文法訳読式の指導法は乗り越えられなければならない (3) その2 | writfren-edのブログ

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] 日本のG-Tとは何か(教授法の内側の問題):

「訳読」「翻訳」

「訳読」という語は、広辞苑では「 翻訳して読むこと。またその読み方」という意味になります。従って、一般的には「翻訳」と「訳読」は同義語です。ところが、教授法の歴史の中では微妙に違っていますので、先ず平賀(2005, p.16)にある以下の澤村 (澤村寅二郎: 訳読 と翻訳, 研究社, 1935) からの引用に目を通してみて下さい:

 

   『訳読は原文を分解して、多くの場合、 単語又は最小限度の句を単位と して[…]、

      これを日本語に云い直し、その語句自身の有する意義と、語句相互の文法的関係を

      明らかにする方法である。 … 即ち訳読は意味の説明をする点から見れば、解釈の

      一方法であるが、日本語に云い替える点から見れば、一種の翻訳である。

(下線は筆者による)

 

ここでは、二語の意味の違いは広義か狭義かにあります。そして、同じページに川澄(川澄哲夫: ‘訳読の歴史一江戸時代から今日まで’ 英語教育19767 増刊号)の以下のような引用があり、澤村の説明の前半部分のより具体的なイメージが得られます:

 

  『 一般に日本の「教室英語」では、英文を読む場合に、日本語の構文にあわせて理解しよ

          うとする方法が用いられている。それはまず、英文を単語、句などの最小単位に分解

          し、その一つ一つに、文脈に関係 なく、機械的に訳語をつける。つぎに、それらを日本

          語の文法、とくに語順にしたがってつなぎ合わせ、日本語に直す。こうして英文が一語

          一句もゆるがせにされることなく日本語に置きかえられ、その日本語を頼りに英文の内

          容を理解しようとするのである。…この英文の読み方を「訳読」と呼ぶことにする。』

 

もし、このようなことであるとすれば、文の構成要素相互の文法的関係に意を用いない単なる日本語への言い換えが「翻訳」であり、「訳読」は英文を最小単位である  ‘語(句)(現在の用語では vocabulary)’  の日本語への置き換えとそれに続く  ‘日本語の文法・構文に合わせて、丁寧に理解する’  作業(=上記の引用の ’意味の説明をする’ の中身)ということになります。そして、これが、澤村が「わが国において訳読と称 しているのは、 広義の translation であるけれども、厳密に言えば construing に当る」(平賀  p. 15)としているものです。即ち、日本語への変換それ自体を意味するだけの「翻訳」と違い、「訳読」は “純粋に解釈の一方法 である (平賀, 2005, p. 15)” ということになります(ここに ‘英文解釈’ という用語の根っ子の部分がある)。そして、この表現の背後には、「翻訳」は正確に原文の内容を伝えないという含みがあるように思えます。

 

Construing/parsingの前に

上の項までに、「翻訳」は正確でない可能性があり、より正確な「訳読」との違いは母語への変換の作業が ‘文法’ に依拠して行われるかどうかの違いということが明らかになったと云えます。そこで、明治初期から後期の初め頃までにあった三種類の教授法について若干の検討をし、文法の扱いについてみた上で、話を先に進めたいと思います。

 

先ず、最も古い「漢文訓読的蘭語解読法」があります。茂住 (1987,  pp. 136-137)は、青木昆陽が ‘オランダ語の発音がアルファベットの組合せで決定され、その組合せによって意味をもつ単語 が作られること、及び日本語と言葉の順序が逆になっていることや助語の多いこと等に気が付いた’ 結果、例えば、

 

   ik        ga           úÿt    om       Bloemen            te          kÿken

  (I     go           out         about        floral/flower        to         watch)

   私                                                                   ( )    

 <括弧の英語は筆者追加>

 

のように、オランダ語に漢語を当て、後に訳語の部分に注目し、訳文の前後の脈絡を漢文訓読の場合と同じ要領で理解し、その意味を読み取ろうとしたと推測されています。既に語順や助詞の多さに気付いていますから、譬え漢文の ‘訓読’ が文法無視のように言われようと、母語や漢語を足場に推測したような若干の文法の知識はあり、後で述べる construing/parsing とは言えないまでも、(目標言語、母語双方の) 文法の影響が一部作業に入り込んでいるように思えます。しかし、弱点は、青木昆陽がオランダ語に於いては be動詞・冠詞・関係代名詞・副詞・接続詞・前置詞など広い範囲の語について、日本語の ‘て、に、を、は’ に当たる 助語だと説明しているため、理解に正確、あるいは適切を欠くところが結構沢山あるということにあります。文法無視でも、母語の文法知識を援用したりして不明箇所の穴を埋める努力をするので、精確には「訳読」は不十分でも文法ゼロではないということです。理解のためにオランダ通詞の何等かの協力もあったのかもしれません。

