見逃した人へ 桜井マッハ速人VS郷野
見る人が見れば分かる凄い試合
桜井マッハ速人VS郷野
桜井"マッハ"速人(さくらい"マッハ"はやと、男性、1975年8月24日 - )は、日本の総合格闘家。茨城県龍ケ崎市出身。マッハ道場主宰。修斗四天王の一人。
PRIDE武士道では「野生のカリスマ」というキャッチフレーズで呼ばれていた。通常体重は92~93kg。
中学・高校を通じて柔道を学び、土浦日大高校柔道部を引退後、空手を学び始める。高校時代は小見川道大、宮田和幸と同級生であった。
高校卒業後はアルバイトをしながら空手の修行をしていたが修斗に興味を覚え、修斗を学ぶために上京した。しかし間違ってシュートボクシングの道場であるシーザージムに入門。緒形健一、土井広之、村浜武洋らと練習を行い、アマチュアのシュートボクシングの選手として活躍。1995年6月に第11回アマチュアシュートボクシング選手権関東大会で優勝、同年12月に第6回全日本アマチュアシュートボクシング選手権全国大会で優勝を果たした。プロ昇格の権利を得るがプロにはならず、その後修斗に転向、木口レスリング道場に入門する。
修斗時代 [編集]
1996年10月4日、修斗プロデビュー(ウェルター級)で宇野薫に一本勝ち。
1997年、ミドル級(-76kg)に階級を上げ、その翌年第4代修斗世界ミドル級王座を獲得した。
1999年、UAEで開催されたアブダビコンバットに出場。-77kg級では3位入賞を果たし、無差別級準決勝では自身より40kgも重いリコ・ロドリゲスと対戦し苦戦を強いられるが、最後はヒールホールドで一本勝ち。決勝でホベルト・トラヴェンに敗れたが、軽量級でありながら無差別級での準優勝を果たした。
2001年8月26日、アンデウソン・シウバに判定負け。修斗世界ミドル級王座から陥落した。
2001年10月、地元・茨城県龍ケ崎市に「マッハ道場」(現・マッハ道場 茨城)を設立[1]。
2002年1月12日の修斗大会において、UFCに参戦しウェルター級王者マット・ヒューズにタイトルマッチで挑戦することが発表される。3月22日のUFC 36でのヒューズとの対戦は、テイクダウンを繰り返されトップポジションを取ることができない展開が続き、最後はパウンド連打でTKO負け。タイトル奪取は叶わなかった。
PRIDE武士道時代 [編集]
2003年12月31日、PRIDE初参戦となるPRIDE 男祭り 2003で高瀬大樹に判定勝ち。
2004年2月15日、「PRIDE 武士道 -其の弐-」でホドリゴ・グレイシーに判定負け。
参戦した当初はリミット83kgのウェルター級を主戦場にしていた。体重増加と対戦相手の体重に対応できなかったためか、当初は勝利から遠ざかっていた。
2005年5月22日、PRIDE 武士道 -其の七-でミルトン・ヴィエイラと対戦し、判定勝ち。
2005年8月20日には3年振りに修斗に復帰し青木真也と対戦、判定勝ち。
青木との試合後、アメリカのAMCパンクレイション(マット・ヒュームのジム)にて2週間のトレーニングを行い[2]、80kg台からライト級リミットである73kg近くまで大幅に減量した。
2005年9月25日、「PRIDE 武士道 -其の九-」で行われたライト級GPに参戦。1回戦ではジェンス・パルヴァーにKO勝ち。準決勝ではヨアキム・ハンセンに判定勝ちし、決勝進出を決めた。
2005年12月31日、PRIDE 男祭り 2005で行われたライト級GP決勝で五味隆典にKO負け。準優勝となった。
2007年2月25日、PRIDE.33でマック・ダンジグにKO勝ち。
2007年9月30日、東京都豊島区巣鴨に「マッハ道場 巣鴨支部」をオープンさせた[1]。
2007年10月28日、SHOOT BOXING BATTLE SUMMIT GROUND ZERO TOKYO 2007でヤニ・ラックスと対戦。2Rにはダウンを奪ったものの決定的なダメージを与えることができず、判定での勝ちとなった。当初はアリ・イブラヒムと対戦予定であったが、ビザのトラブルで対戦相手が変更となった[3]。
