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フリードリヒ2世(大王)

<フリードリヒ2世(大王)>


フリードリヒ2世大王)(1712~1786年)は,18世紀のプロイセン王国の国王である。


フリードリヒ2世は,1712年,プロイセン王国の首都ベルリンで,まもなくプロイセン王となるフリードリヒ・ヴィルヘルム1世軍人王)の子として生まれ,父の即位により皇太子となった。幼少期には,母や養育官の影響で文学と音楽などの芸術やフランスの思想にあこがれを抱くが,厳格な父からは過酷ともいえる厳しい教育を施されて実用的な学問を教え込まれた。

青年期には,父への反発から外国への逃亡をはかって処罰されるなどの事件もあったが,その後は後継ぎとしての自覚を深め,国政を学び実務に通じるようになる。そのかたわらで,多くの書物を読むとともに文人たちと交流し,当時フランスを中心に流行していた啓蒙思想に触れてその影響を大いに受けた。そして,1740年,父の死を受けて,28歳でプロイセン王に即位した。


フリードリヒは,その「君主は国家第一の下僕」という言葉にも示されるように,啓蒙専制君主の代表として知られる。彼は,国家と人民にとっての利益を実現することが君主の義務であると信じ,強烈な意志と果敢な行動力によってそれを追求した。

内政においては,プロイセンの強国化をはかり,官僚制度の整備,産業の育成,司法制度の改革などを実施した。また,国家の発展のために宗教的寛容を重んじ,異なる宗派の人々を積極的に受け入れた。

対外的には,国家の利益のためであれば躊躇せずに対外進出や戦争を展開した。オーストリアでマリア・テレジアがハプスブルク家を継承すると,シュレジエンに侵攻してオーストリア継承戦争を引き起こし,戦いを優位に進めて有利な講和を勝ち取った。その後,オーストリア・フランス・ロシアによる包囲網が形成されると,先制攻撃によって七年戦争を開始し,これらの大国を敵に回しながらも天才的な戦略と不屈の精神により乗り切ってシュレジエン確保に成功した。

このように政務にいそしむ一方で,フリードリヒは芸術や思想を深く愛好した。彼はベルリン郊外のポツダムにロココ式サンスーシ宮殿を建設し,ここで余暇に読書や著述にふけり,またヴォルテールら文人との交流を楽しんだ。

七年戦争において軍を指揮するフリードリヒ2世

<七年戦争で軍を指揮するフリードリヒ2世>


サンスーシ宮殿でフルートを披露するフリードリヒ2世

<サンスーシ宮殿でフルートを披露するフリードリヒ2世>


晩年のフリードリヒは孤独な性格を強めて人を避けがちになったが,それでも引き続き激務をこなし,国際的にも大きな影響力を発揮し続けた。そして,1786年,サンスーシ宮殿で死去した。

フリードリヒは開明的な精神によって進歩的な改革を実現し,また抜群の軍事的才能によって大国と互角以上に渡り合った。その独善的な手法は多くの敵や批判者もつくったが,それでも疑いなく彼によってプロイセンはヨーロッパの一大強国へと発展した。こうして18世紀ヨーロッパの国際政治で中心的な役割を担い,またドイツ史に残る華々しい活躍を見せたフリードリヒ2世は,畏敬の念を込めて「大王」と呼ばれるようになった。