 

次に、「翻訳」と呼ばれている「変則英語教授法」(典型例は「福沢流変則訳読法」)があります。これに関して、平賀 (2005) は、 片山 (片山寛:わが国における英語教授法の沿革  研究社, 1935) に触れ、変則教授法は「文章の意味を了解することに全力を傾注し、発音を無視したやり方 で、極端に言えば、恰も我々が漢文を日本流に音読したり、黙読で意味を解釈したりする方法と類似している。 (p. 13)」という引用で定義しています。そして、訳読法との差異は「文法を重要視するかどうか」だとのことです。「訳読」と呼ばれている上記の「漢文訓読的蘭語解読法」との区別は、下記の松村(松村幹男 : 明治期英語教育研究 辞游社,1997) の引用にあるような変則英語教授法の極端な文法無視(言い換えれば無視の程度)にあるのではないかと思えます:

 

     『変則英語なるものはどう云うものかと云ふに、書物を学んでただその意味が分か

        ればいい、文法がどうであっても発音がどうであっても、話が出来なくても聴く

         ことが出来なくとも少しも頓着しない兎に角書物の内容即ちその思想を握りさへ

        すればよいと云ふのが所謂変則英語と云ふものの本領なのである。』

 (松村, 1997, p.33;平賀, 2005, p.;下線は筆者による )

 

「文法=訳読法」では、「訳読」や「翻訳」よりも文法に関して範囲を広げており、既述の様に、オランダ語の文法体系について、主語・述語の関係、品詞 (の機能)、性、数、格、時制等まで把握しています。この方法が、英文法に応用され、英語教育に流れ込んだとみられているようで、日本の英語教育史の研究者の目には「文法・訳読式教授法」の源流のひとつと見なされているのかも知れません。

 

Construing/parsingとはどういうことか

ここで、「翻訳」と「訳読」を決定的に分ける文法重視の考え方に直結する construing/ parsing とは何かについて考えてみたいと思います。これは伝統文法で確立された ‘単語や字句で構成される文を、定義された文法に従って解釈し、文の構造を明確にすること’ で、具体的には以下のような例があります:

 

 

                           ⓐ 主語 (S)          動詞(V)           目的語 (O)

     [The       noisy          frogs]       [disturbed]          [ us.]

      ⓑ 定冠詞  形容詞         名詞           動詞         代名詞

                                              (複数)   (過去時制;複数)     (一人称)

 

    〔筆者の目にする文法の本では construing よりも parsing という呼び名が多いのですが、この用語

       parsing は現在コンピューター言語の関連の書物では特殊な意味も含まれて使われているので注意し

                てください。〕

 

 

このような形で ⓐ sentence (文) の構成要素やその部分に入るべき ⓑ word(単語)の文法的な関係を理解して行くプロセスが parsing です。

 

この作業の後 G-T の授業の場合、

 

       ①    学習者は辞書を引き、5語の単語の意味を調べると同時に、[SVO(frogs – 

           disturbed – us)]のような文の構成要素の関係に関する知識が事前に示されるのが自

           然(当然適当な時期に[冠詞+形容詞+名詞 (the + noisy +  frogs) ]のような

           phrase (句) の構造に関する情報も事前に示される);

       ②    そして、学習者は辞書を引き意味を理解した単語をfrogs /  – disturbed /

           乱した us /  我々を」のようにつなぎ合わせてみて、自分が理解した SVO の文構造  

     に日本語の単語を嵌めれば、「蛙が-邪魔した-我々を」という英語の語順の日本語が

     得られる;

       ③   後は、noisy という言葉の意味が分かれば、譬え推測に頼っても、「うるさい

          蛙が-邪魔した-我々を」となり、

 

                    そのうるさい蛙が、我々の邪魔をした

 

という日本語の文が得られます。

 

そして、解析・解剖は更に進み、次のどこかの段階でS部分の句構造は「冠詞+形容詞+名詞」であることを教えられ、「the あの/その/というもの + noisy うるさい + frogs 蛙は」のような辞書から得た語句の意味の連鎖から、「その + うるさい + 蛙が」の様な日本語情報が得られるでしょう。そして、更に ‘the を「あの・というもの」のどちらかにした方が良いのか’ 又は '他の適当な日本語があるのか、或いは新しい日本語の単語を作った方が良いのか’ の様なことや ‘我々の何を邪魔したのか?’ のような疑問に対する答えは、co-text の中にヒントがあり、‘眠りの邪魔’、‘会議の邪魔’ 等々色々なことがあり得ますし、「あの・その・というもの」からの選択も同様ということになります。また、過去形の disturbed は教材がテキストの形で与えられていれば、co-text なり context の中にある ‘過去’ に関する情報を援用して、文法知識は無くとも理解可能になります。過去を表す語尾の形態素 ({-ed}) の理解が求められるのは、co-text の無い単文の解析の際だけということになります。

