて

          いたのである。私はどう考えればよいのか?』

                  (‘「文法訳読」再々考 (その1) -大学教員と「英語教育論」’  2012/4/9より)

 

この文章の中には、この問題に関係する研究者と実際に教えている先生方との G-T に関する理解の差異がとても良く現れていると思えます。

 

B のタイプは明らかに件の「文法 ・訳読式教授法」のことを指しています。そして、アタックするべき文章として、「文法訳読式の指導法は乗り越えられなければならない (1)」で触れた、教材として ‘最も質の高い言語表現’ を選択する必要も示唆しています。上記[「訳読」とconstruing/parsing は同じものか]の項に至るまでに検討したことからも分かるように、英語教育史に興味のある学者の中では、日本における文法重視の英語教授法の中心をなすのは、平賀の指摘する「文法 ・訳読式教授法」と見なされているのは確かなようです。そして、このことは筆者には以下のような考えを想起させます:

 

   ①    50年以上前の ‘平泉-渡部論争’ の際に渡部昇一が強調した高度な知的訓練とは、平

            賀が述べている「文法 ・訳読式教授法」による学習が一定期間続き、貫徹された場合

            にのみ、より良く成就するものである可能性が高い;

   ②    そして、その本質は “日本で一般的に行われる、専門的な意味での「訳読 (=

    construing/parsing) 」” の手法に ‘英文解釈’ という衣を着せ、英文を詳細に解析・解

    剖して、その意味を深く理解した上で日本語に移して行き、その内容を更に精査して日

    本語でまとめるという ‘徹底的な日本語による理解の深まり’ ということになる;

   ③    このことは、未知の考え方を深く検討し、自家薬籠中のものとして ‘母語化’ する上

            では大変に意味のあることと思える(結果的には当然オリジナルとの間に微妙な意味の

            違いは残るが…. );

   ④    そして、これが徹底的に行われる場合、学習者に相当な集中力と忍耐を要求する作

    業であり、学問研究に慣れた比較的マイナーな学習者層で受け入れられているのではな

    いか。

 

突き詰めれば、極力日本語の土俵から離れず ‘文法知識を利用して’ 翻訳し、新しい考え方や事物を自分の思うがままに利用しようとする姿勢の現われが「文法 ・訳読式教授法」ということのように思えます。そして、‘文法を習得するために’ 翻訳練習をすることに主眼を置く「文法・翻訳式教授法」は、翻訳を単なる意味の確認 (meaning check) の位置づけにしてしまうことで、“純粋な解釈の一方法” であり注意深く再定義された「訳読」とは一線を画するものとなります。話がこのように展開すると、「文法 ・訳読式教授法」という名称には卓越した方法論という何か特別な権威の様なものが纏わりついて来ると思えるのは筆者だけでしょうか。

 

これに対して、A タイプの記述はとても興味深いと云えます。前半では、German Methodの項で触れた1783年の Meidinger 著のフランス語文法の時代までの ‘単文による検討材料の提示’ の考え方と同じ発想について述べており、「直訳」というどこか川澄の ‘機械的に訳語をつける’ にもつながるような ‘日>英語変換時の条件’ を示しています。その上で、後半で既述のconstruing/parsing を行う上で必須と思われる文法概念である「五文型や主語、動詞、目的語、補語を理解したり、動詞、名詞(名詞節、名詞句)、形容詞(形容詞句、形容詞節)、副詞(副詞句、副詞節)、代名詞といった品詞概念を徹底する」必要についても述べています。この文書で記述が抜けている概念は、既述の Ploetz の初級文法書 (1848) までには ‘文法ルール、語彙、テキスト、訳すべき複数の(練習用)単文’ という G-T の典型的な教材のパターンが出来上がり、単文だけではなく文章も提示されていることだけになります。

 

また、必須と思われる文法項目の中に、1904年に初版が出た C. Onions の An Advanced English Syntax で初めて提示された概念 ‘五文型’ が含まれています。この文法項目については、上記の日本における「訳読」と文法に関わる問題の検討の中にも何も記述がありません。また、近代的 G-T への up-date 完了とも云える Ploetz の (初級の) 文法書 (1848) では初級段階での ‘動詞の語形変化’ の学習が強調され、余り体系化されていなかった可能性のある語順は曖昧にされ、軽視されているようです。自然な能動態文の表現に於ける S-V-O の構成要素の提示順序で世界の言語を比較する ‘言語類型論’ に従えば、フランス語とドイツ語は共通の SOV 語順になります。Ploetz の場合、この二言語間の翻訳 (translation) であることから、母語に訳す際に余り意識する必要も無く混乱は起らないのかも知れません。ところが英語 (SVO language) とは基本的な語順が違う日本語 (SOV language) を母語とする日本人にとっては、時に重要な分析の道具となる文法的な要素が後から加わっているということです。ちなみに大航海時代に日本に入ってきたポルトガル語とオランダ語が SOV language です。

 

上記のようなことから、筆者には、A タイプは今日広い意味で使われている G-T と呼ばれる範疇に入る指導方法の一種のように思えます。単文による材料提示は、ルールの繰り返し練習が目的の補助教材であれば、一区切りのレッスンの中の一部でしょうから、reading の為のテキストは不要です。従って、指摘のような教材提示の仕方は頻繁に行われる可能性があります。問題はいつ、どう使うかということにあるように思われます。

 

また、G-T を推す人達の中には、(特に入門から初級の時期に)文章による提示を強調する余り単文による提示を無視することについて批判的な立場を取る人も多くいます。恐らく、上記の construing/parsing の作業をしっかり身につけ、円滑に作業できるようになるための練習として大切であることを指摘しているように思えます。

 

このようなことから、A タイプも、B タイプ或いは  ‘英文解釈'  程に重量感のある作業ではないとしても結構頭を使いますから、知的活動と云えると思います。これが、かつて Stern をして、 G-T は文学研究のための基礎として必須と思われていたことを紹介しながら “even if that goal was not reached grammar-translation was regarded as an educationally valid mental discipline in its own right.” (1983, p. 454) と言わせしめたことなのでしょう。

 

 

 

次回は、「6] 「文法・訳読式教授法」は主要な教授法だったのか」です。