この日、礎石は水面下でした。
小倉池は古代からあるにもかかわらず、表の歴史では江
戸時代に掘られた溜め池と言われています。
このような小細工が歴史をつまらなくし、地域の活性化
を阻害しています。
小倉池廃寺は水面が下がると基壇と礎石が顔を出します。
創建時の池のサイズはもっと小さかったと想像します。
お堂のサイズは4間×5間だと言われています。
これは勝手な想像ですが、奈良の東大寺の三月堂(法華
堂)の西半分がここにあったのではないかと考えます。
歴史の勉強は、まずは楽しい仮説を立てることから始ま
ると思うのです。
『東大寺要録』にある説話に「執金剛神像を安置し、そ
の前で礼拝を行った」との記載があるそうです。
以前、奈良東大寺の三月堂の東半分(鎌倉時代の増築分)
に入るために拝観料を払った後、西半分では執金剛神像
が特別拝観ということで、追加して500円払ったことをよ
く覚えています。
この二つの執金剛神像が同じものかどうかは分かりませ
ん。
三月堂については既に触れています。