私は1989年に法隆寺は筑紫観世音寺が移築されたものとする仮説(『法隆寺は移築された』新泉社)を発表し、その後、観世音寺を創建した九州王朝の歴史を復元する作業を行ってきた
(『建築から古代を解く』・『列島合体から倭国を論ず』・『逆賊磐井は国父倭薈だ』ともに 新泉社、『続法隆寺は移築された』2010年6月AB&JC PRESS発行私家版)。
400年前後はどうであったかはすでに述べたところだが、改めて述べてみよう。
広開土王と同時期の日本を治めたのは大鷦鷯尊である。
『日本書紀』に仁徳天皇とあり、『宋書』には讃とある倭の五王の最初の大王である。
418年頃(『日本書紀』はBC660年に記す)、倭国の武将である神武(天皇)が狗奴国(熊野国、現在の近畿地方)を倒し、日本列島が統一される。
『古事記』に記される神武東征の行路にあたる日下、南方の地が、『大阪府史』に掲載される「弥生~古墳期」(一八〇〇~一六〇〇年前)の地形図の内海に面した地
―もち ろん、この後、内海は陸化する― に乗ることは、古田武彦氏が『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社)で指摘されて久しい。
今から千六百年ほど前の神武による挑戦である。
おそらくこの日本列島統一を機に『古今集』仮名序に「難波津の歌は帝の御始めなり」と記されるように、初めて帝を名乗る。仁徳帝である。
373年から438年まで六十六年間の長期の治世(『日本書紀』は313年から399年の八十七年間とする)は、六十一年間の卑弥呼や六十三年間の昭和天皇をわずかながら上回る。
次回(前書きの続き)をお楽しみに!