<「血の一週間」の終盤に行われたペール・ラシェーズ墓地における戦闘>
「血の一週間」(「血の週間」)は,1871年5月,フランスのパリで,フランス政府軍とパリ・コミューンとの間で壮絶な戦闘が行われた一週間を指す言葉である。
普仏戦争と第二帝政の崩壊
1870年7月,第二帝政下のフランスは,プロイセンを中心とするドイツとの間で普仏戦争を開始した。しかし,フランスは当初から劣勢が続き,同年9月には皇帝ナポレオン3世自身がセダンの戦いで降伏して捕虜となり,第二帝政が崩壊した。
第二帝政の崩壊を受けて,フランスでは共和派を中心に国民防衛政府という名称の政府が樹立され,徹底抗戦を叫ぶ国民の声にも押されてドイツとの戦争を継続したが,あえなく惨敗して休戦条約を結ぶことになった。そして,改めて議会および政府が保守派を中心につくられ,1871年2月,この新政府がドイツと仮講和条約を締結した。
パリ・コミューンと「血の一週間」
このようにフランスの政府はプロイセンに屈服したが,パリでは武装した民衆たちがプロイセンとの講和や新政府の方針に反発して,戦闘継続を訴えた。そして,1871年3月,彼らはパリ・コミューンと呼ばれる独自の政権を樹立するにいたった。
このパリ・コミューンに対し,政府側は1871年5月21日から市内に突入して鎮圧行動を開始する。以後,一週間にわたって,パリ市内において熾烈な戦闘が展開され,そのなかで3万人もの市民が殺害された。この凄惨な戦いが繰り広げられた一週間は,「血の一週間」と呼ばれている。
こうして,「血の一週間」という悲劇的な過程を経て,民衆によって樹立された自治的政府パリ・コミューンは,その短い命を終えることになった。