「有益なる怠慢」("salutary neglect") | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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有益なる怠慢

<「有益なる怠慢」政策の転換への反発から起こったボストン茶会事件>

有益なる怠慢」("salutary neglect") は,17世紀から18世紀半ばのイギリスが北米植民地に対してとっていた姿勢を示した言葉である。

北米植民地の成立と本国の重商主義政策

17世紀初めからイギリスは北米大陸への植民活動を展開し,18世紀前半までには現在のアメリカ合衆国の東岸にあたる地に13植民地が形成された。

こうして成立した北米植民地は,イギリス本国の政治的・経済的な管理下に置かれることになっていた。イギリス政府は,植民地の行政や立法を監督するとともに,重商主義政策のもとで植民地の産業や貿易についての統制を行った。

「有益なる怠慢」

ただし,このような建前にもかかわらず,イギリスは,北米植民地の離反を避けるためもあって,厳格には統制を実施しなかった。イギリス政府は北米植民地に対し,比較的広い範囲の自治を認め,また貿易や産業についても厳しい取り締まりは行わなかった。このようなイギリスの北米植民地に対する政策は,「有益なる怠慢」と呼ばれる。

このようなイギリスの姿勢は18世紀半ばまで継続され,その間に,北米植民地では植民地議会などによる自治的な体制が発達し,また南部における農業や北部における商工業などの産業や貿易も成長していった。

本国の政策の転換

ところが,18世紀後半に入ると,イギリスの「有益なる怠慢」政策は転換されることになった。

イギリスは,フランスとの間で植民地抗争を繰り返した末に,18世紀半ばに七年戦争および並行して行われたフレンチ・インディアン戦争によって最終的な勝利をおさめたが,この結果,戦費のために巨額の負債を抱えることになったのとともに,拡大した北米の領土を防衛していくための費用も必要になった。

そこで,イギリスは植民地に費用の一部を負担させることをはかり,これまでの北米植民地への姿勢を改めて統制を強化するようになった。七年戦争の直後から,イギリス議会によって砂糖法印紙法タウンゼント諸法などの一連の課税のための立法が行われ,そして1773年には茶法が制定された。

しかし,このようなイギリスの統制の強化は,自由を重んじ,自由のなかで力を育んできた北米植民地の人々の反発を呼び,ひいてはアメリカ独立戦争を引き起こすことになった。