この説に始めて触れる殆んどの人が拒否反応を示します。
自分の知識に反する内容は認めたくないのでしょう。
はまる人は少数派ですが、著者の理系的推論に惹かれるようです。
10年前、この図を始めて見た時と現在とでは見え方が全く異なります。
今では九州北部は自分の庭のようです。
逆に近畿の地名に違和感を覚えるほどです。
消された王朝を蘇らせる理系アマチュア歴史研究者の手腕に乾杯。
『 現代を解く・長谷寺考 』からの引用
『列島合体から倭国を論ず』、『逆賊磐井は国父倭薈だ』では、1000年頃の作品とされる『源氏物語』が600年代の九州北部を舞台とする作品だと読み解いて来た。
その後の修正を経た地図「源氏物語の舞台」(図)を説明する。
現在の地形と異なるのは糸島半島が島であったことと、福岡市街が内海であったことだ。
石山寺(三宅廃寺)もこの内海に面していた。
難波から京、現在の太宰府都城へは大道が整備されていた。
『源氏物語』若紫の巻で、源氏が北山、現在の大野城跡に登り、眼下を見渡しながら海辺の眺めの説明を受ける場面があり、難波津の先の明石の浦が話題となる。
その明石の先に須磨が、さらに先に伊勢がある。
福岡市西区に海に臨んだ長垂山があり、兵庫県の明石と須磨の間に垂水という地名があることから推定した明石、須磨、伊勢の位置である。
伊勢の対岸には志摩がある。
また京から南に下がると吉野に至る。
現在の吉野ケ里遺跡で、中心となる墳丘墓にはだれもが知る卑弥呼が埋葬されていた。
墓の上には当初覆(おお)い屋が設けられ、その形状から象山(きさやま)と呼ばれ親しまれていたが、300年頃に神体が移動する。
移動は隠国(こもりく)に入り、初瀬の辺を経由して、伊都国の神在の地に至り、伊勢神宮として祀られたと考えられる。なお当時は玄界灘を響灘と呼んでいた。(中略)
京(みやこ・大宰府都城)は倭京(ゐきょう)とも呼ばれ、高さ十数メートルの垂直な城壁に囲まれた都市であった。
現在に残る水城(みずき)は、白村江の戦(たたかい)後の占領唐軍が取り壊した後に造られた代替物である。
人や車などが通る城門は逢坂(おうさか)の関(せき)と呼ばれた関所である。
賀茂川 (現在の御笠川) は逢坂の関の並びに城壁をくり貫いて流れており、夜には鉄格子の扉が降り船の出入が閉ざされる。
城壁の外に船溜りが在り、船を降り逢坂の関を利用する場合もあったようで、外町を形成していた。
一方、城壁の中では賀茂川は小さい湖を形成しており、船溜りとなっていた。そこが淀(よど)である。
そして大宰府都城が京(みやこ)で、現在の政庁跡に内裏があった。(以下略)