2007年12月31日、『やれんのか! 大晦日! 2007』で長谷川秀彦と対戦し、3-0の判定勝ち。
DREAM設立後 [編集]
2008年3月15日、DREAM.1で門馬秀貴と対戦し、パウンドによりTKO勝ち。
2008年4月6日、地元茨城の牛久運動公園体育館メインアリーナでアマチュア大会「WORLD&WILD-1 第1回チャリティー マッハ祭り」を開催。階級別トーナメント(総合格闘技ルール)やグローブ空手のワンマッチなど全26試合が行われた。マッハ自身も佐藤ルミナと3分間のエキシビションマッチを行った[4]。
2008年5月3日、3年振りに修斗に復帰するも、デビッド・バロンに一本負けを喫した。
2008年9月23日、DREAM.6にて弘中邦佳に判定勝ち。
2009年4月5日、DREAM.8のウェルター級グランプリ1回戦で青木真也と対戦し、開始27秒パウンドでKO勝ちを収めた。
2009年7月20日、DREAM.10のウェルター級グランプリ準決勝でマリウス・ザロムスキーと対戦し、左ハイキックでダウンしたところにパウンドで追撃されTKO負け。
2009年11月28日、柔術デビューとなった日本ブラジリアン柔術連盟「東京国際オープントーナメント2009」アダルト黒帯メイオペサード級に出場。1回戦で上村彰と対戦し、外掛けの足関節技を仕掛けてしまい反則負けとなった
郷野 聡寛(ごうの あきひろ、男性、1974年10月7日 - )は、日本の総合格闘家。東京都東久留米市出身。GRABAKA所属。東京都立小平高等学校卒業。ニックネームは難攻不落のビッグマウス。
1993年にスポーツ会館のコマンドサンボに入門。トーナメント・オブ・Jや真武館などのアマチュア大会で活躍。
1995年10月13日、トーナメント・オブ・J '95のトーナメントに出場し、1回戦で当時和術慧舟會所属の村上一成(現・村上和成)に右ハイキックでKO勝ち。準決勝ではイーゲン井上に腕ひしぎ十字固めで一本負け。
1996年3月30日、トーナメント・オブ・J '96で村上一成と再戦し、判定負け。
1996年5月7日、修斗でプロデビューを果たした。修斗時代には類稀なるセンスが光り、「総合格闘技の申し子」と称された。
1998年11月27日、修斗後楽園ホールで伝説の野次「俺だけの郷野!」が発生[要出典]。
1999年5月29日、修斗でマット・ヒューズと対戦し、判定負け。
2001年5月、菊田早苗率いる「GRABAKA」に移籍し、パンクラスを主戦場にする。
2002年12月21日、パンクラスでKEI山宮にKO勝ちを収めた後のマイクアピールで同年11月30日に獣神サンダー・ライガー対鈴木みのるがメインイベントとして組まれたことに対し、「今のパンクラスは馬鹿ばっかりだ!」と発言して物議を醸した。
2004年2月15日、PRIDE武士道に初参戦。『PRIDE 武士道 -其の弐-』でマウリシオ・ショーグンと対戦し、KO負け。
2005年1月4日、全日本キックボクシング連盟 『SURVIVOR』でキックボクシングルールに初挑戦。全日本ヘビー級王座挑戦者決定戦をコンボイ山下と対戦。1Rには左ハイキック、3Rには左フックでダウンを奪い、大差の判定勝ち。
2005年2月6日、全日本キックボクシング連盟『MOVING』で王者西田和嗣と全日本ヘビー級タイトルマッチで対戦。4Rに右ストレートでKO勝ち。全日本キックボクシングヘビー級王座に輝いた(その後、2007年4月1日付けで返上)。
2005年3月6日、パンクラスで行われた全日本キックボクシング連盟公式試合で桜木裕司と対戦。2Rにカウンターの右ストレートでKO負け。
2005年5月2日、所属するGRABAKAがパンクラスから独立。
2005年5月22日、『PRIDE 武士道 -其の七-』でクラウスレイ・グレイシーと対戦し、判定勝ち。
