天才に遭遇するチャンスは滅多にあるものではないのですが、10年以上、米田良三氏の原稿と格闘してきた挙句“彼こそがそうだ”と確信しました。
私の手許には彼の研究ノートがあります。
ノートのサイズはバラバラ、情報のエッセンスが無秩序に書き込まれているだけで、文章作成の下書き的なものは全く見当たりません。
思いつくままにPCに文章を綴っていったのでしょう。
打ち合わせの時、どんな些細なことでも、自分の書いた部分に関しての反応は瞬時かつ正確でした。
米田氏の未公開原稿を以下に公開します。
門外漢の心を打つことは無いと思いますが、建築に携わる人々は彼の天才を意識するかもしれません。
5.資科の発掘
史料は思わぬところに思わぬ形で眠っている。
私の最初の研究は法隆寺の建築が何時造られたかということを知りたいことに始まった。
と言うのは法隆寺の建築が再建なのか、非再建なのかの論争が明治以来続いていたからである。
決着の付かない論争、何時造られたかが分からなければ知りたくなるものである。
当時、木造住宅の設計をやっており、施工にも隈なく目を光らせていたから、法隆寺の建築の細かいところまで知れば、次の道が開けるのではないかと思った。
解体修理工事が行われていたことは知っていたし、大学の研究室には大部の報告書が置かれていたことも記憶していた。
まず知ろうと言う事で、金堂と五重塔の報告書を大学から借り全部を読んでみた。
読み終わって思ったことは、この報告書を最初から最後まで読んだ人は、果たしているのかという思いであった。
研究者の何人が読んでいるのだろうか。読むのを阻止するような晦渋な文章が続く中に、工事担当者の思い入れそのものという文章があり、ホッとしたことを思い出す。
報告書の中から事実を拾い集め、そこに論理を組み立てることに懸けてみた。
晦渋さと思い入れの中に事実が隠されていたと言うか、在ったから、読むことによって報告書が史料と化したと言える。
ちなみに、その一文を掲げてみたい。金堂の柱の底面の仕上げについてである。
柱の底面はその性質上腐損や虫害を被ること多く、完全なものは極めて少なかったが中には非常に保存のよいものもあり、当初の切断面がその儘残っていて当時の工法のよく窺えるものもあった。
それによると、柱頂と略同じように、刃幅一寸二分程度の鑿(のみ)を用いて切断し、周辺を略平らに、中心部に向って幾分決り気味に仕上げてあった。
解体修理工事報告書が研究にあまり使われているとは思えないが、史料らしい存在ではある。
さりげなく「晦渋」という言葉が出てきて、漢和辞典のご厄介になりました。
奈良文化財研究所発行の『長谷寺本堂調査報告書』も じっくり読めば現在の本堂が江戸時代の創建でないことは明らかです。