上っ面では人権・平等・命・自由は大切などと言いつつ、心の中は?

 

自分とは異なる主義・思想・考え方の人はどうでもいい!

 

と受け取れる

 

ほれ!

 

特に説明は必要なかろう!

 

彼が安芸高田市長の時、居眠り議員を叱りつけ、反発されればそのまま対立関係となり、議会と協力しての行政を実現しようとせず対立関係のままで推し進めた理由がよくわかる。

 

自分の考えとは異なる議員に対しては何の敬意も無かったわけだ。

 

自分の考えに反発する者などどうでもいい、関係を築く必要も無いとでも思っていたのではなかろうか?

 

居眠り議員を叱りつけたとしても、その後は敬意をもって接するなどすれば、最悪の対立関係が継続することはなく、時には協調、時には対立を繰り返す程度で済むはずだ。

 

彼はそのような関係を築こうとはせず、考えが異なる者を単に切り捨てたのだろう。

 

敵を味方にする能力は彼には無いのだろう。

 

ひたすら、自分とは異なる考えの者を敵とし切り捨てていくのみ!

 

 

 

ま、その行い、いつしか自身に返って来る。

 

他者に対し敬意を持たぬ者に敬意を持つ者は居なくなる。当然の成り行き。

 

 

 

蓮舫氏も似たようなもの。

 

自分とは異なる考えの嫌いな人物に対しては平気で「あほんだら」と暴言を投げつけることができる人物だ。

 

ブログ記事 「立憲民主党 蓮舫氏の言う発言力って『あほんだら』?」

 

 

上っ面では人権・平等・命・自由は大切などと言いつつ、それは誰に対しても平等ではなく、自分と異なる考えの人は関係ねぇ、だから、国会中継されている状態で平気で「あほんだら」が言えてしまう。

 

私、社会人として社会に出てから社会において「あほんだら」などと他人に言ったことないわ!

 

どんなにイラついたとしても、もう少し頭を使って別の方法で自分の感情や意見を相手に伝える。

 

 

 

この二者に共通するのは、普段は聞こえの良いことを言っているが、相手や自身の都合によって態度が異なるということ。

 

自身の言動に筋が通っていない。

 

誰に対しても敬意をもって接するという精神ではない。

 

だから、敵は敵でしかなく、敵を味方にすることなど考えもせず、できもしない、よって味方はなかなか増えない。

 

仲間内で敵を罵り気勢を上げたり、慰め合うばかりとなる。

 

 

 

戦国武将なら周囲があっという間に敵だらけとなり終わる。

 

時には敵対し、時には協調し、時には味方となり、それをうまく切り替えながら継続できたものが天下を取る!

 

敵は敵でしかないと、一切の敬意を払わず蔑ろにすれば、あっという間に敵だらけ。

 

継続は困難となる。

 

なので、たとえ嫌いな敵でも最低限の敬意をもって接することは大切なこと!

 

今は敵でも、時には協調し、時には味方として・・・という先をまったく考えないから一切の敬意を払わず蔑ろにしてしまう。

 

目先しか思考が及ばないということでもあろう。

 

徳川家康にはなれないだろうな。

 

 

 

ま、人ならば誰に対しても最低限の敬意を忘れてはならない。

 

自身が誰からも最低限の敬意をもって接してもらいたいならなおのこと!

 

自身は誰からも敬意をもって接してもらいたいけど、自身にとって嫌いな人物には敬意を払わないというのは虫が良すぎる。