2005年9月25日、『PRIDE 武士道 -其の九- ウェルター級グランプリ』では、1回戦でダニエル・アカーシオに得意の戦術で判定勝ちするも、準決勝でダン・ヘンダーソンにKO負け。また、ダンとの試合で顎を骨折し、ボルトで固定する手術を受けた。
2006年6月4日、『PRIDE 武士道 -其の十一- ウェルター級グランプリ 2006 開幕戦』では、ヘクター・ロンバードを翻弄し、判定勝利を飾る。2回戦となる8月26日の『PRIDE 武士道 -其の十二- ウェルター級グランプリ 2006 2nd ROUND』では、ゲガール・ムサシと対戦し一本勝ち、準決勝に駒を進めた。
2006年11月5日、『PRIDE 武士道 -其の十三- ウェルター級グランプリ 2006 決勝戦』では、準決勝でデニス・カーンと対戦し、判定負け。
2006年12月31日、『PRIDE 男祭り 2006』で、2001年12月の対戦以来5年ぶりとなる近藤有己とのリベンジマッチを行う。序盤にパンチを放った際に右手を骨折してしまい右手がほとんど使えない状態となるが、近藤に有効打を許さず、判定勝ち。リベンジを果たした。しかし、2005年のダン戦で埋め込まれていたボルト除去およびに視力矯正の手術を受けるため、戦線離脱を余儀なくされた。
2007年11月17日、UFC初参戦となったUFC 78でタムダン・マクローリーに腕ひしぎ十字固めで一本勝ちし、白星デビューとなった。また、サブミッション・オブ・ザ・ナイトに選出された。
2008年3月1日、UFC 82でジョン・フィッチと対戦予定であったが、右手の負傷により出場をキャンセル。2月上旬に手術を行った。10月18日のUFC 89にて復帰し、ダン・ハーディーと接戦するも1-2の僅差で判定負けに終わった。3RにはUFCで禁止されているグラウンド状態の相手への打撃を行ったことで減点された。
2009年1月31日、UFC 94でジョン・フィッチと対戦し、大差(30-27、30-27、30-26)の判定負けを喫し、UFC2連敗となった。この日の入場シーンではKEI山宮・大迫元喜と共に、矢島美容室のコスプレを披露した。この大会を最後にUFCとの契約が終了した。
2009年6月9日、都内ホテルで行われた記者会見で、戦極に参戦することを表明した[1]。
2009年8月2日、戦極初参戦となった戦極 ~第九陣~でダン・ホーンバックルと対戦し、3Rに右ハイキックを顔面に受け失神KO負けを喫した。そのまま担架で病院に運ばれるほどのダメージであった。
2009年12月31日、Dynamite!! ~勇気のチカラ2009~のDREAM vs SRC 対抗戦で桜井"マッハ"速人と対戦した。入場時には氣志團のコスプレをして、綾小路翔を従え『One Night Carnival』で入場した。
人物 [編集]
相手のパンチをかわす高いディフェンス技術が最大の武器。巧みに相手との間合いをとり、試合時間をフル活用して相手をじわじわと追い詰めるライツアウト(Lights out)戦法で身体能力の高い外国人選手とも互角に渡り合う。身体能力の差を埋めるこの戦法を「弱者の戦略」と自称している。
以前は「判定上等」がモットーの「郷野流」と自称していたが徐々に考え方が変わってきているようで、最近では「魅せる」ことに重点を置いている。
親交のあるDJ OZMAを模したDJ GOZMAを名乗って派手な入場パフォーマンスを行っている。
試合後のマイクパフォーマンスには定評がある。本人が書いているブログも人気である。
試合でのダメージのため、全身麻酔の手術を複数回受けている。
1歳の頃小児癌(肝芽腫)にかかり、当時の生存率がほぼ0%という状況の中で大手術を受け奇跡の生還を果たしている(右の腹部に手術跡が残っている)。そういった肉体的ハンデを乗り越えて、強さの象徴である総合格闘技で成功を収めている。そして現在、同じ病気にかかっている子供の会に参加したり、会の親子を試合に招待し、子供のヒーローになりたいと思っている。
ボクシングのミドル級~ヘビー級を制したロイ・ジョーンズ・ジュニアを尊敬しており、ファイトスタイルの参考にしている。