 

少し長く書いてしまいましたが、上記のように文法の知識が多ければ、多い程、英文の意味の理解は細かく、正確になって行きます。要するに “単語の意味と文法知識を使って正確な理解に達する方法であり、取り組む際に、学習者は目標言語である英語の ‘文や句を構成する基本的な仕組み’ を明確に理解している” (=’意味の説明’ が出来る)必要があります。勿論、‘語の意味’ の理解も必要です。そして、この手順を踏むことが、既に述べているように英語の文法重視であり、変則教授法のような文法無視の ‘翻訳’ と違う部分ということになります。

 

「訳読」と construing/parsing は同じものか

それでは、日本では重要な概念「訳読」の意味と、上記のような construing/parsing の内容とは完全に一致するのでしょうか。筆者には違いがあるように思えます。

 

前項で述べた文や句に言語構造を付加する為のテクニックとしての construing/parsing は、言語学辞典では “A grammatical exercises involving the description of sentences and words by giving names to the grammatical categories of various elements: e.g. subject, object, case, person, etc.”(R Hartmann and F. Stoke: Dictionary of language and linguistics, Applied Science Publishers Ltd, 1972) と定義されています。

 

これは上の図に示したように 、[[[The] [[noisy] [frogs]] [disturbed] [us.]] という一文の各構成要素に品詞なり単語と文法の関係を表す術語を当てはめれば完了であり、母語話者は、内容が分かるので、英語のままで文の仕組みを理解することで留めることも可能であるように思えます。母語だけで考えている母語話者にとっては、この解析或いは解剖の段階で、‘description of sentences and words by giving names to the grammatical categories’ は完了となります。要するに construing/parsing の手法自体は、母語話者にとっては、無意識に分かっている語句の文法関係を、意識的に意味について考えることを通じて言葉の解析をする方法ということであり、又その方法を獲得する為の練習ということのようです。

 

ところが、外国語の場合、例えば日本人がこの作業を行う場合、日本語(学習者の母語)に訳すことを通じて行うことになり、母語話者とは異なる二重の理解のプロセスを通ることになります。ここに単なる分析と理解の道具であり、その方法の練習でもある construing/parsing に、‘解析結果情報の母語の構造への移転と更なる吟味による、より正確な理解’  (= ’意味の説明' が出来るということの基礎)という要素が加わるのが、G-T 手法の教授法による学習ということになるようです。

 

この学習目標言語とは異なる文法構造を持つ言語 (=母語)のフィルターを通してしか解析・解剖ができない性質の故に、必然的に、川澄 (1976) が指摘するように「文脈に関係なく、機械的に訳語を付け、それらを日本語の文法(特に語順に)従ってつなぎ合わせ、日本語に直し、英文の一語一句もゆるがせにすることなく日本語に置きかえ、その日本語を頼りに英文の内容を理解」しようとする作業(平賀p.16;強調は筆者による)という考え方も出て来るのでしょう。文法解析を行う場合には日本語への変換は必須のことですから、話は移し替えの際に段階的になされるべき変換の手順にまで及んでいます。従って、日本に特有の「訳読」という概念は、

 

      ①    英語の原文をその文法的要素ごとに切り分け、機械的に英語から日本語への変換(逆

          もあり得る)をする為の材料を作りだす手段及びその変換作業;

      ②    その機械的変換で得た日本語の語句を材料に、日本語文法(主に語順)や原文の

          co-text や context の情報を援用して更に内容理解を深め、理解可能な翻訳文にし、例

          えばメモ書きのような性質の文章を作る作業;

      ③    必要があれば ‘文’ の 各構成要素(例えば ‘句’ )等の、複数回のチェックを試みるなど

    して、(主に文法ルールに依存して、)同じ内容の、より詳細で、より完成された日本

          語表現に作り替え、例えばゲラ刷りのような文章にする作業;

      ④    日本にいる学習者の場合 co-text/context 情報が、本物の英語の使われている環境

         (target culture)から隔絶されているため、更に、日本語文法に軸足を置いて、英語と

          日本語双方の文法構造の違いを検討したり、洞察力を駆使して、ゲラ刷りのような文章

          をベースに、日本語の視角から、不足の情報を埋めて理解を深め、磨き上げて完成し、

          洗練された形の日本語として新しい知識なり、視点なりを獲得する作業

 

