「天才を賞賛する風潮」ということにひそむ「毒」について。 | 結局、愚痴のはきだめ

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非公開ブログを目指していたけど…挫折。


いろいろと関連することに考えをめぐらせるにつけ「天才」という概念は極論すれば「ほぼ不要」であるとしか僕には思えなくなってきてしまったんだよね。

(※細かいことをいえば別に「天才」という概念自体はあってよくて、マスコミを中心に社会が「天才」について騒ぎ立てすぎることがよくないというだけのことなんだけど、ここはど頭の文なのであえて分かりやすさを重視して極端な物言いにしてみたという次第です。はい。)

もちろん、現代の「世界の中心原理」であるところの「金めぐり至上主義」の一方的な都合によって「人間がただの客体ないし材料・駒のようにして離合集散させられる」という苦境に僕ら現代人はほぼまるっと浸されてしまっているわけで、

(※学校という人間工場での彫琢に始まり、企業という極端なゲゼルシャフトを経るという現代庶民の人生の典型的道程のことです。)

そういう「狂った社会」における各所での寄せ集め集団における「ギフティッドの迫害のリスク」を考えれば

「金儲け自動機械」という「狂った社会」の脅威からの緊急避難のために「天才」というラベルがこの社会において「認知的なシェルター」として利用されることはとりあえず今は必要なことでもあると思う。

でもそれはあくまで「人間を金儲け自動機械のための融通無碍な歯車としかみない現下の狂った社会」という歪みに対処するための対症療法でしかなくて、とうていそれ自体が自律的に正当性があるものだとは思えない。

また、その点を詳しく区分けすれば「賞賛」と「保護」は分けていいはずのものなわけです。

「賞賛しないと保護できない」としたらそれは政策における思考があまりに「了見が狭い」かなにかの問題であって。

「保護できれば保護でよく、賞賛までセットになる必要はない」と普通にいいえるはずなんですよね。

(※あとでもいいますが、その「了見の狭い思考法」とういのももしかしたらメリトクラシーという病理が遠因としてあるのかもしれません。保護に予算を割く限りはそれなりの「彼は役に立つのです」というエクスキューズが必要でそれが勢い「才能への賞賛」という形になる、みたいな感じでね。)

というのは「ことさらに“天才という輝かしいスポットライト”が社会において便利使いされる」というやりくちの根底にあるのは

すでに各所からその問題性が大いに指摘されているところの「業績主義・能力主義ないしメリトクラシー」という「現代における半透明かつ最凶の差別原理という毒」であるはずなわけだからです。

別に個別の現象として「天才」は存在して良いわけだし、社会主義国のいくつかがやったような「天才を迫害し酷い時には殺す」ということはもちろん絶対に認めらるべきはない。

しかし現に確率的に誕生してくる「天才」という希少な存在を、社会全体がことさら「ほめそや」したりまた「崇敬する」という風潮になるということは、本当はそもそも「必要ない」はずなんだよね。

というか「褒める」という仕草には実は「あいてをその方向にコントロールする」という欲望(下心)が隠されてもいるわけで、

表面のポジティブさからは見過ごしがちだけど、ことさらに何かについて褒めることとてそれは「相手に対するある種の束縛ないし抑圧」でありうるわけですよ。

社会という規模で考えるとそこが分かりづらくなるわけだけど、たとえば「家庭での親による子の教育」という点に思いをいたせば「褒める」ことすら「コントロール」ないし「マニピュレート」のための手段であることは明白なはずです。

もちろん、ホモ・サピエンスの個体はあくまで「生まれついた社会の規範という“共同妄想”をその頭にインストールすること」によってはじめて「その社会の成員としての一個の人間」になるわけなので、

その「最低限のその生まれついた土地における社会性の獲得」という限りでは「コントロール」すらその子の利益のためだと当然に言いうるわけで、その限度の教育(≒刷り込み)においては明らかに「正当性」が認められてしかるべきなわけです。

でも、その限度を優に超えたような、あまりに強引な「教育ママ」とかがきっと子どもの心をひずませるだろうことは僕らにもすぐにイメージができることなわけで、

たとえそれが慎重に「叱る」ということをさけて「褒める」という手段のみで行われたとしても、それはやっぱり度を超えた「よろしくな人間操作」であるはずなんですよね。

僕の見立てにおいては「社会がことさらに天才をほめそやす」ということもそれと同じようなことだと思うわけです。

さっきもいったように「天才は存在していい」わけです。もちろんね。

でも、社会が「天才をガメつく利活用しよう」という下心をもって「ほめそやす」というコントロール手段を行使するのも不潔なことだと思うし、

(※国家社会主義とか国粋主義ならまだしも、リベラルを自称する人がそういうことをしているとしたらそれは矛盾だとしか僕には思えない。)

またそういうある種の「社会からの束縛ないし抑圧」を被った天才はその才能を発揮することで成果をだすなり当然に社会にたいして「不遜な態度を示し見返りを求める」という傾きを持つことになるでしょう。

