日本学術会議元会長の広渡清吾氏と橋下徹氏の討論。

 

https://twitter.com/kazu10233147/status/1318176810673242114

 

 

 

日本学術会議や反政府を信仰している人には感じられないかもしれないが、明らかに広渡清吾氏の理論は破綻している。

 

法治主義なのだから国会を通さない法解釈がダメだと主張しているが、であるならば、法治主義だからこそ、何らかの法によって「政府による法解釈の決定、変更には国会による決議が必要」という定めが必要になるということでもある。

 

法解釈に関する法律が無い状態で、「国会を通さない法解釈はダメ」と主張したところで、それも明確な法律に基づく主張ではなく解釈程度の曖昧なものである以上、「法治主義」とは言えない。

 

また、「内閣に属する行政権は法律に基づいて執行される。」とも主張しているが、であるならば、法律の条文が最も重要視されるべきで、解釈で運用ということを受け入れている時点で「法治主義」の主張はさらに薄れる。

 

「法治主義」を掲げるならば、法を解釈で運用すること自体を問題視すべきだし、「国会を通さない法解釈はダメ」と主張するならば、そのように法律で定めるのが筋だろう。

 

本質をほったらかしにして、日本学術会議の会員任命にだけ「法治主義」だの「国会を通さない法解釈はダメ」だのと言い訳のように主張しても、いつしか辻褄が合わなくなり、自身の主張の一貫性が損なわれ弱まるだけだ。

 

 

 

そもそも、「法治主義」に基づき、法律の条文を正しく解釈すれば、日本学術会議の会員任命を内閣総理大臣が拒否することも可能ということになる。

 

なぜなら、日本学術会議法には「内閣総理大臣は会員の任命を拒否できない。」とは定められていないからだ。

 

日本学術会議法の第七条に、「会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。」としか書いていない。

 

もっと簡単にすると、「会員は内閣総理大臣が任命する。」となる。

 

条文が「内閣総理大臣が形式的に任命する。」でもなく、「推薦された会員を内閣総理大臣は任命しなければならない。」でもない。

 

広渡清吾氏の言う「法治主義」に則れば、内閣総理大臣が会員の任命を拒否してはいけないという条文が無い以上、内閣総理大臣に「任命する、任命しない」という権限が存在していることになる。

 

「法治主義」に基づいて内閣総理大臣に任命拒否権を与えないとするならば、条文に内閣総理大臣に任命拒否権が無いことを規定しなければならない。

 

この考え方は日本国憲法が手本でもある。

 

10月13日に書いた私のブログ記事「日本学術会議会員の任命問題 天皇の任命権は「国政に関する権能を有しない」ことが前提としてのもの」に詳細を書いているが、

 

日本国憲法では第四条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と定めることで、第六条の「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する」において、その任命には権能を有しないこと、つまり、その任命は形式的なものだとしている。

 

しかし、日本学術会議法において、内閣総理大臣に対し「会員任命に関する権能を有しない」とは定められていない以上、日本学術会議会員任命については形式的なものではないと判断できる。

 

むしろこちらの方が本当の「法治主義」なのでは?と思う。

 

「法治主義」であるならば、日本国憲法で天皇に「国政に関する権能を有しない」と定め、内閣総理大臣の任命に関しても権能を有せず形式的なものだとしているのと同様に、日本学術会議法においても、内閣総理大臣に任命の内容に関する権能を与えず形式的なものだと定めなければ、内閣総理大臣に任命拒否権が無いなどと断定はできないはずだ。

 

 

 

それと、広渡清吾氏が主張している「法治主義」に則るならば、日本国憲法第九条と自衛隊の存在も不整合となるはずだ。

 

それとも、法律に基づかない法解釈による憲法第九条の運用でも「法治主義」と言えるというのか?

 

広渡清吾氏は、日本国憲法第九条と自衛隊の存在についてはどう考えているのだろうか?

 

実態に合わせるならば、憲法第九条を改正しなければならないので、広渡清吾氏や「法治主義」を訴える人々は憲法改正に賛成しているということなのか?

 

それとも、憲法第九条に合わせて、自衛隊を解体、日米安全保障条約も破棄、在日米軍にも出て行ってもらうべきということなのだろうか?

