物議を醸す試合
衝撃の結末
青木真也vs廣田瑞人(個人的にはこういう戦い好きです)
青木 真也(あおき しんや、男性、1983年5月9日 - )は、日本の総合格闘家、ブラジリアン柔術家。静岡県静岡市出身。パラエストラ東京所属。現DREAMライト級王者、現WAMMA世界ライト級王者。
跳関十段(とびかんじゅうだん)の異名を持つ青木は奇想天外なサブミッションを仕掛けることで知られ、現在の総合格闘技の軽量級最高峰の寝技師と呼ばれている。
新宿のDEEPジムのインストラクターとしては働いているが、試合はパラエストラ東京の代表として出場している
東海大第一中学→静岡学園高校→早稲田大学人間科学部と柔道部に在籍。柔道時代からさまざまな格闘技に通じ、跳びつき腕ひしぎ十字固め・脇固め・スピニングチョーク・フットチョークなど、柔道においては特異な技の数々で勝利をものにしてきた。その結果全日本ジュニア強化選手となったが、競技柔道(講道館柔道)では投げ技による一本勝ちを重視する傾向があるため、青木のスタイルは異端児扱いされ、その格闘技観の違いから「極」を重視した格闘技へと活躍の場を移すことを決意。サンボと柔術、コンバットレスリング、総合格闘技などでその実力を表している。
柔術の師である中井祐樹からブラジリアン柔術黒帯を授けられる。
2003年11月24日、club DEEP 4thで行われたフューチャーキングトーナメント82kg以下級で優勝。
2004年10月30日、DEEP 16th IMPACTで中尾受太郎と対戦。寝技を駆使し試合を優位に進めるも、スタンドの打ち合いで左ストレートを食らいKO負け。
2004年11月28日、COPA reversal 2004で弘中邦佳と柔術マッチで対戦し、跳びつき腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。フィニッシュの腕ひしぎ十字固めで弘中は右肘を脱臼した[1]。
修斗時代 [編集]
2005年1月29日、初参戦となった修斗でキース・ウィスニエフスキーに腕ひしぎ脇固めで一本勝ち。試合後、「次はもっと強い人とやりたいです。チャンピオン目指します」とマイクアピールした。
2005年5月4日、修斗で岩瀬茂俊と対戦予定であったが、眼底検査で網膜裂孔と診断され、インターナショナル修斗コミッションよりライセンスが発行されず、欠場となった。
2005年5月28日、アブダビコンバットでは、77kg未満級の2回戦でマルセロ・ガッシアと対戦、バックを許し、チョークスリーパーで一本負け。翌日5月29日には無差別級の1回戦でホジャー・グレイシーと対戦し、アキレス腱固めで一本負け。
2005年6月11日、プロ柔術関西「大阪夏の陣」で渡辺直由へのリベンジに成功。試合後、セコンドについていた渡辺の師である早川光由に「次はお前だ!」と対戦要求した。
2005年7月30日、網膜裂孔が完治し修斗よりライセンスが発行され、5月に中止となった岩瀬茂俊と対戦。開始35秒右ローキックを股間に受けてしまい、反則勝ちとなった。
2005年8月20日、修斗で桜井"マッハ"速人と対戦し、判定負け。
2005年10月19日、カリフォルニア州で行われたヒクソン・グレイシー主催のブドーチャレンジ77kg未満級トーナメントに参戦。決勝でキャメロン・アールに一本勝ちし優勝を果たした。
2005年11月6日、1年前に柔術マッチで対戦した弘中と修斗で再戦し、三角絞めで固めた上での鉄槌で左眉付近をカットさせ、TKO勝ち。
2006年2月17日、修斗世界ミドル級王者菊地昭に判定勝ち、史上最短の5戦目にして第5代世界ミドル級王者となる。試合直後にリング上でマイクを握った青木は号泣しながら修斗への感謝を語り、「俺は一生修斗しかやりません」と宣言した[2]。
2006年3月に大学卒業後、警察官(静岡県警)となり警察学校に入るが2か月で退職し、プロ格闘家一本へ。そして雑誌にてPRIDEへの参戦を仄めかし、後にPRIDE参戦が決定。これが修斗ファンの怒りを買い、自身のブログが炎上し、後に閉鎖に追い込まれた。
PRIDE武士道時代 [編集]
