「あとのまつり」の語源は祇園祭 | 民営文化センター

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「あとのまつり」を英訳すると「after the Festival」であるというジョークがありますが、意味は




http://ejje.weblio.jp/content/%E5%BE%8C%E3%81%AE%E7%A5%AD%E3%82%8A  です。






語源については米田良三氏の以下の説が納得です。





祇園祭は倭国の首都・大宰府のイベントでした。大和朝廷が実権を握ってから祭りと山鉾が京都に移動したのです。山鉾巡行は最近までは一度に行われていたのですが、再び以前のように「さきのまつり」「あとのまつり」という言葉どおり、日にちをずらして行われるようになりました。



その「あとのまつり」の山鉾は八幡山・南観音山・北観音山・・・・の9基です。祭神を見ると八幡は倭薈、南・北観音は上宮王関係者・・・・です。つまり、倭国の王室とそれを支えた人々ですが、大和朝廷に潰された今となっては、どれほど立派な人であったとしても「あとのまつり」と自嘲気味に扱われるようになったのが語源というわけです。      






写真は長刀鉾(なぎなたぼこ)に飾られる一番古いタペストリーですが、卍マークが見られます。卍は倭薈(倭国王、後に阿弥陀如来とみなされる)の象徴ですので、山鉾の中には法隆寺(移築前の太宰府観世音寺)と同じくらい古いものがあるはずであり、史上、類のない祭ということになります。表(おもて)の歴史はロマンのないものに改変されているのです。






ネット上の語源の解説は米田説に比べて、どれもが貧弱に思えます。




定説を見る

 http://gogen-allguide.com/a/atonomatsuri.html