ドイツの歴史 | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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ドイツ 地図

ドイツは,ヨーロッパの中央部に存在する共和国である。

中世

ドイツの成立

ドイツの国家としての歴史は,9世紀にフランク王国が分裂してできた東フランク王国に始まる。

フランク王国では,カール大帝の死後しばらくして相続をめぐって王家の争いが起こり,843年のヴェルダン条約・870年のメルセン条約によって東フランク・西フランク・イタリアの3王国に分裂することになった。

このフランク王国の分裂によって生まれた東フランク王国は,しだいにフランク王国の伝統から離れて,「ドイツ」の名称で呼ばれるようになっていった。

神聖ローマ帝国の起源

こうして成立した中世ドイツ王国では,10世紀,ザクセン朝の国王オットー1世がマジャール人を撃退し,帝国教会政策を実施するなど,王権の強化に成功した。また,962年にはローマ教皇からローマ皇帝冠を授与されたが,これを起源として,ドイツだけでなくイタリアなども包摂する「神聖ローマ帝国」という国家の概念が生まれ,ドイツ国王は神聖ローマ帝国皇帝の地位を兼ねることになった。

衝突と分権化

しかし,神聖ローマ皇帝として,ヨーロッパ世界・キリスト教世界の覇権を追い求めることは,さまざまな勢力との衝突を招くことになった。

11世紀には,教会改革運動を進める教皇との間に叙任権闘争が起こり,1077年には皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に屈服する「カノッサの屈辱」事件が起こり,1122年にはハインリヒ5世ヴォルムス協約によって宗教的な権限を教皇が持つことを認めた。

また,イタリア政策についても,シュタウフェン朝のフリードリヒ1世ロンバルディア同盟に敗れるなど,都市などの現地の勢力と衝突し,実質的な支配権は確立できなかった。しかも,対外遠征のためにドイツ国内での集権化は進まず,諸侯の自立化が進行した。

このような問題から皇帝権の弱体化が進み,1256年から1273年には,皇帝が実質的に不在の大空位時代となった。その後,ルクセンブルク朝の皇帝カール4世が1356年に金印勅書を発布して皇帝選出の安定化をはかったが,これも諸侯の権限を強化する効果をもたらした。

こうして,中世の終わりには,神聖ローマ帝国は,領域はドイツのみに限定され,その領域内でも諸侯が自立して領邦が分立する状態になった。

近世

帝国の分裂

近世には,宗教改革とも絡んで,さらに帝国の分裂が決定的になっていく。

16世紀,マルティン・ルターによって宗教改革が開始された後,神聖ローマ帝国では皇帝を中心とするカトリック派とプロテスタント派との間で抗争が繰り広げられ,結局,1555年のアウクスブルクの宗教和議領邦教会制が確立されたことで領邦の自立性は一段と高まった。

さらに,1618年から三十年戦争が行われ,この結果結ばれたウェストファリア条約では領邦にほぼ完全な主権が認められた。こうして,神聖ローマ帝国としての国家統一の可能性は完全に絶たれ,帝国は領邦をゆるやかにまとめ調整するだけの存在となった。

かわって,有力な領邦であるオーストリアやプロイセンが一つの国家として集権化と近代化を進めて成長し,両国はオーストリア継承戦争七年戦争などの抗争を繰り広げながらドイツの主導権を争うようになっていく。

近代

フランス革命とナポレオンの衝撃

近代に入り,18世紀末にフランス革命が起こると,オーストリアとプロイセンはフランスとの間でフランス革命戦争およびナポレオン戦争を行うことになった。

オーストリア・プロイセンはこの戦争においてナポレオン軍に敗れ,19世紀初めには両国を含めてドイツ全体がフランスの支配下に置かれることになった。1806年にはナポレオンの指導により西南部の領邦がライン同盟を結成して神聖ローマ帝国からの離脱を宣言し,ここにいたって,ついに神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。

しかし,フランスの支配下に置かれるなかでドイツの国民意識は高まりを見せ,1813年からは解放戦争を開始し,ライプツィヒの戦いに勝利してナポレオンを破った。

ウィーン体制

ナポレオン戦争後のウィーン会議の結果,ドイツの統一は認められず,領邦と自由都市がゆるやかに連合するドイツ連邦として組織された。

ウィーン体制下において,オーストリアとプロイセンはドイツ連邦の中心として保守的な姿勢で共同歩調をとっていた。

ドイツ帝国の成立

19世紀後半に入るとオーストリアとプロイセンは,ドイツにおける主導権をめぐって対立を深めるようになった。

首相ビスマルクの指導するプロイセンは,1866年に北ドイツの諸邦とともに普墺戦争で勝利して北ドイツ連邦を成立させると,さらに1870年には普仏戦争で南ドイツの諸邦とも連帯して戦って勝利し,南北のドイツ諸邦を統合してドイツ帝国を樹立した。

ビスマルクの外交とヴィルヘルム2世の世界政策

こうしてドイツ帝国が成立した後,宰相となったビスマルクは,ドイツの国民国家としての統合を強化しつつ,外交面ではフランスを孤立させながら周囲の国と同盟網を形成することで安全保障体制を構築した。

しかし,1890年に新皇帝ヴィルヘルム2世が親政を開始すると「世界政策」と呼ばれる対外政策を展開した。このような積極的政策は,ロシアやイギリスとの関係悪化を招くことになった。

世界大戦

サライェヴォ事件を契機として第一次世界大戦が勃発すると,ドイツはオーストリアとの同盟に従って参戦し,連合国と激突することになった。

激戦の末に敗戦が決定的になると,ドイツ革命が起こって帝国は崩壊し,1919年にヴァイマル憲法が制定されてドイツは共和国となった。

このように危機のなかで成立したヴァイマル共和国の政治は出発当初から安定しなかったが,世界恐慌を機に動揺はいっそう激しくなり,1933年にはアドルフ・ヒトラーの率いるナチス政権が成立する。そして,ナチス政権はヴェルサイユ体制の打破を唱えて積極的な対外進出を進め,これは第二次世界大戦を引き起こすことになった。

現代

分断と統一

第二次世界大戦の敗戦後,ドイツは米・英・仏・ソの4国の分割占領を経て,1949年に西のドイツ連邦共和国と東のドイツ民主共和国に分かれて独立した。

両国は東西冷戦における大きな焦点となり,1961年にはベルリンの壁が建設されるなど緊張状態が続いたが,1990年に西ドイツが東ドイツを吸収するかたちで統一が実現し,これによって現在のドイツ連邦共和国が成立した。

現在

統一後のドイツは,ヨーロッパ最大級の人口と経済規模をもつ国となり,EUの中心的存在となるなど,ヨーロッパおよび世界の政治・経済・文化において(そしてサッカーにおいても),重要な役割を果たしている。