571年、平等院鳳凰堂は太宰府の南の俗名院(エクセレント・ハイツというマンションが現在建っている)に造られ、1050年頃、現在地に移築された。
倭国の始めの頃は邪馬台国と呼ばれ、卑弥呼の宮殿は現在の太宰府(遺跡は最下層に位置する)にありました。
倭国は大宰府を首都とする連邦国家で、後に大和朝廷の母体となる扶桑国も連邦の一つでした。
500年代の終わり頃(法興帝の時代)、東北に在る連邦の一つである「日の本」の国名を譲り受け、倭国は「日本」を名乗ります。
その後、白村江での敗戦、唐による日本占領、大和朝廷の「日本(倭)国」乗っ取り、と続くのですが、乗っ取った側の大和朝廷が「日本」を名乗り始めたのです。
ここまでのストーリーなら、ごく普通に歴史として語られても良いのですが、何分、乗っ取りの内容が世界に類を見ない醜いものでした。
建築物、文学作品、絵画、地名、人材等殆どすべてを九州から近畿に移し、倭国の存在を全て消してしまい、悠久の大和を演出し現在に至っているのです。
これでは「日本」の国号の成り立ちの真相は恥ずかしくて歴史教科書に載せられるはずがありません。
何しろ“倭国の存在を徹底的に消す”と言う密約が則天武后と天武天皇の間で交わされていたのですから、現在の体制側の歴史学者たちはフリーズするしかありません。
倭国の終わりのほうの短い期間の「日本」と大和朝廷が盗んだ国号を区別するために、米田良三氏は前者を「日本(倭)国」と表記するように提案したのです。
「米田建築史学」とは、消された倭国を復元するための学問なのです。

