見逃した人へ 三崎和雄vsメルヴィンマヌーフ
三崎和雄vsメルヴィンマヌーフ
三崎 和雄(みさき かずお、男性、1976年4月25日 - )は、日本の総合格闘家。千葉県小見川町(現香取市)出身。東京学館高等学校卒業。PRIDEウェルター級グランプリ2006優勝。
柔道をバックボーンとし、身体の中心線を軸にして体位を入れ替える独特のフットワークから繰り出される回転の速い打撃と菊田早苗仕込の寝技、折れない精神で闘うファイター。ニックネームは「GRABAKAのヒットマン」。
来歴 [編集]
中学、高校と柔道を学び、高校卒業後、総合格闘家を目指し香取道場にてキックボクシングを習う。その後菊田早苗と出会い、彼の率いる「GRABAKA」に入団。
2000年11月26日、茨城県土浦市で開催された全日本異種格闘技選手権の75kg以下の部に出場、決勝で石田光洋に勝利し、優勝を果たした。
2001年5月5日、『ネオブラッドトーナメント』予選でパンクラスデビュー。第2回タイタンファイト3位の芹沢健一に判定勝ち。7月29日の本戦では1回戦でパンクラスismの佐藤光留にチョークスリーパーで一本勝ちすると、そのまま準決勝の梁正基戦、決勝の長岡弘樹戦と勝ち上がり優勝を果たした。10月30日、「東京・横浜対抗戦」と銘打たれ行われたismとの5対5の対抗戦では先鋒出場。経験に勝る冨宅飛駈と対戦し、開始8秒右ストレートでKO勝ち。
2002年3月25日、ネイサン・マーコートと対戦。しかし試合開始直後にスープレックスで投げられた際、左肘を脱臼してしまい、ドクターストップ負け。
2004年5月23日、『PRIDE 武士道 -其の参-』でPRIDE初参戦。シュートボクセ・アカデミーの豪腕ジョルジ・パチーユ・マカコに打撃戦を挑み、判定勝ち。
2005年7月17日、『PRIDE 武士道 -其の八-』で、マカコの同門ダニエル・アカーシオに判定負け。同年開催のウェルター級グランプリ出場を逃した。
2006年4月2日の『PRIDE 武士道 -其の拾-』で、前年のウェルター級GP王者ダン・ヘンダーソンに判定負け。
2006年6月4日、ウェルター級グランプリ1回戦となる『PRIDE 武士道 -其の十一-』のメインイベントでフィル・バローニと対戦。打撃戦を制し、判定勝ち。8月26日、2回戦の『PRIDE 武士道 -其の十二-』ではダン・ヘンダーソンと再戦。王者相手に攻め続け、日本人として初めてヘンダーソンに勝利した。
2006年11月5日、『PRIDE 武士道 -其の十三-』の準決勝で、パウロ・フィリォと対戦するも、テイクダウンからマウントポジションをとられ、脱出できずに1R終了間際に腕ひしぎ十字固めで一本負けを喫した。この試合で右肘の靭帯を痛めた。しかし、フィリォが三崎との試合で負った膝靭帯損傷のため決勝を辞退し、三崎が急遽決勝でデニス・カーンと対戦し、2-1で判定勝ち。優勝を果たした。
2007年2月24日、PRIDE.33でフランク・トリッグと対戦。トーナメント王者として初めての試合であったが、再三テイクダウンを奪われ、判定負けを喫した。
2007年12月31日、「やれんのか! 大晦日! 2007」で秋山成勲と対戦し、1RKO勝ちとなった(後にノーコンテストへ裁定が変更された)。詳しくは後述。
2008年3月5日、戦極旗揚げ戦戦極 ~第一陣~でシアー・バハドゥルザダと対戦し、フロントチョークで一本勝ち。
2008年6月8日、戦極 ~第三陣~でローガン・クラークと対戦し、判定勝ち。
2008年9月20日、初参戦となるStrikeforceでジョー・リッグスと対戦。2Rに左ストレートでダウンするも、直後に右ストレートでダウンさせパウンド連打でTKO勝ち。
2009年1月4日、戦極の乱2009の戦極ミドル級チャンピオンシップでジョルジ・サンチアゴと対戦し、チョークスリーパーで一本負けを喫し、王座獲得に失敗した。
