【作文】「意識が機械に移行する」ということを僕は今のところ全く信じられない。 | 結局、愚痴のはきだめ

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非公開ブログを目指していたけど…挫折。


僕は「ブレインマシーンインターフェイス」という試みについては、科学や工学の本能からいって当然のフェーズの探究だろうと思うし、また神経が電気信号を利用して機能していることからいっても、人類が着手するべき当然のフロンティアだと思っています。

なにしろその試みは、社会的な意味でもそれらは特に身体に障碍を持っている方にとって「かなり根本的な生活の質の向上ツール」となるとも思うのでむしろ促進すらされていい研究だと思います。

ですが、その方向の探究・研究において僕が「妥当だ」と思うのは、一つの前提ないし限界を踏まえてのことであるわけです。

その前提というのは以下のようなものです。

『意識というものは今だに科学がその謎を解明できていない“クオリア”というものが根っこになって成立している大樹のようなものであるはずである。そしてブレインマシーンインターフェイスという技術については、あくまでナチュラルな人間各自に機能として宿っている“クオリアという謎の根っこ”という機能の部分はそのまんま保持した上での“意識という大樹における枝葉の拡張”という範疇のものであるはずだ』

ということです。

別の言い方をすれば「意識作用という大樹」は「クオリアという今だ人類にとって謎のままである意識においての根っこ」をちょん切られてしまったら「完全に崩壊する」ものであるとしか僕には思えないわけです。

つまり「マシン×脳≒マシンと脳の融合ないし完全移植」という技術分野の限界というものを画するものとして「クオリアという意識作用をなりたたせる根っこ」というものが厳然あるはずだと思うわけです。

そういう僕が限界と思うところをあえて無視して「マシン×脳」を拡張しようという営みは、僕の予測では「人間意識の消滅と同時に、人工の哲学ゾンビが生成される営み」にしかならないと思うわけです。

 

それは「意識の存続」ということの実現というよりは、引いた目線からいえば「タネのあるマジック」のようにしか僕には思えないわけです。

 

その手品のタネとはつまり「死の直前かそれとほぼ同時に哲学的ゾンビを人工生成するというプロセス」というところにあると思うわけです。

 

その二つのことを「同時」にすることで、全体としてそれが「不老不死というマジック」として見えてしまう、みたいな把握に僕にはなるわけです。

 

研究されている学者さんがそういうことを考えているつもりもないはずなので、そこの良心を疑うつもりはもうとうないのですが

 

「誰がしかけたともない幻想にだまされる」ことは僕ら人間は人間関係やら政治などを筆頭によくやらかすことなので、むしろ人間においては「幻想にだまされる」なんてことは普通でデフォルトのことでしょう。そこをエラそうに批判するほど僕は幻想から自由な立派な人間であるわけでもない…。そこの僕の動機ないし意図についてはどうか誤解なきようおねがいします。

もちろん、ある人においてすでに「難病が発覚し、明らかに死期が目前に迫っている」という限界状況に追い込まれている場合においては、そういう哲学じみた「賭け=投機」もその人の選択できたという満足をふくめて「ある意味でペイ」するのかもしれませんが、

僕はその賭けが「肉体の死後も生き続ける」ということを叶えてくれるものであるとは今のところ到底思えないわけです。

まるで生命保険のようにもっぱら「残された大切な人達のロスの苦しみを緩和するために」というようなことで「ヴァーチャルな人格」として自己の人格を機械上で動く「人工の哲学ゾンビ」として残したいということなら、僕はそれは妥当な営みだろうとすんなりと理解できます。

でもそれは「肉体の死後も自分が生き続ける」ということとは全く別のことだと思うわけです。

それというのは自分にかけられた生命保険が自分の死後のウェルフェアとは何の関係もなく、あくまで残された家族のためのものであるということと同じような感じにおいてそうだと思うわけです。

つまりそれ(=自分の人格のアルゴリズムとしてのコピー)は「生命保険」や「形見」として家族に残すプレゼントとしては有意義だろうと思われますが、死ぬ当人においてそれ以上のものでありうるとは僕は思えないわけです。

その機械上に生成された「哲学的ゾンビ」は僕にはいわば「形見2.0」ないし「ネオ形見」というふうなもののようにしか思えない。

この見立ては脳科学の専門家からみれば雑な対応関係の図式みたいに思えるのでしょうけど、僕のイメージする「枝葉」と「根っこ」の現実の脳の部位との対応関係は以下のようなものになるといえると思います。

 



〇 「意識という作用における枝葉の部分」=「大脳を中心とする進化プロセスにおける新しい脳部位/クオリアにとっての映写機の部位」

〇 「意識という作用における根っこの部分」=「脳幹や中脳や間脳や、もしかしたら腸の神経すらも必須の部品となっているかもしれない進化の過程における古くからの脳部位/クオリアにとってのスクリーンとなる部位」



