自分にとって気に食わないからと相手を全否定し排除しようとするその発想、思考に、もはや恐怖を感じない自身に恐怖を感じてもらいたい。

 

自分の考えや意見と異なる、自分の思ったように行動しない、だから「早くに死ねばよかったのだ」などと発想してしまうその思想について、思想史家を名乗る京都精華大学専任講師の白井聡氏はどのように分析するのだろう?

 

歴史上、そのような思想によってどのようなことが引き起こされてきたのかなども含め、追究してみてはどうだろう?

 

人類の過去の発想、思想と、現在の自身の発想、思想との比較をしながら、人はなぜそのような思想を抱き、上っ面だけで相手を全否定するような愚かな行為に至ってしまうのか?

 

ぜひとも研究して欲しい!

 

 

 

今のところ、全国紙やテレビで報じられていないようなので、知らない人も多いかと思うが、こんなことがあったらしい。

 

東スポWeb 「『死んだほうがいい』ユーミン批判の大学講師 〝荒井由実時代は好きでした〟で炎上拡大!」

 

 

 

まだまだ日本も世界も大変な状況の中、安倍首相が体調を崩し辞任したことに対し、安倍首相ご夫妻と親交があることもあり、その心中を察してラジオ番組内で「泣いちゃった」と言っただけのことに対し、

 

思想史家を名乗る京都精華大学専任講師の白井聡氏が、Facebookで

「荒井由実のまま夭折(※若くして亡くなること)すべきだったね。本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ。ご本人の名誉のために」

と主張。

 

 

 

思想史家として、このような思想が世界の歴史上においてどのような結果、事態をもたらしたのかを教えて欲しいものです。

 

自分の考えとは異なる者に「死ぬべき」と雑な言葉を投げつけるということは、自身も、自分とは異なる考えの者から「死ぬべき」という雑な言葉を投げつけられてもいいということでもあろう。

 

そんな雑な言葉の投げ合いで何が生まれるのだろう?

 

無駄に雑音が増え、今以上に生きづらい世の中になるだけだろうに・・・

 

思想史上、そのような思想が良い結果をもたらしたことがあったのだろうか?

 

このことについて詳しいのは京都精華大学専任講師の白井聡氏の方だろう。

 

 

 

私が思うに、思考の範囲が自身を中心にほんのわずかな範囲でしかなく、そのほんのわずかな範囲に少しでも自身とは異なる意見、考えを持つものが入り込んだわけでもなく、関係ないところでただ単に心情を発しただけで勝手な解釈で勝手に反応して攻撃しに行っている状態。

 

松任谷由実氏は白井聡氏を攻撃したわけではなく、ただ単に、体調を崩して途中で辞任した人に対する心情を発しただけなのに、「早くに死ぬべきだった」などと攻撃されてしまうなんて・・・もはや言論におけるテロや通り魔のようなものだ。

 

大変恐ろしい事態だ。

 

まさに、今現在、中国政府が香港、新疆ウイグル自治区、チベット自治区などで行っている言論と思想の統制や、かつての大日本帝国が国民に対して行っていた統制と同じ思考だ。

 

政府の考えとは異なる言論を封殺し、政府に反する思想は一切許さず、そのような思想の持主を逮捕し、時には処刑する。

 

しかも、現代の中国政府は、それを国内だけではなく、海外においても適用させようとしている。

 

自分の周辺だけでなく、離れた所においても、気に食わないことがあれば攻撃するということ。

 

この中国政府の行いを個人版として知らず知らずのうちにやっている人がちらほら存在している。

 

今回、京都精華大学専任講師の白井聡氏が行ったこともそっくりではないか。

 

 

 

面と向かって討論している相手を攻撃するわけではなく、レーダーを張っておいて、そのレーダーに引っかかり反応したら攻撃しに行く。

 

実に好戦的、攻撃的な思考とやり方。

 

このような思想、思考、やり方で、少なくとも世の中が平和になるとは思えない。

 

批判のつもりの主張だとしても、「批判」の意味をはき違えているし、「早くに死ねばよかった」などと主張してしまえば、それは全否定でしかない。

 

自分の意にそぐわない部分があるだけで相手を全否定し、挙句の果てには「死ね」などと抹殺しようとするその思考。

 

そういう世の中がご希望ですか?

 

反射的にそのような思考、行動をしてしまう自分を怖いと思いませんか?

 

知らず知らずのうちにそうなっていたとしたら、自身の鍛錬がまだまだ必要だということではありませんか?

 

何事も全否定せず、お互いの存在を認め合いながら何とか良い方向へ進めようとする考え方が必要なのではありませんか?

 

 

 

気に食わなければ全否定するというのは、実に簡単なこと。

 

人間って愚かにも簡単な方に偏って行ってしまうのですねぇ・・・

 

昔の人はそれがわかっていたからこそ、そうならぬよう宗教や哲学を大切にし、生活の中に取り入れながら暮らしていたのではとも思うのです。

 

それをさらに分かりやすく、便利に使いやすくしたのが「ことわざ」なのではと。

 

今ではその「ことわざ」さえも薄れつつある。

 

そうなるともう自分中心の感情、感覚だけが基準となり、それだけが正義かのようになってしまう。

 

せめて、「ことわざ」だけでも見直しません?日本。

 

 

 

ちなみに、白井聡氏がFacebookに投稿した記事は、批判を受けて削除し、謝罪と言うか言い訳を掲載しているが、言葉は自身から言い放ったら消し去ることはできない。

 

Facebookから削除しても、それは上っ面では削除しているが、読んだ人の記憶や心には残るだろうし、一字一句までは覚えてなくとも白井聡氏に対して抱いた印象や人柄はもう削除できない。

 

その時の感情だけで反射的に投稿する前に、数十分でも時間をかけて頭で考え、心で相手のことを感じたでしょうか?

 

心で相手のことを感じることをしていれば、「知り合いが体調を崩したことに心を痛めた」のではないかな?と感じ取ることもできたのでは?

 

それとも、白井聡氏は、自分の嫌いな人の体調を気に掛けることさえも許せず、この世から消えて欲しいと思うのだろうか?

 

 

 

先日書いたブログ記事 「立憲民主党 石垣のりこ議員 後にお詫びするようなツイートをする前に、頭で考え、心で感じましょう」でも書いたが、反射的の行動せず、もう少し頭で考え、心で感じとる人間らしさ、人間の特長を取り戻した方がいいのでは?と思う。