 

そうならば、誰がどのようにして日本国民の生命と財産を守ってくれるのかを国民に説明し納得してもらわねばならない。

 

その辺も広渡清吾氏に質問してみたいものだ。

 

もしかしたら、「日本を攻撃するような国は無いから大丈夫」みたいな考えなのだろうか?

 

だとしたら、その根拠は?と質問したいし、1974年に中国がどのように西沙諸島を自国のものにしたのか、1988年に中国がどのように南沙諸島を自国のものにしたのかを説明してもらいたい。

 

【参考】

ウィキペディア 「西沙諸島の戦い」

ウィキペディア 「スプラトリー諸島海戦」

https://youtu.be/W5s76XzDhrQ

 

 

1988年と言えば、日本がバブル景気で浮かれていた頃だ。

 

日本が浮かれていた頃、南シナ海では武器も持たず無抵抗だった生身のベトナム軍兵士たちが中国軍の航空機を撃墜するための37ミリ対空砲によって虐殺され、中国は南沙諸島を奪い取っていたわけだ。

 

このような事実がありながら、「日本を攻撃するような国はない」などとは言えまい。

 

日本が経済的にも、防衛力的にも、世界に対する影響力的にも中国に圧倒された時、それは起こるだろう。

 

そうでなければ、中国によるベトナムへの攻撃はなぜ起きたのか?という説明をどうするのか?

 

日本の尖閣諸島や沖縄が西沙諸島や南沙諸島のようになっていないのは、日本の経済力、防衛力、世界に対する影響力、日米安全保障条約の存在があるからだろう。

 

これらが一つずつ減るごとに、西沙諸島や南沙諸島のようになる可能性が高まるのだろう。

 

広渡清吾氏が主張する「法治主義」で憲法第九条を解釈せず条文通りの日本となった時、西沙諸島や南沙諸島のようにならないと言える根拠を示し、国民が納得できるように説明してみよ。

 

選挙により多くの国民に選ばれた国会議員でもある総理大臣を「バカ」だの、「嘘つき」だのと罵れるほど、学識、良識、人生経験、徳がおありの日本学術会議元会長の広渡清吾氏ならば、容易なことでしょう。

 

それとも、「法治主義」のためにも憲法第九条を解釈で運用せず、実態に合わせて改正しますか?

 

 

 

話が飛躍してしまったが、「法治主義」ならば、法解釈の手続きについても法律で定める必要があるし、現状、法解釈の手続きについての法律が無いのであれば、国会を通さない法解釈が「法治主義」に反するとは言えない。

 

また、「内閣に属する行政権は法律に基づいて執行される。」とあるのであれば、「法治主義」の観点からすれば「法律の解釈に基づいて執行される」と定められていない以上、「法解釈」による法の運用、行政はあってはならないとするのが筋だろう。

 

「法治主義」を掲げるのであれば、法律にもどこにも規定されない「解釈」自体を安易に許してはいけない。

 

それは矛盾することになる。

 

日本学術会議元会長の広渡清吾氏の主張・理論は、肩書と雰囲気でそれっぽく聞こえるかもしれないが、日本学術会議法においても、日本国憲法においても筋が通らず、破綻しているし、そもそも矛盾している。

 

法解釈を許すにしても、政府による法解釈の決定・変更の手続きについての法律を設け、尚且つ、解釈が決定された時点でもとの法律の条文を解釈に合わせて改正し、誰がどう読んでもそのように解釈できる条文に改めるべきだろう。

 

任命権があるかないか、法解釈がどうだったのか、解釈を変更したとか、変更の仕方とか、そんな上っ面でやり合ってないで、こんな面倒な事態が発生しないようにするにはどうすべきかをやり合え!

 

そもそも、この国は「法治国家」のくせに「法解釈」などという条文のどこにも書かれていない曖昧なもので法を運用しているのが問題なのだ。「法治主義」、「法治国家」ならば、「法解釈」の内容自体も条文に書き込むくらいの法改正をしっかりとその都度行いながら法を運用すべきなのだ。

 

日本学術会議こそがそのように主張、提言すべきなのでは?役立たずめ!