よくSFとかでは「脳の機能をまるごと機械上にプログラムとして移植する」などという企図が語られたりするわけですが、

たいていそれは「大脳のコピー」くらいのことしか視野にはいっていない「神経という体系におけるあまりに偏ったつまみぐい的なコピー」でしかないみたいなんですよね。

うっかり「脳=中枢神経」という話題を逸れて「神経という体系」といってしまいましたが、僕は「人間意識」というものはひょとすると「大脳に局所的に宿るものではなく、脳全体に宿るものである。いや、それどころかもしかすると脳のみならず全身に張り巡らされた神経系のいくつかの部分すら必須のものとするものとしてはじめて現象するものなのかもかもしれない」とすら思います。

さすがに全ての末梢神経まで「人間意識という機能の必須の要素」とはいえないかもしれません。

なにしろ、たとえば親不知を抜くというくらいのことにしても歯髄における神経などは確実に犠牲になるはずだし、さらに事故や治療上やむにやまれず手術で切り落とされた手足などの末梢神経は失われたままであるはずで、その後も人間としての生は当然に続くはずなんですからね。

あまり考えたくない思考実験ながらも、もし人間の神経系を抹消の方から中枢に向かうかたちで「ジリジリ小刻みに刻んでいく形で捨象していく」というテストをするとすれば、どっかの時点で「人間の意識という機能が崩壊するポイント」に至るんじゃないかと僕には思われるわけです。

それはもしかしたら「脳幹の一歩手前の脊髄をちょっと残したくらいのところ」だったりするのかもしれませんが、そうであるにしてもそれは「意識作用は脳という部位のみで成り立っているのではない」ことの証明にはおそらくなる…。

その点については、僕はまともな根拠は示せないながらも、意識の部品は大きい物集合だと思っていて「腸にはりめぐらされた神経の何割かを失った時点で人間の意識は崩壊する」というくらいに夢想していたりします。

なにしろ頭痛と腹痛を慢性的に抱えている人間としての僕は「脳腸相関」というものに限りない説得力を感じてしまっている人間ですのでね。

僕のクオリアの一部はどうも腸にある神経が担っていると思われて仕方がないのです。

サンプル数1(=自分の経験による信憑)のことをさも意義が大きいようにエラそうに語ってすみませんww

えー、ともかく、僕は「自分の意識をまるっと機械上に移植して不老不死を得る」なんて企図を今のところはまったく信じる気になれません。

もちろん、そういう事を追究する研究がなされていることで僕はなんら直接の被害を受けるわけでもないので、そういう研究を「自分の個人的リスクの範囲内」でなさっている研究にたいしてまで、僕みたいが外野が妨害したりすることは妥当ではない。

とはいえ、僕は「その企図はきっと落胆におわる」と思っているので、そこに期待を抱く人たちのことをだまってみている気にもなれないわけです。

 

研究者ご自身の「自分の体を対象とした治験」を優に越えて、特段の希望者やら、さらにはビジネスとしてそれを希望する顧客にまでそれを適応することになれば、それについては「ちょっと黙っている気にはなれない」というのが僕がこの記事を書こうとした動機なわけです。

僕は攻殻機動隊のバトーではないですが「自分の命はなんにつかってもいいはずだ」という向きの人間ではあります。

でもさすがに「誤解に基づいてみすみす自分の命を落とすことになる」というような「ロミオとジュリエット」みたいな悲劇を漫然と放置していいとも思えない。

そういう研究は意欲的なもので頼もしい知的探求とは思うし、その研究をしている人が自分を使って人体実験をするのは「勇敢な自由の行使である」と称賛する気すらあるものの、

そうでもない人にまで、まるでジェンナーが自分の息子の腕の傷に牛痘によるかさぶたをこすりつけたというなことが相当な数において社会に起こってしまうことを危惧するわけです。

まぁ、ジェンナーの目論見は実際には成功したわけで「結果オーライ」とでもいうべきものだったわけで、僕がそのいわば「電脳不老不死プロジェクト」に抱く危険性とは、真逆の結果になった冒険だったわけですが

それが「危険な冒険である可能性が高い」ということをその技術の「顧客予備軍」の人達には警告しておかないとまずいと思うわけです。

単純にいってそういう危険を知らせてはじめて「まともなインフォームドコンセント」だろうと僕には思われるからです。

えー、なにやら自分でもあまり整理がついていないのか、読みづらい悪文になってしまった感がありますが、

端的に以下のような思考実験をすることでだいたい僕のいいたい「アラート」というものは理解してもらえるかと思います。

つまり「自分の意識を機械上に移植することで不老不死を得たい」と思う人には以下のような思考実験で「Yes」だと思うまではその判断を思いきらないでほしい。

(※逆から言えば、以下の問いにすらためらいもなく「Yes!!」と回答できる人についてまで、僕からとやかくいうつもりはないということです。僕は自分の自由を確保してもらいたいことの当然の反面として、他者の自由を尊重する用意があるつもりの人間なんですからね…。)