という一連の理解のプロセスに与えられた名称と云えるでしょう。既述の parsing の定義からすれば、その範囲は上記①~②(場合によっては理解に留め和訳の必要は無し)までで、③~④の段階は義務的ではないと云えるでしょう。

 

従って、筆者の目には、漢文の訓読手法の影響を受けて発達してきた「訳読」・「翻訳」・「文法=訳読法」の三種類においては、突き詰めると区別が曖昧でもあることから、それぞれが文法とどのような関りを持つのかの理解とそれに依拠する度合いの違いを明確にするために、敢えて導入した特別な用語が、construing 或いは parsing であるような気がします。このことから、既に明治期の初めに英語教育界に存在していた教授法の根本概念の違いは以下のようなものと思ってよいでしょう:

 

   -  漢文訓読の影響を受けた「翻訳」は、その語義要素に「訳読」を含み、訳出

     された日本語に「訳読」程の正確さは無い。文法無視と見なされている;

   -  やはり、漢文訓読の影響を受けたている訳読」「翻訳」に比して、文法ル

               ールへの依存度が若干高い;

   - 「文法=訳読法」は江戸時代に既に中野柳面による文法書 和蘭詞晶考 が出るなど

     組織的な文法を手に入れ、construing/parsing のような分析が行われていた可

     能性もある。

 

上記のことから、「文法=訳読法」は、既に江戸時代から日本のインテリ層に定着していた漢文研究を土台とした「訳読」という概念に組織的な文法の知識を組合せた一種の G-T とも言えそうです。新しく西欧から国家や生活の全般に関わる形で入って来る新しい考え方や事物を、より精密で、明確な内容の日本語に写し取って理解しようとする目的で発展してきたのでしょう。その意味で、この日本独自(開発?)の G-T スタイルを基礎とした発展形を、

 

   『根本的な授業の進め方、「文章理解」という最終目標、および「訳読」の仕方はその

    ままで、G-TM(= 欧州由来の Grammar-Translation Method のこと -筆者追加-)

            の影響を受けた文法シラバスに徹した、(読み物だけではなく) 練習問題も含む教科書

            を使って行われる日本における教授法を「文法・訳読式教授法」と呼べるのではないか

            と思う 』

(平賀, 2005,pp. 21-22)

 

とする平賀の考え方は理解できます。そして、それは、筆者の目には、

 

     ①    ‘根本的な授業の進め方、「文章理解」という最終目標、および「訳読」の仕方はそ

    のままで’ という部分は、日本的な、教師が授業のペースの全てを握る lockstep style

           を採用し、目標と方法は、変換した日本語に大きく軸足を置いた ‘英文解釈’ と呼ばれる

    手法で実現するべき事柄に置く;、

   ②    ‘G-TMの影響を受けた文法シラバスに徹した、(読み物だけではなく) 練習問題も含

    む教科書を使って行われる’ という部分では、漢文訓読学習以来テキストが中心で文法

    項目は sporadic な配列になる傾向を、テキストに加え、輸入 G-T のシラバス(恐らく

    言語形式上の単純 > 複雑の構成のこと)に依拠することで、テキストの topic と文法

    の structure を軸に integration syllabus の形で体系化した上で、練習問題(平賀の

            資料に例はあるが、その性質はそれ程明らかではない)を追加して、教科書を形作る

 

という方法論のように思えます。更には、これも平賀(2005, p. 19)が『‘文法知識を利用して’ 翻訳するからではなく、‘文法を習得するために’ 翻訳練習をするから Grammar-Translation Method(「文法・翻訳式教授法」―筆者記入-)と 呼ばれるのである』という形で、 G-TM の日本語訳を、あえて ‘翻訳式’ としているところに、‘訳出した日本語を最重要視し、主に日本語の世界で、考えを発展させること’ が、「文法・訳読式教授法」の重要な目的であることを示そうとする意図を感じるとも云えます。

 

このように construing 或いは parsing という分析手法を入口として、英文を機械的に日本語に移し、以後は原文を参照しながら、正確に日本語に直して、日本語の理解のプロセスを通して、更に理解を深めるプロセスが確立したようです。そして、ひとたびそうした要素が追加されれば、上記の下線の部分を何度も繰り返し、単なる ‘言語システムの習得’ 以上の、それを超える外国語学習への要求或いは目的の影響を受けて、何段階にも亘って精密度を上げていくことが可能であることも又 G-T 手法が本来持っている性格ということになるでしょう。

 

 

次回は、「5]「文法・訳読=英文解釈」が知的作業の正体なのか」