ドレフュス事件 | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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ドレフュス事件は,19世紀末のフランスで起こった,ドレフュス大尉のスパイ容疑をめぐって起こった事件である。


背景



19世紀後半のヨーロッパ諸国では,ナショナリズム(民族主義)が高揚するのとともに,反ユダヤ主義も高まって各国内に居住するユダヤ人への反感や差別が強まっていた。


この頃,フランスにおいてもユダヤ人への反感は存在していたが,1870~1871年の普仏戦争プロイセン・フランス戦争)でアルザス地方がドイツに奪われてその地域に居住していたユダヤ人がフランス内に大量に流入したことにより,ユダヤ人への反感はいっそう強まるようになった。


このようなユダヤ人への差別や偏見が,アルザスのユダヤ系の家庭の出身でフランスの軍人となっていたドレフュスの運命を翻弄することになった。


事件の発生


1894年9月,フランスの陸軍内にドイツへ機密情報を渡しているスパイが存在することが発覚した。そして,捜査の結果,陸軍大尉アルフレッド・ドレフュスがその犯人であるとして逮捕された。


ドレフュスは,アルザス地方のユダヤ系の家庭に生まれたが,一人のフランス人として生まれ育ち,優秀な成績をおさめてフランス陸軍に入隊していた。そのドレフュスが犯人と決めつけられたことには,軍の内部にも蔓延していたユダヤ人への偏見が影響していた。


彼は容疑を否認し,しかも確たる証拠がなかったにもかからわず,軍法会議によって有罪判決が下されて位階剥奪と終身流刑が科され,はるか遠く,フランスが南米に領有する植民地ギアナへと送られた。


位階を剥奪されるドレフュス

<位階を剥奪されるドレフュス>


事件の展開


ドレフュスが有罪となってまもなく,軍の調査の過程で,別の真犯人の存在を示す証拠が発見された。しかし,軍の上層部は威信を守るためにその事実を隠蔽したまま事件の幕引きをはかった。


そうしたなか,1898年1月,作家のエミール・ゾラが「私は弾劾する」と題した記事を新聞紙上で発表してドレフュスが冤罪であることを主張し,ドレフュスを擁護するとともに軍部を激しく批判した。


「私は弾劾する」

<ゾラが公表した「私は弾劾する」の記事>


このゾラの告発はフランス中に強い反響を引き起こし,軍部・教会・ナショナリストなどの右派はドレフュスが有罪であることを主張する一方,共和派・知識人・人権派などの左派はドレフュスが無実であることを説き,国を二分して論争が展開される事態になった。


両派の激しい対立が続くなか,左派からの再審を求める要求が日増しに強まっていく一方,右派によるクーデタ未遂事件や大統領暴行事件が起こるなど,政情は不安定になりフランスの第三共和政は危機的状況に陥った。


事態の収拾


1899年,ようやく軍法会議で再審が行われることになったが,その結果,減刑はされたものの再びドレフュスは有罪とされた。


ここで,政府は,ドレフュス救済のために大統領による特赦というかたちで刑罰を免除して釈放し,これによって事件の収拾をはかった。真実についての判断がはっきりしないままの玉虫色の決着ではあったが,これを機に事態は沈静化していった。


その後,1904年には改めて再審が開始され,そして1906年には有罪判決が破棄されて無罪が確定し,ついにドレフュスの名誉回復がなされる。


ドレフュスは晴れて軍に復帰して少佐へと昇進し,第一次世界大戦にも従軍した後,それを最後に中佐の階級で退役した。こうしてドレフュスは,フランスの軍人として任務を果たし,国に尽くしながら生涯を送った。


その後


ドレフュス事件は,単なる司法上の問題にはとどまらず,政治や民族の問題が強く絡んでおり,そのために以後のフランスの政治やユダヤ人の民族運動にも大きな影響を与えることになった。


フランス政界では,この事件を契機に,軍部・教会・ナショナリストなどの右派の攻撃から共和政を守るという目的のために共和派の結集が起こり,それによって急進社会党が結成された。急進社会党は,共和政の擁護を主な目的として発足した政党で,以後のフランス第三共和政において主要政党として活躍することになった。


また,この事件はユダヤ人の民族運動を刺激することになった。ハンガリー出身のユダヤ系ジャーナリストのヘルツルは,当時パリに滞在中であったが,ドレフュス事件を目の当たりにして反ユダヤ主義の根強さに衝撃を受けたことから,ユダヤ人の独自の国家の建設を目指すシオニズム運動を唱えるようになった。このシオニズム運動は,ユダヤ人のパレスティナへの入植を促し,そして後のイスラエルの建国へとつながることになった。