【不老不死実験決断テスト】


『では、このマシンにあおむけになってください。今からあなたの脳をらドラえもんでいうところの“コピーロボット”にコピーする前段階としてのスキャンを始めます。しばらくこのスキャンマシーンでじっとしておいてください…………。

 はい、うまくコピーが完了しました。姿形を似せるというギミックはまだ用意していませんが、このマイクとスピーカーを通して数日これと会話をしてもらえさえすれば、このコピーアルゴリズム(≒コピーロボット)があなたの意識そのものであると感じてもらえるはずです。じっくり検品していただいたかまいません。

 というわけであなたの意識の不老不死はもう完成しました。あなたの意識はこのコンピュータ上で機能するアルゴリズムとして永遠の命を既にえたわけです。なのであなたは今すぐに死んでいいし、むしろこのあなたが2人同時に存在しているという異常な状態は排除されるべきですよね?何しろ意識は各時別のユニークなものとしてあるのが当たり前なのですから、同じ時間・同じ場所で。全く同じ意識が同時に現象しているということは、あなたの意識そのものを変容させる致命的なノイズになりかねない。

 あなたはそういう意味でも最初に説明したとおり、あなたのその自前の身体を破壊して、コピーロボット上の意識に「一本化」すべきなのです。それこそが正常で清浄な「不老不死」です。

 安楽死のための注射はすでにここに用意してあります。眠りにつくように楽に逝くことができますよ。それでは、今から永遠の命にあなたを一本化すべく、安楽死の注射を打つ処置にはいりたいのですが、良いですよね?YesですかNoですか?』


というような思考実験です。

もちろん、僕は「まだ人間意思は謎がおおいから、注意したほうがいい」ということをいっているだけなわけで、

これまで科学はさっきあげたワクチンなどを筆頭にして「当初は暴論と思われたパラダイム」によって破壊的革新を経てきた経緯がはっきりとあるわけです。

だから、僕のこの「警戒心」ももしかしたら、後になってみれば「ただの杞憂=心配しすぎ」というオチになるかもしれない。

それはそれでそうなってくれれば僕もうれしい。もし意識の不死というテクノロジーが実現することになれば、僕にとっても「自分の死にまつわる対処」について「極めて魅力的な対処法が一つ増える」ことになるわけですからね。

それを好ましいといわないほうがむしろ変なあまのじゃくというべきでしょう。

僕も不老不死という技術が確立してそれを選べるようになるならそれはもちろん「ありがたい」の一言であるわけです。

それを僕が現に選ぶかはそこでは問題でもない。選択肢が増えるということがとにかく人類にとって素晴らしいのですからね。

とはいえ、今は僕は、そもそも意識については今だにうかつに決めつけてかかって操作対象にしていいほど理解が進んでいないはずだ、としか思えません。

さっきいったようにブレインマシーンインターフェイスなどの「意識の枝葉としての大脳の機能」に限定したテクノロジーについては、安全な範囲での探究だと思うので、手術の不手際による痛みやら後遺症などの手術にはつきものの側面的な効果は別だとしても、基本線としてはまったく警戒しなくていい探究だとすら思っています。

ただ「クオリアごとまるっと移植できます」ということには今のところ到底信用ができないということなわけです。

 

そういうことを信じることこそがもしかしたら「実は代えが効かない形でこの身体に宿っているかもしれないところの僕ら各自のクオリア」をみすみす「自分からなげうってしまう」ことを誘因するかもしれないと危惧するからです。

人によっては、その両者の試みの間には極めて小さな違いしかなくて「なんならお隣くらいの最近接領域なんじゃあないか?」と思われるかもしれませんが、僕の「意識観」からすると両者は「とてつもない大きな違いがあるもの」と思われるからです。

もちろんそこを分けているのは「クオリアという根っこにまで手をつけてしまうかどうか」というところにあると僕は考えるわけです。

というわけで、僕のもさっとした読みずらい議論のことは忘れてくれてもいいので、以下のことだけぜひ忘れずに帰ってください。

「あなたは永遠の命を欲しているとします。そんなあなたはコピーロボットが自分を正しくコピーしたことを確認した後であれば、潔く毒をあおって安楽死を実行することになんら躊躇を感じないと思いますか?もしそこの判断を躊躇する自分を見出すのであれば、それはなたが“クオリアとう問題”になにかひっかかりを感じているということだと思われます。永遠の命の夢に早まるのはやめて、ぜひその辺の哲学議論を掘ってみてください。それからでもきっと遅くはない。」

ということです。

自分でもまとまりわるいと思うので、できればまた思考を整理して伝わりやすく書き直してみたいテーマです。

たぶん改訂版をかきます。

ただ、今のところこの文章が僕の思考の深度の限界のようなので、とりあえず、今日はこのへんで。

おそまつさまでした。