そういうのがいい結末だとは僕は思えません。

「天才」はもちろんいていいわけだけど、無理に社会が彼らを「利活用」しようと圧をかけるべきではない。

「天才」がもしそのあたえられた天賦の才を使う方向について「自然に心からの喜び」を感じうるのであれば、それを社会が邪魔することなくのびのびとそれをやらせる環境を提供できればそれでいい。

他方で「天才」がもしその天賦の才の発揮について「まったくモチベーションをもっていない」のだとしても、社会がそれについて「とやかくいうべきではない」としか僕には思えない。

結局のところ「天才をことさらほめそやすという社会風潮」で一番かつほぼ唯一なんのリスクもコストもかけずに「莫大な得をかっさらっていってる」のは

「メリトクラシー」というプロパガンダを都合のよい隠れ蓑にして、自前の強欲を爆発させている「強欲金融資本家」などの人達であるだけであるというのが僕の考えなわけです。

(※それが彼らスーパーリッチたちの「全て意図ずくの計画」であったと考える必要はありません。僕らはあまり普段意識しませんが「拒否権」というものはイニシアティブを欠いた一見頼りないもののように見えて実は極めて強力な権力であるわけです。そして彼ら強欲金融資本家は、別に全てをめんみつに計画を立てていなくても、その持前の金権において「その時々において浮かび上がってきた自分たちにとって不都合なものを潰しにかかる≒拒否権の発動」ことはかなり効率的になしうるはずわけです。さらにその力のことを知っている各所の業界のトップ層の人達は彼らスーパーリッチが現に「拒否権発動」へと動く前に彼らに「忖度」して彼らに都合のわることを報道しないという自前のミクロないしメゾの拒否権を行使することが合理的選択にすらなってくるにきまっているわけです。日本のマスメディアがまるで歩調を合わせるかのように「報道しない自由」を「無個性に発揮」してしまっているのは、広い意味ではそういう側面での「スーパーリッチたちへの忖度の帰結」であると思われます。彼らマスメディアの首脳たちとスーパーリッチに直接のつながりがあるかはわかりませんが、いったん中央経済やら国際経済のディープなところに足を踏み込めばどこからともなく「スーパーリッチの存在感」というものは薫ってくるものだと思われます。優秀で目ざといからこそ経営陣にまで成り上がった人間にそういうことが感じ取れないということはまずないでしょう。まぁ、そういうわけで「拒否権」というのは自然界でいうところの「淘汰」みたいなメカニズムであるわけで、自然の調整力がいかに「途方もないものであるか」に思いをいたせば、彼ら強欲金融資本家たちがその金権のものをいわせていきあたりばったりに(アドホックに)不都合なものを潰すということをするだけでも、その力がそれなりに長期にわたって発揮されさえすれば、結果的に彼らスーパーリッチの利得にとって極めて都合のよい社会へと誘導できてしまうことは普通に考えられることだと思われます。自然には意思や意図はないけど「淘汰」という、いきたりばったりながらも「ある種の拒否権のように機能するメカニズム」があるわけであって、この地球の見事で精巧な生態系というものは「淘汰という拒否権っぽいメカニズム」だけによって現出されているはずなんですからね。長期にわたる金権による拒否権の威力たるや、推して知るべし。)

「メリトクラシー」の毒については、僕らはあまりピンとこないわけですが、それと表裏一体である価値観であるはずの「自己責任論」ということを挙げればそのエグさがすぐにでも理解されることだと思います。

彼ら「スーパーリッチ」たちが僕ら庶民を経済的・時間的に支配しつづけるための「思想的な最凶の洗脳道具」にあたるものが「メリトクラシーないし自己責任論」という「プロパガンダ(≒インチキ概念)」であるわけです。

というわけで、僕は「天才をほめそやす社会風潮」の深淵には、いくつかの側面において極めてあくどい「毒」が盛りこまれていると考えます。

まぁさっきもカッコ書き内でいったようにそれはスーパーリッチの計算ずくの「毒」というよりは「自分たちにとって邪魔なものを排除するという長年かつ数多の拒否権の行使という消去法」の結果現出されただけの「たまたまながらも見事な均衡点」というべきものだとは思いますけどね。

(※政治のトピックにおいて、よく国際比較で南米(もしや中米も?)は“カリスマ指導者”を求めがちだということが言われるそうです。そこで、天才≒カリスマとみなすとすると、金融資本の巣窟とはイメージされないはずの南米にその傾向があることをして僕の上記の理屈を眉唾だと受け止める人もあるかもしれません。が、別に僕は「天才やカリスマをほめそやすのが歴史上、金融資本家の専売特許であった」というふうにまで言っているつもりはないんですよね。ただ、そういう、人間の各自の自由に寛容である「人権思想」やらその実現手段としての「民主制」という現代の西側世界の公式的な金科玉条とは全くなじまないはずの「天才・カリスマ礼賛」というのはもはや「時代錯誤の観念」だとしか僕には思えないわけです。そしてその本来時代錯誤で次第に弱くなっていくべき観念をあえて「維持ないし促進させている圧力」というのはスーパーリッチに発しているんじゃないかと僕は勘ぐっているということなわけです。南米の天才・カリスマ礼賛、というものが現にあるとしたら、それは普通に「伝統文化の慣性」という風に捉えればいんじゃないでしょうか。ただし、それは近代民主制という企てとはかなり組み合わせがよくないものだろうとは他人ごとながら思ったりもしますけどね…。)