桜井マッハ速人VS郷野
桜井"マッハ"速人(さくらい"マッハ"はやと、男性、1975年8月24日 - )は、日本の総合格闘家。茨城県龍ケ崎市出身。マッハ道場主宰。修斗四天王の一人。
PRIDE武士道では「野生のカリスマ」というキャッチフレーズで呼ばれていた。通常体重は92~93kg。
中学・高校を通じて柔道を学び、土浦日大高校柔道部を引退後、空手を学び始める。高校時代は小見川道大、宮田和幸と同級生であった。
高校卒業後はアルバイトをしながら空手の修行をしていたが修斗に興味を覚え、修斗を学ぶために上京した。しかし間違ってシュートボクシングの道場であるシーザージムに入門。緒形健一、土井広之、村浜武洋らと練習を行い、アマチュアのシュートボクシングの選手として活躍。1995年6月に第11回アマチュアシュートボクシング選手権関東大会で優勝、同年12月に第6回全日本アマチュアシュートボクシング選手権全国大会で優勝を果たした。プロ昇格の権利を得るがプロにはならず、その後修斗に転向、木口レスリング道場に入門する。
修斗時代 [編集]
1996年10月4日、修斗プロデビュー(ウェルター級)で宇野薫に一本勝ち。
1997年、ミドル級(-76kg)に階級を上げ、その翌年第4代修斗世界ミドル級王座を獲得した。
1999年、UAEで開催されたアブダビコンバットに出場。-77kg級では3位入賞を果たし、無差別級準決勝では自身より40kgも重いリコ・ロドリゲスと対戦し苦戦を強いられるが、最後はヒールホールドで一本勝ち。決勝でホベルト・トラヴェンに敗れたが、軽量級でありながら無差別級での準優勝を果たした。
2001年8月26日、アンデウソン・シウバに判定負け。修斗世界ミドル級王座から陥落した。
2001年10月、地元・茨城県龍ケ崎市に「マッハ道場」(現・マッハ道場 茨城)を設立[1]。
2002年1月12日の修斗大会において、UFCに参戦しウェルター級王者マット・ヒューズにタイトルマッチで挑戦することが発表される。3月22日のUFC 36でのヒューズとの対戦は、テイクダウンを繰り返されトップポジションを取ることができない展開が続き、最後はパウンド連打でTKO負け。タイトル奪取は叶わなかった。
PRIDE武士道時代 [編集]
2003年12月31日、PRIDE初参戦となるPRIDE 男祭り 2003で高瀬大樹に判定勝ち。
2004年2月15日、「PRIDE 武士道 -其の弐-」でホドリゴ・グレイシーに判定負け。
参戦した当初はリミット83kgのウェルター級を主戦場にしていた。体重増加と対戦相手の体重に対応できなかったためか、当初は勝利から遠ざかっていた。
2005年5月22日、PRIDE 武士道 -其の七-でミルトン・ヴィエイラと対戦し、判定勝ち。
2005年8月20日には3年振りに修斗に復帰し青木真也と対戦、判定勝ち。
青木との試合後、アメリカのAMCパンクレイション(マット・ヒュームのジム)にて2週間のトレーニングを行い[2]、80kg台からライト級リミットである73kg近くまで大幅に減量した。
2005年9月25日、「PRIDE 武士道 -其の九-」で行われたライト級GPに参戦。1回戦ではジェンス・パルヴァーにKO勝ち。準決勝ではヨアキム・ハンセンに判定勝ちし、決勝進出を決めた。
2005年12月31日、PRIDE 男祭り 2005で行われたライト級GP決勝で五味隆典にKO負け。準優勝となった。
2007年2月25日、PRIDE.33でマック・ダンジグにKO勝ち。
2007年9月30日、東京都豊島区巣鴨に「マッハ道場 巣鴨支部」をオープンさせた[1]。
2007年10月28日、SHOOT BOXING BATTLE SUMMIT GROUND ZERO TOKYO 2007でヤニ・ラックスと対戦。2Rにはダウンを奪ったものの決定的なダメージを与えることができず、判定での勝ちとなった。当初はアリ・イブラヒムと対戦予定であったが、ビザのトラブルで対戦相手が変更となった[3]。