2009年3月19日、乗用車で走行中に携帯電話を使用しているところを警察官に見つかり、停止を求められたが無視して逃走した。5月になって公務執行妨害で逮捕され、6月4日の起訴後に保釈された。6月25日に東京地裁で、懲役1年、執行猶予3年の有罪判決を受けた[1]。
2009年8月2日、戦極 ~第九陣~で中村和裕と対戦し、フロントチョークで一本勝ちを喫した。この試合は戦極ミドル級チャンピオンシップ挑戦者決定戦として当初発表されていたが、有罪判決を受けたことで8月3日以降の無期限出場停止および当試合のファイトマネーを全額没収という処分が下されたため[2]、勝利を収めたものの王座挑戦権は与えられなかった。
2009年11月8日付けでGRABAKAから独立した[3]。
2009年12月11日付けでSRC(戦極)から受けていた無期限出場停止処分が解除された。
人物 [編集]
妥協を許さない性格で、日本人であるということに誇りを持っており、試合で勝った時は「日本人は強いんです」という決め台詞が有名。一般的に84kg級で日本人が弱いと思われていることに対するアンチテーゼとして三崎は以前からこの台詞を繰り返しており、お決まりのフレーズとなっている。最近では、ダン・ヘンダーソン、フィル・バローニ、秋山成勲などに勝利した時この決め台詞を使っている。
格闘技を始めた理由は「最強のファイターになるため」だという。究極、そして極限の闘いとは「殺し合い」であると言い、「夢中になっていること(試合)で死ねたら本望」と発言している。
趣味はサーフィン。
パンクラス時代、またPRIDE参戦当初は突出したネームバリューのある選手ではなかったが、2006年に行われたPRIDEウェルター級GPで優勝したことにより以降徐々にその名を知られ始める。そして2007年大晦日に秋山成勲をKOしたことによりその知名度は一気に上がった。現在では総合格闘技団体戦極の看板選手の一人であり、三崎への挑戦権を賭けたトーナメントも開催された。
やれんのか! 大晦日! 2007 [編集]
概要 [編集]
2007年12月31日、「やれんのか! 大晦日! 2007」で、対戦を熱望していた秋山成勲と対戦する。秋山が2006年大晦日にK-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!での桜庭和志との対戦で反則行為を行い無期限出場停止の処分を受ける(詳細は秋山成勲#身体へのオイル(ワセリン)の塗布を参照)も、2007年10月28日に復帰試合を行ったことについて、「あの時に彼はたくさんの子供達と一緒に入場した。その試合で反則を犯し、子供達の心を傷つけたにもかかわらず、それに対して何の責任もとらずに再びリングに上がったことを見て、スポーツマンシップや武道精神のかけらもない人物なんだな、と感じた」と発言。さらにその復帰戦でデニス・カーンがKOで敗れたことに対し、「彼はまったく自分と違う人物であり、自分と彼が交わることはないと思っている」と発言しつつも「デニスが負けてしまい、このまま彼を泳がせておくわけにはいかないと思った」と、秋山との対戦を熱望し、大晦日の大舞台で対戦が決定する。
試合は打撃戦となり、一度はダウンを奪われるピンチを迎えながらも、左フックでダウンを奪い返し、立ち上がろうとする秋山へのキックで1RKO勝ちとなった。試合後秋山に対し上記の内容を厳しく問い質すと共に、「これからは子供たちやファンへの謝罪の心を持って戦い続けてほしい」とエールを送った。
ノーコンテストについて [編集]
試合後に秋山陣営が『やれんのか!実行委員会』に、三崎の蹴りはルールで禁止されている4点ポジションへの蹴りであると抗議文を提出。
2008年1月22日、秋山の両手両足がマットについている状態(4点ポジション)でフィニッシュとなったキックが行われたと判断され、ルールに抵触する禁止行為のためノーコンテストに裁定変更することを発表した。島田裕二ルールディレクターの「非常に判断が難しいが試合前のルール会議で『疑わしきは罰します』と通達していたことを考慮してノーコンテストにするべき」という意見を元に裁定されたもの。反則負けにはならなかった[5]。
