小説「ワールズエンドアンドガールフレンド」 -2ページ目

インディゴブルー<4>




 カーテンを少しだけ開けると外は霧雨が降っていた。汚れた心も打たれれば少しずつ洗い流されそうな、そんな優しい霧雨だ。


 なんだか僕は眠たくなってしまってベッドに寝転んだ。白い天井を見つめながら読んでいた本を手放す。時計の針は夜中の0時を回ろうとしていた。

 僕はまたやってくる日曜日にカスミと行く海のことを考えながら寝返りを打った。ベッドカバーのチェックの模様から一本、縦の黄色いラインだけを選んでなぞってみる。僕の手は目の前を通過して、お腹の前あたりでめんどうくさくなったようだった。

 顔を少し上げて部屋の向かい側の壁を見てみる。好きでも何でもないイギリスのバンドのポスターが貼ってある。貼ったのは他でもない僕だ。白い壁が寂しく見えてしまって、音楽雑誌についていたポスターの中でも一番騒々しそうなやつを選んで貼った。

 パンクバンドのボーカルがマイクにかじりついて絶叫していて、顔が見えない後ろの男が身体を捩じらせてギターを掻き鳴らしている。部屋の雰囲気に合っていないことは気づいていたけど、そのアンバランスさが滑稽で、そしてどこか無碍にもできない愛らしさがあった。無論パンクバンドに愛らしさがあるなんて最高の侮辱かもしれないが。

 



 一人の部屋は静かだ。時計の針が申し訳なさげに音を立てる。




 僕が通う大学は学費が高く、在学している生徒の多くがそれなりに恵まれているものの、実家が東京都内にあるのに一人暮らしをしている学生は少なかった。そして僕はその数少ないうちの一人だった。

 「大学生になったら一人暮らしでもしてみたら?」という母の無責任な一言の行き着いた先、僕は風に流されるようにして気がつくと大学一年生の春から一人暮らしを始めていた。父は基本的に母のやることなすことに口を出さない。その時も何も言わなかった。

 一人暮らしをすることが本格的に決まったあくる日の朝に、リビングでコーヒーをすすっていた父の背中なら思い出せる。ただ気の利いた一言くらい何かあるんじゃないかと少し期待した自分も同時に思い出して、今でも面映くなる。

 僕がやることに関してほとんど干渉してこないというのが教育方針なのか、それとも誰からも口を揃えて可愛いと褒められる姉しか文字通り見えていないのか、僕には自分の親の気持を推して量る余裕も好奇心も持ち合わせていなかった。






 最後まできちんと閉まりきっていなかったカーテンの隙間から外の光が入ってくる。防犯のためか、最近アパートの脇の道に新しく街灯がつけられた。夜なのに煌々と眩しい。
 
 駅前の商店街を抜けて脇道に入って、大股でチ・ヨ・コ・レ・イ・トと2、3回歩いたところくらいに僕のアパートは建っている。つまり脇道に入ってすぐ見える建物が僕の住むアパートだ。外壁は薄いグリーンで、外から見る期待を裏切らず内観も綺麗なアパートだ。エントランスの花壇に植えられたつつじの花と、薄いグリーンの外観と、「スピカ×××」というアパートの名前を僕が、というよりはむしろ母が気に入って入居が決まった。





 ベッドの脇に立てかけてあったギターを手にする。僕がこのアパートを気に入っている大きな理由の一つはギターが弾けることだろうか。Dの音を優しく爪弾く。一弦の音がずれていた。二弦の5フレットを押さえて音を確かめる。きっと3弦から上もずれているに違いない。
 
 もちろん音量は抑えているものの、夜遅くに弾いても誰も何も言わないから小声で唄ってみたりもしている。防音に力を入れたアパートなのか、それとも角部屋だからなのか、はたまた僕の声なんか誰の耳にも届かないのかわからないけど、誰も何も言ってこない。でたらめな唄をでたらめなコードを合わせて気分に任せて唄う。

 チューニングを合わせて、全部の弦の音をもう一度6弦から確かめる。Dを弾いてGを弾いて、何かを確かめるようにCを弾いた。

 


 適当なコードに鼻唄を合わせて遊んでいたら電話が鳴った。ギターの心地よい音で満たされていた部屋に電子音が響き渡る。ベッドから立ち上がって受話器を取る。

「もしもし。」

 こんな夜中に電話をしてくるなんてどんなやつかと思ったら、なんてことはない、店長だった。どうせ明日の夕方から入れないかとか、そういった電話だろう。店長だったらこの時間に電話してくるのも頷ける。

「遠藤?俺だけど。明日の夕方入れる?」案の定だった。

 店長はマイペースだ。それは人を苛立たせる理由にもなるが、人に愛される理由にもなっている。きっと地球に隕石が落ちてきて人類が滅亡するニュースがテレビで流れていても、店長だったら自分が作っているパスタを茹で過ぎないようにお湯から上げることを優先するだろう。それからきっとこう言うのだ。「なんかあったか?」
 
 明日の夕方だったら授業で必要だった本を買う予定しかなかったから大丈夫だ。二つ返事で承諾した。店長は「ありがとう恩に着ます。」と一言。きちんと礼を言える大人は素敵だと思う。






 電話を置き、いいかげん眠たくなって掛け布団に潜り込む。なぜか頭の中では子どもの頃に聞いたクラシックの音楽が小さく鳴り始めた。どこか懐かしくなるような旋律だ。どこで聞いたんだろう。小学校だろうか。下校の時に流れていたような気がする。鼻唄で唄って、店長に曲の名前を聞いてみようと考えていたら、静かに眠気が身体を包んでいく感覚を覚えた。