2007年12月31日、『やれんのか! 大晦日! 2007』で長谷川秀彦と対戦し、3-0の判定勝ち。
DREAM設立後 [編集]
2008年3月15日、DREAM.1で門馬秀貴と対戦し、パウンドによりTKO勝ち。
2008年4月6日、地元茨城の牛久運動公園体育館メインアリーナでアマチュア大会「WORLD&WILD-1 第1回チャリティー マッハ祭り」を開催。階級別トーナメント(総合格闘技ルール)やグローブ空手のワンマッチなど全26試合が行われた。マッハ自身も佐藤ルミナと3分間のエキシビションマッチを行った[4]。
2008年5月3日、3年振りに修斗に復帰するも、デビッド・バロンに一本負けを喫した。
2008年9月23日、DREAM.6にて弘中邦佳に判定勝ち。
2009年4月5日、DREAM.8のウェルター級グランプリ1回戦で青木真也と対戦し、開始27秒パウンドでKO勝ちを収めた。
2009年7月20日、DREAM.10のウェルター級グランプリ準決勝でマリウス・ザロムスキーと対戦し、左ハイキックでダウンしたところにパウンドで追撃されTKO負け。
2009年11月28日、柔術デビューとなった日本ブラジリアン柔術連盟「東京国際オープントーナメント2009」アダルト黒帯メイオペサード級に出場。1回戦で上村彰と対戦し、外掛けの足関節技を仕掛けてしまい反則負けとなった
郷野 聡寛(ごうの あきひろ、男性、1974年10月7日 - )は、日本の総合格闘家。東京都東久留米市出身。GRABAKA所属。東京都立小平高等学校卒業。ニックネームは難攻不落のビッグマウス。
1993年にスポーツ会館のコマンドサンボに入門。トーナメント・オブ・Jや真武館などのアマチュア大会で活躍。
1995年10月13日、トーナメント・オブ・J '95のトーナメントに出場し、1回戦で当時和術慧舟會所属の村上一成(現・村上和成)に右ハイキックでKO勝ち。準決勝ではイーゲン井上に腕ひしぎ十字固めで一本負け。
1996年3月30日、トーナメント・オブ・J '96で村上一成と再戦し、判定負け。
1996年5月7日、修斗でプロデビューを果たした。修斗時代には類稀なるセンスが光り、「総合格闘技の申し子」と称された。
1998年11月27日、修斗後楽園ホールで伝説の野次「俺だけの郷野!」が発生[要出典]。
1999年5月29日、修斗でマット・ヒューズと対戦し、判定負け。
2001年5月、菊田早苗率いる「GRABAKA」に移籍し、パンクラスを主戦場にする。
2002年12月21日、パンクラスでKEI山宮にKO勝ちを収めた後のマイクアピールで同年11月30日に獣神サンダー・ライガー対鈴木みのるがメインイベントとして組まれたことに対し、「今のパンクラスは馬鹿ばっかりだ!」と発言して物議を醸した。
2004年2月15日、PRIDE武士道に初参戦。『PRIDE 武士道 -其の弐-』でマウリシオ・ショーグンと対戦し、KO負け。
2005年1月4日、全日本キックボクシング連盟 『SURVIVOR』でキックボクシングルールに初挑戦。全日本ヘビー級王座挑戦者決定戦をコンボイ山下と対戦。1Rには左ハイキック、3Rには左フックでダウンを奪い、大差の判定勝ち。
2005年2月6日、全日本キックボクシング連盟『MOVING』で王者西田和嗣と全日本ヘビー級タイトルマッチで対戦。4Rに右ストレートでKO勝ち。全日本キックボクシングヘビー級王座に輝いた(その後、2007年4月1日付けで返上)。
2005年3月6日、パンクラスで行われた全日本キックボクシング連盟公式試合で桜木裕司と対戦。2Rにカウンターの右ストレートでKO負け。
2005年5月2日、所属するGRABAKAがパンクラスから独立。
2005年5月22日、『PRIDE 武士道 -其の七-』でクラウスレイ・グレイシーと対戦し、判定勝ち。
