現代の常識では推し測れない古代の人口動態 | 民営文化センター

民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

 

 

10年ほど前、古文の教師をしている高校時代の同級生と古代の北部九州の人口について議論したことがあります。

 

米田良三氏に拠れば、博多・太宰府・佐賀あたりは今以上の賑わいがあり、その根拠として『源氏物語』の舞台である京都が実は太宰府のことだ、というのですから、その説に教師である彼は納得できない様子でした。

 

国土地理院の地図(三瀬村界隈)を見ると、山中に多くの卍や鳥居のマークが目に止まり、地域に根ざしたかつての住人たちの姿が偲ばれます。

 

倭国長谷寺が嘗て在った、とされる佐賀県三瀬村の西にある下無津呂で子供時代を過ごされた久保田氏によれば、「昭和28年には、小・中学校合わせて800人いたのが、今では58人」だそうです。

 

この一件だけでも、あるエリアの栄枯盛衰を現時点のイメージで判断してはならない、ということが分かります。

 

500~600年代の北部九州は、まさに国風文化の花が咲き誇っていたと思われます。