「陰謀論!」という「ただの呪文」にまだ効力があると信じ込む「ガチの祈祷者たち」が哀れでならない | 結局、愚痴のはきだめ

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非公開ブログを目指していたけど…挫折。



水戸黄門という時代劇には「葵の御紋が刻印された印籠」というものがお決まりのシーンとして登場してくるわけですよね。

あのくだりを、物語が誘ってくれる本筋からはやや引いた斜めからの目線で、いいかえれば「現代の立憲民主制の社会の通念の目線」において、観てみるのであれば、

そこでの「幕府の威光に怖れをなして条件反射のように一斉にドタバタとかしずく庶民たちのあり様」というのは、まるで戯画的な「権威主義の虜たちの図」というふうに浮かび上がってくるものでもあるわけです。

もちろん、その時代劇というのはあくまで過去の時代を舞台にした娯楽作品であるわけで、そうである以上、その鑑賞に際しては、さっきもちだしたような「無粋なリアリズムの目線」はどっかにほうっておいて、

純粋にその作品における「勧善懲悪のストーリー」に没入してそこでの痛快さを愉しめばそれでいいわけです。

だから僕は水戸黄門という時代劇(フィクション)になにか批判めいたことをいおうなどということを企図しているわけではないんですよ。

というか、もしそんなことをムキになって語る人がいるとしたら、それこそ「相当あほらしい」ことになっちゃうはずです。

僕は現代左派ではないので、もはや彼らのお株ないしトレードマークとすらなりつつあるところの

「フィクションと現実を都合よく混同する姿勢」というべき彼らの基本姿勢に全く共感しません。

そしてその姿勢の帰結ないし発現症状としての「既存の人気コンテンツ(フィクション)に細かい文句をつけ」たり、また「現実の政治に現実を無視した夢想的アイデアをねじこもうとする」というような振る舞いをまったくいいことだとは思っていません。

フィクションはフィクションでよくて、現実は現実である。というだけのことであって、その両者の間に横たわっているべき「けじめ」をみだりに踏みにじってはいけない。

(※ここでの「いけない」という言葉は道徳的命令というのではなくて、僕ら庶民のためにならないような「誰トク?な結末をもたらすだけでしょ?」というような僕ら庶民にとっての共通利益のための予めの警告をいっているわけです。もちろんどっかで高みの見物をしているのだろう世界の1パーセント未満の強者にとってはそれが「とても都合がいいプロパガンダ」のでしょうけど、そんな結局のところ彼らだけが得するだけの結末は、少なくても「自由主義ないし人権擁護主義の世界観」とは到底あいいれないとんでもない時代錯誤であるはずだと思われます。本来は左派こそがそういう風潮にもっとも強硬に反対しなければならないはずだというのに、もはや盲目状態なのでしょうかね?現代左派ってのは?)


そういうふうに「フィクション/現実社会≒政治経済」という「けじめ」をつけておかないと、現実の複雑さもわきまえないような「即席の浅はかな理想主義者≒新興の神学者たち」に直接ないし間接に「社会という共益の基盤」をい何度破壊されてしまってもおそらく足りないですからね。

(※もちろん「フィクションを強引に社会の“である論”や“べき論”に向けてねじ込んではいけない」ということは、昨今、陰謀論と揶揄されがちな僕ら「反-権威主義の危機管理派」にもブーメランとして帰ってくる警句であることは言っておかなければなりません。「フィクションに呑みこまれてはいけない」というその警句は、左派にのみに特異的にあてはまるだけのことだ、なんて道理はもちろんないはずなわけで、僕ら自称「反-権威主義の危機管理派」もそのことは何度も自戒しなければならないことだと思われます。人のふり見てわがふり直せ…。ところで上の段落において「間接」という言葉を差し込んだのは、「夢想的な政治」によってずたずたに国益が毀損されたあとに、その無力化された国家に向けて海外勢力が当然な流れとして進出することになる結果、国がついには破壊される、というようなやや込み入ったシナリオもありうるだろうことを示唆しようとしたものです。)


問題だといいたいのは、時代劇に描かれているような「まるで戯画的な権威主義の有様」というものが、自分たちが江戸時代より進んだ社会だとかなり自惚れている現代でも「気づかないうちに頻繁に繰り返されているんじゃないか」というところなわけです。

もちろん、その時代劇ほど露骨でも重症でもないとはいいうるかもしれませんが、僕らは民主制社会を自認していながらも、おかしなことにそれと矛盾するはずの「権威の堂々たるプレゼンス」を漫然と受け入れ、それの帰結ないし症状としての「権威体制に不都合な種類の言論を圧迫するためのキラーフレーズの濫用」ということを立派に実践してしまっているじゃあないか?