2005年9月25日、『PRIDE 武士道 -其の九- ウェルター級グランプリ』では、1回戦でダニエル・アカーシオに得意の戦術で判定勝ちするも、準決勝でダン・ヘンダーソンにKO負け。また、ダンとの試合で顎を骨折し、ボルトで固定する手術を受けた。
2006年6月4日、『PRIDE 武士道 -其の十一- ウェルター級グランプリ 2006 開幕戦』では、ヘクター・ロンバードを翻弄し、判定勝利を飾る。2回戦となる8月26日の『PRIDE 武士道 -其の十二- ウェルター級グランプリ 2006 2nd ROUND』では、ゲガール・ムサシと対戦し一本勝ち、準決勝に駒を進めた。
2006年11月5日、『PRIDE 武士道 -其の十三- ウェルター級グランプリ 2006 決勝戦』では、準決勝でデニス・カーンと対戦し、判定負け。
2006年12月31日、『PRIDE 男祭り 2006』で、2001年12月の対戦以来5年ぶりとなる近藤有己とのリベンジマッチを行う。序盤にパンチを放った際に右手を骨折してしまい右手がほとんど使えない状態となるが、近藤に有効打を許さず、判定勝ち。リベンジを果たした。しかし、2005年のダン戦で埋め込まれていたボルト除去およびに視力矯正の手術を受けるため、戦線離脱を余儀なくされた。
2007年11月17日、UFC初参戦となったUFC 78でタムダン・マクローリーに腕ひしぎ十字固めで一本勝ちし、白星デビューとなった。また、サブミッション・オブ・ザ・ナイトに選出された。
2008年3月1日、UFC 82でジョン・フィッチと対戦予定であったが、右手の負傷により出場をキャンセル。2月上旬に手術を行った。10月18日のUFC 89にて復帰し、ダン・ハーディーと接戦するも1-2の僅差で判定負けに終わった。3RにはUFCで禁止されているグラウンド状態の相手への打撃を行ったことで減点された。
2009年1月31日、UFC 94でジョン・フィッチと対戦し、大差(30-27、30-27、30-26)の判定負けを喫し、UFC2連敗となった。この日の入場シーンではKEI山宮・大迫元喜と共に、矢島美容室のコスプレを披露した。この大会を最後にUFCとの契約が終了した。
2009年6月9日、都内ホテルで行われた記者会見で、戦極に参戦することを表明した[1]。
2009年8月2日、戦極初参戦となった戦極 ~第九陣~でダン・ホーンバックルと対戦し、3Rに右ハイキックを顔面に受け失神KO負けを喫した。そのまま担架で病院に運ばれるほどのダメージであった。
2009年12月31日、Dynamite!! ~勇気のチカラ2009~のDREAM vs SRC 対抗戦で桜井"マッハ"速人と対戦した。入場時には氣志團のコスプレをして、綾小路翔を従え『One Night Carnival』で入場した。
人物 [編集]
相手のパンチをかわす高いディフェンス技術が最大の武器。巧みに相手との間合いをとり、試合時間をフル活用して相手をじわじわと追い詰めるライツアウト(Lights out)戦法で身体能力の高い外国人選手とも互角に渡り合う。身体能力の差を埋めるこの戦法を「弱者の戦略」と自称している。
以前は「判定上等」がモットーの「郷野流」と自称していたが徐々に考え方が変わってきているようで、最近では「魅せる」ことに重点を置いている。
親交のあるDJ OZMAを模したDJ GOZMAを名乗って派手な入場パフォーマンスを行っている。
試合後のマイクパフォーマンスには定評がある。本人が書いているブログも人気である。
試合でのダメージのため、全身麻酔の手術を複数回受けている。
1歳の頃小児癌(肝芽腫)にかかり、当時の生存率がほぼ0%という状況の中で大手術を受け奇跡の生還を果たしている(右の腹部に手術跡が残っている)。そういった肉体的ハンデを乗り越えて、強さの象徴である総合格闘技で成功を収めている。そして現在、同じ病気にかかっている子供の会に参加したり、会の親子を試合に招待し、子供のヒーローになりたいと思っている。
ボクシングのミドル級~ヘビー級を制したロイ・ジョーンズ・ジュニアを尊敬しており、ファイトスタイルの参考にしている。