東京大学2018年第2問(3)(b)の過去問題と,東大世界史講師(管理人)が作成した解答・解説です。
- 解く際の注意 -
問題を解く前に解答が目に入るのを防ぐために,問題と解答の間に空白を大きくとってあります。解き終わったら,下へスクロールして解答を見て答え合わせを行い,また解説を読んで知識を確認してください。
問題の全文を掲載することは避けて,解答するのに直接的に必要な範囲でのみ問題文を引用するか,または趣旨を損なわないかたちで文章の変更や単純化をしています。実際の問題文は,新聞社によってWEB上に公開されている入試問題データや市販の過去問題集などで確認してください。
問題
イギリス国教会の成立の経緯と,成立した国教会に対するピューリタンの批判点とを,4行(120字)以内で記しなさい。
解答
解答例
解答例①(「成立の経緯」を広くとらえた場合)
「ヘンリ8世が首長法で国教会を創立し,エドワード6世の時代に新教的な改革が進み,メアリ1世は旧教の復活を試みたが,エリザベス1世が統一法で国教会を確立した。主教制のように制度・儀礼の面で旧教的な性格を残したことはピューリタンから批判された。」
解答例②(「成立の経緯」を狭くとらえた場合)
「離婚問題を契機として教皇と対立したヘンリ8世が首長法を制定してカトリック教会から独立し,国王を首長とするイギリス国教会が成立した。イギリス国教会が主教制のように制度や儀礼の面でカトリック的性格を残していたことはピューリタンから批判された。」
解答のポイント
「イギリス国教会の成立の経緯」と「国教会に対するピューリタンの批判点」の二つの点がきかれている。
前半のイギリス国教会の成立の経緯については,「成立の経緯」がどこまでを指すのかについて解釈の余地がありそうで,これを広くとらえるか狭くとらえるかによって,解答において記述すべき範囲が変わってくる。
国教会がいちおう確立されたときまでと広くとらえる場合,ヘンリ8世による国教会の創始,エドワード6世の時代のプロテスタント的改革,メアリ1世によるカトリック復帰,エリザベス1世による国教会の確立までの一連の展開を述べることになる。「成立の経緯」という言葉からするとやや広すぎるようにも思えるが,エリザベス時代までを書くことで国教会の折衷的な性格の成り立ちがわかり,後半のピューリタンの批判点へとスムーズにつながる。
国教会が創始された時点までと狭くとらえる場合,記述するのはヘンリ8世による首長法の制定までとなり,ヘンリ8世の離婚問題,教皇との対立,首長法による国教会の創立などを厚く書くことになる。こちらの方が「成立の経緯」という言葉には忠実に思われるのだが,問題の前半部と後半部のつながりがややわかりにくくなり,また字数がかなり余るためそれほど重要でない語句まで使って解答を埋めるかたちになってしまう。
以上の二つの解釈のうち,どちらが正しいのかは悩ましく,判断しきれない。個人的には前者の広くとらえる解釈の方が知識面でも論理面でも問題として高度できれいなものになるので支持したいのだが,問題文の「成立」の言葉にあくまでこだわって後者の狭くとらえる解釈の方をとるのが正しいのかもしれない。
後半部のピューリタンの批判点については,まず前提として,国教会がプロテスタントとカトリックの折衷的・妥協的な性格をもち,特に制度や儀礼の面で旧教的性格が強く残っていることを把握しておく。
そして,そのように国教会が旧教的な性格を残していることが,徹底的な宗教改革を求めるピューリタンから批判された,ということを指摘すればよい。
解説
イギリスの国教会と宗教改革
イギリス王ヘンリ8世は,離婚問題を契機に教皇と対立すると,1534年に首長法(国王至上法)を制定してカトリック教会から独立し,国王を首長とするイギリス国教会を創立した。
次のエドワード6世の時代には,プロテスタントの主導で国教会の改革が進み,一般祈禱書が制定されるなど新教的な教義や制度が整備された。
しかし,つづくメアリ1世はカトリックの復活をはかり,プロテスタントを弾圧し,またこれまでの新教的な改革を否定した。
このような混乱を経て,エリザベス1世は妥協と統合をはかりつつ1559年に統一法を制定し,これによってイギリス国教会はいちおう確立されることになった。
国教会の性格とピューリタンによる批判
このようにして確立されたイギリス国教会は,その経緯も背景として,プロテスタントとカトリックの両派の折衷的・妥協的な性格をもち,教義面ではプロテスタント的であるが,制度や儀礼などの面では主教制などに見られるようにカトリック的な性格が強く残っていた。
このため,主にカルヴァン派からなるピューリタンたちは,国教会に残された旧教的な性格を批判し,それらを除去し新教的改革を徹底することを求めた。