明日の 除夜の鐘 の中継はどうやら京都知恩院のようです。
「紅白」を見ない人(心ある人は誰も見ないと思いますが)でも是非これだけは観て下さい。
公式データでは
知恩院の釣鐘は、高さ3.3m、重さ約7tと言われる巨大サイズ
鋳造は、寛永13年(1636)国の重要文化財です❢
徳川家が帰依する寺で、現在ある建造物の多くは、徳川家がかかわっています
とありますが、米田良三氏は従来誰も唱えなかった説を『長谷寺考』で述べています。
引用
①『知恩院史』(知恩院)の「大鐘楼」に「彼の南都東大寺大鐘楼に髣髴(ほうふつ)たるものあり、或いは彼に暗示を得たるものか」とある。
②「1636年に霊厳上人が鋳(い)、仮楼を設けて掛けたが、1678年現行の構えとした」と、『知恩院』(知恩院)「大鐘楼」にあるが、重量からして仮楼を設けて掛けたということはあり得ない事だ。
なぜこのような大鐘を造る必要があったのか理由がないし、事実なら江戸時代の中井家が関係しており、大工の名前が明らかにされるであろうし、作業の内容も伝わるはずである。
この記述の裏に移築の事実が隠されていることは疑えない。
③ 袈裟襷と撞座の配置、乳の数、笠形に施した懸吊装置まで奈良東大寺鐘と同じである。
つまり、知恩院の鐘は先の二つの鐘と同様の大きさであり、鐘の特徴も同じである。
鐘楼も同じ造りである。東大寺鐘、方広寺鐘と同じ技術が用いられ、同時期に造られたものが1100年後に移築されたものと思われる。
[10.梵鐘に関する考察]で検討したように知恩院の梵鐘は長谷の尾上の鐘を移築したとしたが、鐘楼は、この経蔵から五十七年後の延宝六年(1678)に造られたとされる。
経蔵に引き続き中井家によって移築が行われたものと思われる。
知恩院の鐘楼の大きさを測っていないが、三瀬村の善正寺に残る基壇の上にぴったりと座る大きさと判断出来る。
つまり、倭国の時代、長谷寺は佐賀県三瀬村にあり、現在の善正寺の石垣の上にあった(長谷寺の一構成要素である)鐘楼を鐘もろとも江戸時代に知恩院に移築したという驚くべき事実を述べているのです。
中井家とは現在でいうところのゼネコンです。
清少納言の『枕草子』のオリジナルは九州が舞台で平安時代の作品はパクリ・改編作品なのです。
この大晦日には平安時代を一気に飛び越え本物の紫式部、紀貫之、清少納言らが聴いた 生(ナマ)の鐘の音 のライブ中継を聴くことができるのです。
何のことかさっぱり分からないと思いますが、とにかく ひとまず聴いて それから勉強して下さい。
佳き 2017年が始まることでしょう。