<ピータールーの虐殺>
「ピータールーの虐殺」(「ピータールー事件」)は,1819年8月16日,イギリス・マンチェスターのセントピーター広場で,議会改革を求める集会を行っていた人々と警官隊が衝突し,市民に多数の死傷者が出た事件である。
背景
1810年代,ナポレオン戦争の末期からその後にかけてのイギリスでは,産業革命にともなう社会の急速な変化や戦争による増税や不況のために社会不安が著しく高まり,労働運動や議会改革運動などの民衆運動が激しくなった。
しかし,イギリス政府はこのような民衆の運動に対しては厳しい姿勢をとり,彼らの要求を受け入れることなく抑圧を行った。
「ピータールーの虐殺」
1819年8月16日,マンチェスターのセントピーター広場では,議会改革運動を求める集会が開催されて,約6万人もの人々が集まった。
このとき,地方当局は,改革運動の指導者であったヘンリ―・ハントを逮捕するために警官隊を出動させたが,この警官隊と市民との間で衝突が発生し,死者11人を含む多くの死傷者を出すという事態になった。この事件は,1815年にナポレオンが戦争における最後の決戦となったワーテルローの戦いの「ワーテルロー」(英語読みでは「ウォータールー」)と,セントピーター広場の「ピーター」を組み合わせて,「ピータールーの虐殺」(「ピータールー事件」)と呼ばれる。
この「ピータールーの虐殺」に見られるように,イギリス政府は民衆の運動に対しては妥協することなく弾圧し,改革はあくまで議会の主導によって行われていくことになった。