もちろん、さっきから何度も断っていますけど、「天才自身に罪がある」などといっているわけではありませんからね。

天才は天才でいい。

天才は自由に天賦の才を発揮してもいいし

天賦の才には目もくれず凡才しかない分野に熱中してもいい。


アインシュタイン先生が本当は音楽家になることこそ憧れていたというのはよくきく話ですが、
(※都市伝説だったらすみません。)

別にアインシュタイン先生がかの「奇跡の年」の成果を実現せずに、名もなき音楽家として一生を終えたとしても、それはそれでいいと言い切るべきだと思います。

それにアインシュタイン先生が発見しなくてもきっと誰かは同じような理論をいつかは提唱したことでしょう。

 

(※この発想について僕は「進化は万能である(邦題)」という本で初めて触れました。僕はこの本のその主張にすごく納得させられてしまいました。)

また、さらにいえばアインシュタイン先生は「奇跡の年」を迎えるまで「天才として厚遇されていたわけでもない」といわれていますよね。

特許許可局とかいう感じのところで理論物理学とは違う種類の仕事をしていたらしいです。

となるとむしろアインシュタイン先生の存在は僕の上述の「社会は天才をほめそやすべきではない。ただやりたいことをのびのびさせる環境を提供すればそれでいい」という主張の有力な根拠の一つにもなりえるかもしれませんね。

その時代より今は確実に物質的に豊かな時代になって「直接の生産活動や現業に従事しないで済む人数のキャパシティー」は確実に爆上がりしているはずなので、

 

もし現代にアインシュタイン先生のような天才がいたとしたら、まぁ特許庁とかで審査の仕事をさせるよりはやっぱり「研究職」としてどっかの大学ないし機関に雇用されたほうがいいとは思いますけどね。

(※ややうるさくなるとおもったので、カッコ内に書きますけど、そもそも僕の持論である「ユニバーサルベーシックインカムほぼ万能説」をふまえると、そもそも誰かが「この人は天才だから研究職としてどっかの研究機関で囲おう」とか恣意的に決めていく必要すらなくなるはずなんですよね。ベーシックインカムが実現した社会では「やる気と天才」をともに兼ね備えた人達が、空前絶後の規模で生き生きと躍動する社会になるはずだろうと僕は夢想するわけです。)

とはいえ、ともかくそういうことはあくまで「科学振興政策として粛々と行われる」べきであって、あえてマスメディアとかがさわぎたてて「社会全体で天才をほめそやす」ということをするべきではない。

天才が自分の自由な判断で、その天賦の才を開花させて立派な成果を出した場合は、その人は「ただただ自分のやりたいことを自にやっただけ」なわけですから、

きっと社会に対して「不遜」になる可能性も薄いことでしょう。


経営学と心理学の間の学際的な研究によると、その人がもともと好きでやっていることにたいして「その活動においてこれこれの成果をあげたぶんだけ報酬をお金でお支払いします」とかいうおせっかいな介入をしちゃうと、むしろ「もとからのやる気を減退すらさせる」こともありうるようです。

そういう観点からいっても「天才を社会の利益のために強いてコントロールしようとする」のはやっぱり「下策」な気がしてなりません。

 

それにかわるべき「上策」はさっきからいっているような「ちょうどいい塩梅の放任」だとしか思えない。

また、社会から「褒めの圧力」を受けることでその分野の研究をつづけることになった天才はきっと「その圧力をかけられたことについての見返り」を社会に求めることになりがちなはずです。

それよりは後からふりかえって「ただ好きなことをしただけです」というふうなすがすがしいコメントができるような「自発的な意欲も備わったタイプの天才」が出てくることを社会はのんびりと待ってるほうがましじゃないでしょうかね。

「強いて天才を社会のために活用しようという下心」はきっとなにかしらのしっぺ返しとして社会に帰ってくる可能性が高い。

僕らが「天才をほめそやす社会風潮にのっかる」ことは、つきつめると当の天才も幸福にしない可能性が高いし、総体的にいって社会全体も得しないし、

ただただごく少数の「スーパーリッチ」たちの強欲のためのダシになっているだけ気がしてなりません。

そんなことに僕ら庶民が加担しているとしたら、それって、ものすごくバカバカしくないですか?

というわけでもしこれから「天才をほめそやすような物言い」に出くわしたときはぜひ

その裏には「メリトクラシーないし自己責任論」というほぼスーパーリッチの強欲のためだけに差し込まれた「庶民や社会に対する毒」があるのでは、と勘ぐってもらいたいと僕は思うわけです。

信じるか信じないかはもちろん読んで下さった皆様しだい、なわけですけどね。

おあとがよろしいようで(!?)

ではまた。