移 築 説 のまとめ by米田良三 | 民営文化センター

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民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

 

 

前回の続き

 

続 法隆寺は移築されたYONEDA' 建築史学入門』から丸ごと引用です。

 

 

 

七大寺年表 は法隆寺など移築された建物が記録された唯一の文書である。『逆賊磐井は国父倭薈だ』「長谷寺」参照。

 

 

観世音寺の中心伽藍の中門・金堂・五重塔・講堂・回廊と鐘楼・経蔵が移築され、斑鳩に配置を変えて法隆寺西院伽藍として、710年頃作られている。外観からは異なる寺院としか見えない。『法隆寺は移築された』参照。

 

 

観世音寺伽藍の一条通りに面した長大な北面堂(三十三間堂)は千体仏を安置しており、阿弥陀信仰が復活した平安末期に、平忠盛により移築され京都三十三間堂となった。『建築から古代を解く』「三十三間堂の謎」参照。

 

 

源氏物語』玉鬘の巻で、三條が夕顔の女房の右近と再会した時の会話で、あなかま、たまえ。大臣・公卿も、暫し待て。大貮の御舘の上の、清水の御寺の、観世音寺に詣で給ひしいきほひは、帝の御幸にやは劣れる。あな、むくつけ」と反論する。清水寺と観世音寺は同語反復されており、清水寺が観世音寺の別称であることが分かる。現在の観世音寺の正式名称は清水山 観世音寺である。京都の清水寺は『源氏物語』における筑紫の京の観世音寺の役割を荷負わされている。

 

 

東院伽藍は上宮王の住居を寺院に造り変え、創建観世音寺金堂の脇士である救世観音像、百済観音像を主仏として安置した観世音寺東院を移築したものである。

 

 

佐賀県三瀬村の谷にあったと考えられる長谷寺は日本(倭)国滅亡(672年)の後、解体し奈良に移築される。銅板法華説相図の作製は銘文から686年であり、このころ移築が行われたことが考えられる。『七大寺年表』には721年に「建長谷寺」とあり、一応の移築完成を見たのであろう。創建以来、本堂が6回焼け、現在の観音像は7代目と説明されるが、真実ではない。517年作の巨大木造彫刻 十一面観音像が現存するのである。

 

 

奈良東大寺は宇佐市小倉山東大寺から移築されており、大仏の下半身、大仏殿の部分、南大門などに移築が確認できる。『逆賊倭薈は国父倭薈だ』参照。

 

 

倭薈の終焉の地は宇佐市小倉山である。法域として整備され塔が建った。移築されたのが薬師寺東塔であり、移動した倭薈像、王子像は薬師如来像、日光月光菩薩像と呼ばれている。『逆賊倭薈は国父倭薈だ』参照。

 

 

福岡市街地の過去は近江の海であったが、現在の大橋の奥、井尻の対岸にあたる場所に三宅廃寺遺跡がある。それが日本(倭)国時代の石山寺である。石造文化の粋である石山寺の建物と石刻像は唐軍が中国に運び去り、山東省などに埋納した。古典籍などは名称とともに滋賀県の現在地に移った。

 

 

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