2006年8月26日、PRIDE武士道に初参戦、ジェイソン・ブラックを相手に三角絞めで一本勝ち。試合後、マイクを持つと「修斗第8代世界ミドル級王者の青木真也です。修斗もPRIDEも皆さんの応援がある限り、まだまだ頑張ります」とコメントした[3]。
2006年10月14日、修斗でジョージ・ソテロポロスと対戦し、金的攻撃による反則勝ちとなった。
2006年11月5日、PRIDE 武士道 -其の十三-でギルバート・メレンデスと対戦予定だったが、メレンデスが負傷欠場。代役のクレイ・フレンチと対戦し、跳び三角絞めで一本勝ち。試合後、リング上でマイクを握った青木は、リングサイドで腕をギプスで固定しながら観戦していたメレンデスに対して、大晦日に試合をすることを呼びかけ、メレンデスもこれに賛同したものの[4]、結局同年の大晦日は青木はハンセンと、メレンデスは川尻達也と対戦したため両者の対戦は実現しなかった。
2006年12月31日、PRIDE 男祭り 2006でヨアキム・ハンセンと対戦。レインボーカラーのスパッツ&マウスピースといういでたちで登場、開始早々にグラウンドに引きずり込みフットチョークで一本勝ち。強豪のハンセン相手に総合格闘技史上初のフットチョークによるタップアウト勝ちだったため、大きなインパクトを与えた。試合後、マイクを持つと「PRIDEも修斗も、総合格闘技最高です」とアピールした。
2007年2月17日、修斗・横浜大会で修斗世界ミドル級王座の初防衛戦で前王者・菊地昭と再戦し、三角絞めやオモプラッタを交えた絞め技(糸通し)、関節技でグラウンドを支配するも、菊池のパウンドで若干ポイントを取られ、2-1のスプリットデシジョンで王座防衛を果たした。
2007年3月には師である今成正和が所属するDEEP GYMに自らが指導するクラスを開始させた。
2007年4月8日、PRIDE.34でブライアン・ローアンユーと対戦。ローアンユーのパウンドや膝蹴りでダメージを負うも、冷静に下から腕ひしぎ十字固めを極め一本勝ち。
2007年6月17日、グラップリング大会『DEEP X』のメインイベントでペドロ・アキーラと対戦。開始38秒、チョークスリーパーで一本勝ち。
2007年12月31日、やれんのか! 大晦日! 2007でJ.Z.カルバンと対戦予定であったが、カルバンの負傷による欠場により、代わりに参戦となったチョン・ブギョンとメインイベントで対戦。腕ひしぎ十字固めを2度極めかけられるなど苦戦するも、パウンドで流れを引き寄せ3-0の判定勝ち。
DREAM設立後 [編集]
2008年3月15日、DREAM.1のライト級グランプリ1回戦でJ.Z.カルバンと対戦。1R序盤、カルバンがガブッた体勢から振り下ろした肘が青木の首に当たってしまう。反則行為である延髄への打撃と見なされ、ダメージの残る青木に3分間のインターバルが与えられるも回復せず、偶発的なアクシデントによりノーコンテストとなった。トーナメントの勝ち上がりは主催者預かりとなったが、4月4日の記者会見で没収試合に裁定変更のうえDREAM.2で再戦することが発表された。
2008年4月29日、DREAM.2でJ.Z.カルバンと再戦。1Rにカルバンのパウンドを被弾するもバックを奪い、2Rにも再三跳び関節を仕掛け、3-0の判定で勝利。昨年の大晦日から続いた因縁に決着をつけた。
2008年6月15日、DREAM.4の2回戦で永田克彦と対戦し、マウントからのフットチョークで一本勝ち。
2008年7月21日、DREAM.5のライト級グランプリ準決勝で宇野薫と対戦。終始ペースを握って次々と関節技を仕掛け、宇野の粘りに一本は奪えなかったものの3-0の判定勝ち。決勝ではリザーブから上がってきたヨアキム・ハンセンにパウンドでTKO負け。準優勝となった。
2008年9月23日、DREAM.6ではトッド・ムーアに一本勝ちを収めた。試合後マイクを持つと、「僕の前に試合をした秋山“マイケル・ジャクソン”成勲先輩!青木真也と大晦日にネバーランドでワオワオしませんか?」と秋山成勲に対戦を要求する。
