燃えよ 三瀬村 の続編です。
三瀬村 合瀬地区のハザードマップをお借りして倭国時代の長谷寺を御案内しましょう。
A そのまんま“初瀬川”が流れています。大和朝廷の消し忘れでしょうか。油断していましたね!
B 門前町“椿市”エリアです。現在「宿」という地名ですが、遥か昔を連想するネーミングです。倭国の痕跡を後世に残したい人がいたのでしょうか。
C 低い石垣に囲まれた三角の土地で現在は畑です。回廊のスタート地点にふさわしい雰囲気を醸し出しています。
D 大悲閣が建っていたところです。この丘の登り口は分かりにくいのですが、宗像のグループが登頂に成功したそうです。礎石などチェックすべきエリアはまだ残っています。
E ここ萬福寺には京都・知恩院にある経蔵が江戸時代まで在りました。
F 同じく善正寺には鐘楼が在りました。“往く年来る年”でお馴染みの知恩院の除夜の鐘の音はここ元祖長谷寺のものなのです。本物の清少納言、紫式部も聞いていたのです。
赤いジグザグラインは回廊です。現在の長谷寺の登り廊とはイメージが異なります。
三瀬トンネルを出て佐賀へ向かう途中に広がる観光スポットの手前に、このような歴史(学校では習わない)的なスポットが誰にも知られることなく眠っているのです。
このハザードマップは、そっくり倭国長谷寺の敷地が含まれていますので、お寺の案内パンフレットのような物です。
この特ダネは例え仮説と断ったとしても、マスコミは発表できないでしょう。
裏を取るにしても、頼りにすべき学者さんたちにとっては著しく不都合ですからね。
建築、秘史に長けた米田良三氏が現地で確認する場に立ち会ったからこそ自信を持ってこのブログを書いているのです。
私一人では出来なかった業(ワザ)です。