タイトルでもすでに告げていることなので、別段、伏線回収っていうわけでもないのですが、要するに「陰謀論などという権威主義の利益のための御用呪文としてのレッテル」の「立派な濫用」という今現在の現実としてのカオスのことを僕は批判したいわけですよ。

その「呪文やら祝詞」さえ唱えれば「議論・反論」を「封殺しえて消滅させてしまえる強力な霊験がある」というような、まるであのイギリスの魔法学校の物語の世界も真っ青というべき「呪文の観念」がいまだいきいきと活躍中なのが、どうやら「現代社会」のようなんですね。

それってのはとても残念な仕上がりの社会なんだと僕には思えてしまいます。

いったいなにが哀しくて「これぞ現代なのだ」と僕らは胸をはって粋がっていられるんでしょうね?

まるでトクヴィル先生があの本で言った通りの「見事な後退ぷっり・堕落っぷり」じゃあないですか?

(※この点について、ユーチューブの「新日本文化チャンネル桜」上の動画「伊藤貫の真剣な雑談」の最新配信回の内容をものすごく参考にさせていただきました。いつも素晴らしい知見の享受に感謝しかありません。まぁ、こんな底辺ブログ上でのメッセージが先生に届くことなんてあるわけないですが、僕が勝手に受け取った先生からの学恩についてお礼を言わざるを得ないと思ったので無駄な空振りにしかならないとは思いつつも書いてしまいました。)

権威によって思考を「漫然とハックされた多数派≒大衆」というものが、かれらが心酔し帰依するところの権威から有難く下賜された「呪文≒陰謀論というお札」を武器にして、本来民主制の命であるべき「自由闊達な議論」というものの「抑圧し息を止めよう」と喜々として活動している。

まさにその「喜々として」ということの具体的な顔面においての表れが「陰謀論がぁ!」という言葉が発せられる際に特有の「嘲りの表情」であると僕は思うわけです。

「天に唾する」とはよくいったものですが。その「嘲り」は民主制の根本を裏切っているという皮肉な事実を、彼ら自身の表層意識はきっと理解しえていないのでしょうね。

もしかしたらその「意地の悪いような嘲りの表情」というのは「自分自身の矛盾を嘲っている」というような意味での無意識における「自供」の現れなんでしょうかね?

だとしたら、それというのはある意味とても「詩的」なことをする人達なのかもしれませんね。

なにしろ彼らのような「権威大好きな冷笑派」が「演技がかった気障(きざ)である」ってことには僕はすごく同意しますけどねww


もしかしたら未来の教科書において今のこの時代は「ある意味最も成功した魔術社会」として褒め称えられてしまっているかもしれませんね。

進歩していると思いあがっているのは自分たちだけだった、というオチがつくような「歴史の視点からみた喜劇」が今まさに繰り広げられている最中なのかもしれない…。

もちろんそんな「でたらめのカオス社会」に物語ではなく生身の人間としてリアルに巻き込まれてしまっている今の時代の僕ら人民にとってみれば、このままいけば「地獄の抑圧」がまっていることはもはや受けあいであって「喜劇などという余裕かましたメタなセリフ」はいっていられないのですけどね… (*_*; 

僕はその地獄へのルートに向かう流れに対して、なんとか抗いたいわけです。

そしていわゆる「反-グローバリズム」という志向を持っている人達は、僕のその心持ちとかなり共通のものを持ってらっしゃる人達だと僕は信じています。

そして、もちろん「反-グローバリズム」という向きの言説こそが「陰謀論」という「呪いの祝詞」によって権威主義者たちから「容赦なく集中攻撃されている標的」に当たっているわけです。

えー、ということでこの記事で言いたいメッセージを言う用意がだいたいととのったようなので、

最期に僕程度の人間が僭越ながら一つアクションプランとしてのメッセージを書かせていただくことにしますね。


『それは陰謀論だぁ!とかいう“呪文ないし祝詞”を喜々として使って恥じないような“魔法社会の住人”に出くわしたなら、その人のことは“時代錯誤の哀れな人”と認識してとりあえず放置して差し上げましょうよ。彼ら新興神学者との茶番に時間と労力を漫然と削がれ続ける余裕はもう僕らには残されていないはずだからね。僕らは僕らで彼らが本当に“議論のリング”に立たされた時に、彼らの妄言を立派にはねつけるくらいの知的な実力を自分のなかに醸成することに専念するべき大事な時間が今のこの時なはずだから…。』

と、いうようなことです。

まぁ、今日のトピックについては、いいたいことはだいたい言えたようなので今回はこの辺で。

では。