こうして、主の契約の箱はダビデの町にはいった。
サウルの娘ミカルは、窓から見おろし、
ダビデ王がとびはねて喜び踊っているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。
第一歴代誌1529
主の契約の箱がエルサレムに戻ってきた時、町中はどんちゃん騒ぎでした。
王様であったダビデなんかは喜びのあまり、裸になって踊っていました
(第二サムエル記620節)。


私も神様がスゴイことを成し遂げてくださった時、すべての計画がうまくいった時、

神様が近くにいると感じる時、自然に賛美ができ、ダビデのようにジャンプして喜び、「神様をただ踊りたたえたい。とこしえまで歌いたい。声かれるまで、汗出るまで。

永遠に神様を愛したい!」と思います。


逆に、ミカルのように、神様の前で喜び踊っている兄弟姉妹達を心の中で見下したり、
批難したりする人もいます。
神様は心を見られる方です。
 
人の目を気にせず、ただ純粋に神様に感謝を捧げたいと思って
裸になり喜び踊ったダビデの心と、
周りの人を気にしてダビデを見下していたミカルの心を神様は見ていました。
そして、神様は御自分に対して純粋な心を持っていたダビデを大いに祝福し、
神様より人に目を向けてしまったミカルには子供を死ぬまで与えませんでした。
私たちはミサ中に神様に賛美も感謝も捧げられないと感じる時があるかもしれません。
けど、その時に周りの人を眺めて色々考えたり、心の中で裁いたりするのではなく、
神様に目を向け、感謝や賛美ができなくても、自分の思いを神様に言ったり、
明け渡したりしてみてください。
その思いは苦しみや怒りや憎しみかもしれません。
 
それは決して聖い心ではなく、汚い黒い心かもしれません。
しかし、神様は人ではなく神様ご自身に向いたその心を喜び、
また砕かれたその心を愛してくださると信じています。
 
私たちに勇気と力を与えてくださるみことばに感謝。主の平和、アーメン。

★101314  サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。・119節 ダビデはますます大いなる者となり、万軍の主が彼とともにおられた。第一歴代誌1011

ここには対照的な2人の王が登場します。

一人はサウル王です。彼はイスラエル初代の王として本当に素晴らしいスタートをきりました。

彼は背が高く、ハンサムで初期においては隣国の敵から悩まされていたイスラエルに大きな勝利をもたらしました。

しかし、彼の王位は栄えていくどころか、どんどん縮小して行き、ついに彼は命を奪われ、その王位は絶たれる事となりました。

その最も大きな原因は、サウルが主を愛さず、主に従わなかった事にありました。
 
このサウルとは対象的に、ダビデは、ますます大いなる者となった。という事が聖書に記されています。

その秘訣は本当にシンプルな事、ダビデは主を愛し、万軍の主が彼と共におられた為でした。
 
私達の生活の中で、現在縮小して行っている事はあるでしょうか?

それとも、栄えて広がって行っている事はあるでしょうか?

私達の信仰生活を吟味して、その真ん中にイエス様がおられるか?

それとも主を無視して事を行っているか?

主を愛するという事は、私達の人生の中で最も重要な事です。  

この第一の事を、私達の生活の中で第一とする事が出来ますように。

私たちに勇気と力を与えてくださるみことばに感謝。主の平和、アーメン。
あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり。」と同時に「否。」であるような方ではありません。この方には「しかり。」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。第ニコリント人への手紙1章:1920

「しかり」という言葉はどういう意味でしょうか?

「はい」という意味でした。

つまり今日の御言葉の中で言われている事は、イエス様は約束を必ず実現されるという事です。

そして、この箇所の中に重要な事が記されています。それは、神様の約束はことごとく、イエス様において「しかり」となった(実現した)という事です。

私達は、御言葉を通して、多くの励まし、知恵、慰め、力、戒め、喜び、導きや約束などを受ける事が出来ます。

しかし、御言葉の究極的な目的は、イエス様ご自身を求める事へと私達を導く事です。

イエス様は道であり真理であり命であるお方、この方の元に知恵と知識の宝が全て隠されており、またイエス様の別名は「神の言葉」と呼ばれています

聖書の中心、福音の中心はイエス様ご自身です。


 詩篇1篇にも書かれていますが、御言葉を通して私達は豊かな実を結ぶ者となる事が出来ます。

私達がへりくだり、絶えずイエス様に栄光を帰す生き方をするなら、必ず主は私達の人生の日の限り、ますます豊かな実を結ぶ者として下さいます。

私たちに勇気と力を与えてくださるみことばに感謝。主の平和、アーメン。
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。使徒の働き224

この箇所に出てくる「この方」=「イェス様」です。
 
そして、書いてある通り、イェス様が死につながれていることなど、ありえないのです。
 
十字架でしなれましたけど、3日目に力強くよみがえられたからです。

 ペンテコステの日、一つ所に集まっていた神の家族は聖霊を受けました。
 
この聖霊とは神様の霊、イェス様の霊であります。

イェス様の霊が兄弟姉妹たちのうちに注がれました。
ということは、イェスの霊が持っている力が一人ひとりのうちに宿っていることになります。

私たちも同様にイェス様を信じ受け入れたとき、聖霊が私たちのうちに住まわれます。私たちは神の神殿となり、神の御霊が私たちのうちに宿ります(第一コリント3:16)。
 私たちの人生には様々な問題が立ちはだかってきます。
 
病、人間関係、経済など様々な問題が私たちを縛り、時には死に追い込んでいるのではないかと思います。
けれど、絶対に死につながれていないのです。

すぐに復活はできませんが、三日後…数日目によみがえります。
なぜなら、私たちのうちには死に打ち勝った聖霊様が住んでいるからです。

聖霊様は私たちのうちに生きておられ、必ずその復活の力、そのイェス様の力を発揮する日がきます。
私たちに勇気と力を与えてくださるみことばに感謝。主の平和、アーメン。
さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。  第一コリント人への手紙31

私たちは聖霊様に満たされて歩んでいるのでしょうか?

それとも肉に属しているのでしょうか?
  

この箇所でパウロはコリントの兄弟たちに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないと手紙を書きました。

私たちがイエス・キリストを信じて救われたとしても、私たちの内に住まわれる聖霊様との関係が密になっていなければ、みことばや神様からのしるしをキャッチすることができません。

誰かから噛み砕いたものをいただかなければ、霊の栄養を受け取ることができないのです。

私たちは、大人のクリスチャンにならなければいけません。
  

その意味は、自分が立派になっていくということではなく、ますますへりくだって神様を求めるものにならなければいけないということです。

聖霊様にますますゆだねていくことが必要です。
  

私たちに勇気と力を与えてくださるみことばに感謝。主の平和、アーメン。