「米田建築史学シリーズ」全4冊  Web de “立ち読み” (その26) | 民営文化センター

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民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

 

コロナ騒ぎ後の日本復活プランを考える場合、倭国の歴史抜きでは何も始まらない。

 

かつて中国(唐)に我が国が占領されていたことを学校で誰一人習っていない。

 

プライドを失っている国民の覚醒に米田史学は不可欠である。

 

 

続き

 

法興帝は的確に事件の処理を行った厨子王の行動を見られ、もちろん厨子王に断って、605年国名を倭国から日本国に変えられ、憲法七条(後に大和朝廷は憲法十七条に改変)を造られた。

 

 

また、年号も「光元」と改め、日本国の出発を期された。

 

 

607年第二回の遣隋使が送られる。

 

 

その国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云々」と書かれていると『隋書』は記すが、「云々」に書かれていたことは不明とされる。

 

 

私は『旧唐書』の「日本国は倭国の別種なり」、「倭国自らその名の雅ならざるを悪 (にく)み 、改めて日本となすと」、「日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと」は上宮王の言葉と考えるのである。

 

 

この年、観世音寺の金堂・五重塔が上棟し、金堂には釈迦像と脇侍の上宮王像と千食王后像が安置された。

 

 

釈迦の教えを大切にする仏教王国、国の大きさにこだわることのない、与えられた大地を大切にする生き方を選択した。

 

 

厨子王の日本国を手本とすることを東アジア世界、その主要国である中国に宣言したのである。

 

 

法興帝にとって拉致事件を防ぐ手立ては見つからないが、この時は国内問題であり、善に生きることに前向きであることを示された。

 

 

対外的には帝を補佐する大局の見える光源氏を育てられるに止まった。

 

 

神功王后は新羅に対して力で正義を示されたが、現代日本はどのような選択をするのだろうか。

 

 

 

長らく立ち読みを続けてこられた皆様、お疲れさまでした。

 

前書き、あとがき、目次を読まれて「米田建築史学シリーズ」4冊、入手の気分になられましたでしょうか?

 

多くの人たちがその気になるのを期待しています。

 

私が12年間の手間暇かけて格闘した、膨大な情報量を含む作品1セットの制作実費が約1万円。

 

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