契約について [編集]
1月23日の記者会見の際、谷川貞治は『やれんのか!』サイドと三崎対秋山戦が二試合行われる約束があったと主張し、実行委員会に無断で他の団体のイベントに出ることを選手のモラル上遺憾であるとし、戦極参戦を決めた三崎を非難した[6]。
これに対して、沈黙を守る三崎の代わりに、同チーム代表の菊田早苗が、『やれんのか!』への三崎の出場は1試合契約という合意の上であること、三崎はどこにも契約していないフリーの立場であること、戦極と契約をする前の段階で実行委員会へ連絡済みであることを主張した[7]。
メルヴィン・マヌーフ(Melvin Manhoef、男性、1976年5月11日 - )は、スリナム共和国出身のキックボクサー、総合格闘家。ショータイム/マイクスジム所属。ムエタイがバックボーン。キックボクシング、K-1の試合にも多く出場している。元Cage Rage世界ライトヘビー級王者。
以前はオランダ現地の発音に近いメルヴィン・マンフーフと表記されていたが、日本国内では「マヌーフ」が一般的となっている。
同じマイクスジムに所属しているバダ・ハリと親交が深い。
「俺は殴りあいを愛している」と公言し、そのファイトスタイルからイギリスの総合格闘技イベント『Cage Rage』では「カニバル(人食い)」の異名を取った。日本では「猛獣」「狂拳」「人食いマヌーフ」などのニックネームで呼ばれている。
2003年頃まではプロの格闘家でありながら朝から晩まで喧嘩に明け暮れていた。何度も警察に逮捕されて刑務所に入っており、見かねた警察はマヌーフの出所後も足首にGPS(衛星利用測位システム)を付けて監視し続けたほどであった。
ミドル級の体格でありながらヘビー級契約の試合もこなし、キックボクシングやK-1ルールの試合にも参戦している。K-1 WORLD GP 2002 世界地区予選 オランダ大会ではレミー・ボンヤスキーとも対戦、ダウンを奪われるまでは肉薄した戦いを見せていた。
そのボンヤスキー戦の後に犯罪を起こして逮捕されており、ボンヤスキーがK-1王者になったのを刑務所の中で知り、2004年の出所後は更生して練習に打ち込む一方、ジムで練習している子供達の模範となるべく努力を重ねており、問題児が集まったグループの更生にも取り組んでいる。マヌーフはボンヤスキーとの初対戦が自分の人生の分岐点となったと語っている[2]。またオランダ国内でキックボクサーを習っている子供達にK-1を目指してもらうべく、自ら大会を開いている。
来歴 [編集]
2005年9月10日、Cage Rage 13でファビオ・ピアモンテを破り、第3代Cage Rage世界ライトヘビー級王者となった。
2006年3月15日、HERO'Sにて大山峻護と対戦。打撃連打で大山を出血させ、1RTKO勝ち。マヌーフは高い打撃スキルでHERO'S初戦から大きなインパクトを残した。
2006年5月13日、K-1 WORLD GP 2006 in AMSTERDAMで開催されたEUROPE GP1回戦で富平辰文と対戦。一方的に攻め続けてダウンを2度奪い1RKO勝ち。左手を負傷したため、準決勝を棄権した。
2006年8月5日、HERO'Sライトヘビー級世界最強王者決定トーナメント準々決勝でクラウスレイ・グレイシーと対戦、グラウンドパンチの連打で1RTKO勝ち。試合後、「今日の試合は満足していない。急に対戦相手が変わり良いパフォーマンスが出来なかった。試合は1人の力ではなく2人の力で良いものにしていくものだ。決勝の相手は誰になるかわからないが、もっと練習して皆を沸かせる試合をしたい」とコメントした。
2006年10月9日、HERO'Sライトヘビー級世界最強王者決定トーナメント準決勝で大山峻護と再戦し、打撃の連打により勝利。続く決勝戦では秋山成勲と対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本負け。王座獲得を逃す。試合後、「相手が道衣を着ていたのでやり辛かった。対策はしてきたつもりだったが、腕が道衣に引っかかって抜けなかった。打撃で攻めるゲームプランで、もっと間合いを取りながら戦えばよかった。相手の作戦勝ちだ」とコメントした。
2006年12月2日、K-1 WORLD GP 2006 決勝戦のリザーブファイトでレイ・セフォーと対戦。ローやハイキックで攻め続けるもセフォーの右フックでダウンを奪われ、1RKO負け。
2007年3月12日、HERO'Sにて高橋義生と対戦、グラウンドパンチの連打で、1RTKO勝ち。
2007年6月2日、Dynamite!! USAでユン・ドンシクと対戦。1R、打撃で猛攻するマヌーフ、それを掻い潜り関節を仕掛けるドンシクという攻防であったが、2Rに腕ひしぎ十字固めで一本負け。
2007年6月23日、K-1 WORLD GP 2007 IN AMSTERDAMでルスラン・カラエフと対戦。開始早々に左フックを浴びせ、31秒でKO勝ち。カラエフは失神しておりしばらく立ち上がれなかった。
2007年7月16日、HERO'Sでベルナール・アッカと対戦し、1R左フックでKO勝ち。この試合は、ユン・ドンシクに代わる緊急参戦となった。
2007年9月17日、HERO'Sで7月に挑戦状を叩きつけられたファビオ・シウバと対戦。左右のフックでダウンを奪い、パウンドで追撃しTKO勝ち。また、試合前日に新宿ステーションスクエアで行われた公開記者会見では額を付けての激しい睨み合いになり最後には胸を突き飛ばし殴り合い寸前となるトラブルを起こした。
2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!で西島洋介と対戦。スタンドでの攻防の中テイクダウンでグラウンドに持ち込むとマウントポジションを取り、パウンドでKO勝ち。
2008年5月11日、DREAM初参戦となったDREAM.3のミドル級グランプリリザーブマッチでキム・デウォンと対戦し、グラウンドでの頭部への膝蹴りによりTKO勝ち。6月15日、DREAM.4の2回戦で桜庭和志と対戦し、TKO勝ち。9月23日、DREAM.6の準決勝でゲガール・ムサシと対戦し、三角絞めで一本負け。
2008年12月6日、K-1 WORLD GP 2008 FINALのリザーブファイトに出場し、ポール・スロウィンスキーに左フックでKO勝ちを収めた。
2008年12月31日、Dynamite!! ~勇気のチカラ2008~で40kg以上の体重差(当日マヌーフ88.9kg、ハント130.4kg)があるマーク・ハントと対戦し、開始18秒に右フックでダウンを奪い、パウンドの連打でKO勝ちを収めた。ハントと対戦予定であったジェロム・レ・バンナのインフルエンザによる欠場で、試合前日に代理出場が発表された。
2009年3月28日、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAの第2代K-1ヘビー級王者決定トーナメントに出場。1回戦で前田慶次郎にカウンターの右フックを受けKO負け。引退を示唆するコメントを試合後に語った。
2009年7月20日、DREAM.10でパウロ・フィリォと対戦。パンチでダウンを奪うなど攻勢であったが、腕ひしぎ十字固めで一本負け。
2009年8月11日、K-1 WORLD GP 2009 IN TOKYOで行われたFINAL16 QUALIFYING GPに出場し、1回戦でラマザン・ラマザノフにKO勝ちするも、右足裂傷のため準決勝を棄権した。
2009年9月26日、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16に推薦枠で出場。昨年の王者レミー・ボンヤスキーと対戦し判定負け。