2008年12月31日、Dynamite!! ~勇気のチカラ2008~でライト級グランプリ決勝で対戦するはずであったエディ・アルバレスと対戦し、踵固めを極め一本勝ち。試合後のマイクでは「UFCよく聞け、日本がトップだコノヤロー!」と絶叫した。この勝利により、初代WAMMA世界ライト級王者に認定された[5]。
2009年3月8日、ウェルター級GPへの参戦を見据えてライト級の体重から増量し、74kg契約でDREAM.7でデイビッド・ガードナーと対戦。ガードナーが「ハロージャパン」と発声したスキを突き[6]チョークスリーパーを極め一本勝ちを収めた。試合後のコメントでウェルター級GPへの参戦を表明した。
2009年4月5日、DREAM.8のウェルター級グランプリ1回戦で桜井"マッハ"速人と対戦し、開始直後にテイクダウンを奪ったもののバタフライ・スイープで体位の逆転を許し、開始27秒パウンドでKO負けを喫した。
2009年4月29日、「DEEP M-1 CHALLENGE 3rd EDITION in JAPAN」でエメリヤーエンコ・ヒョードルとサンボ衣着用・打撃ありのスーパーエキシビションファイトを行なった。お互いに見せ場を作った後、終了間際に青木がヒョードルのアキレス腱固めにタップアウト。
2009年7月20日、DREAM.10でビトー・シャオリン・ヒベイロと対戦。スパッツの上にキックパンツを履いて試合に臨み、スタンドでのミドルキックや膝蹴りで攻勢となり、判定勝ち。試合後のリング上で「いやー、ムエタイって面白いでしょ?」(友人である藤原あらしの発言のオマージュ)と発言すると、会場からブーイングが起こった。
2009年10月6日、DREAM.11のライト級タイトルマッチで3度目となったヨアキム・ハンセンと対戦し、2ラウンド残り4秒で一本勝ち。ライト級王座を獲得し、DREAM初の日本人王者となった。
2010年1月7日、Dynamite!!での試合後の不道徳行為について、パラエストラ東京から厳重注意が与えられ、パラエストラ東京の指導スタッフから解任されたことが発表された[10]。
人物 [編集]
寝技に対する拘りは強く、「今の総合格闘技界は打撃偏重だからこそ、俺は寝技に拘る!」と豪語しており、寝技について(暴力性を感じさせる)打撃によるKOが本人の意思とは関係なく起こるのと比べて、関節技や絞め技による一本勝ちは相手に自らの意思でタップさせることにより怪我のリスクを少なく、屈服させることが出来るので芸術的と語っている。しかし、Dynamite!! ~勇気のチカラ2009~の廣田瑞人戦においては、アームロックで右上腕を骨折させた[7]。自身の(総合格闘技における)寝技の技術は世界一でアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラよりも自分のほうが上である、という発言もしている。
五味隆典がPRIDE 男祭り 2004の試合後のマイクパフォーマンスで「大晦日にね、判定?駄目だよ、KOじゃなきゃ!」とコメントしたのをパロディとして、「判定?駄目だよ、一本じゃなきゃ!」を決め台詞としている。
自他共に認める格闘技おたくであり、近代柔道やレスリング、サンボのテクニック解説本を小学校3年生の時から収集しているなど研究熱心である。また、寝技だけでなく、打撃に対してもその研究熱心さは変わらず、マニアックなムエタイ戦士や日本では知名度の低い総合格闘家の名前や試合も数多く覚えており、インタビューなどでも度々その豊富な知識を披露している。
ロングスパッツの着用については「寝技の時に相手や自分の汗で滑りやすくなることがあるので、それを防ぐために着ている」と語っている。
入場時には胴衣を着て入場曲のバカサバイバーを歌いながら入場してくる。入場ゲートの途中まで歩いてきたところで後ろを振り返って、一旦戻るように歩いてセコンドの面々と短く言葉をかわした後、再びリングに向かって歩くのが恒例となっている。また、この時に今成正和の背中を軽く触るのは本人曰く「験担ぎ」とのこと。
最も尊敬する格闘家として木村政彦と桜庭和志を挙げている。木村については「“殺し”に関してはこれ(ニコニコ動画にアップロードされている木村の動画)見なきゃ男はチェストー!(駄目だよ、という意味と思われる)」と語っている。桜庭については「桜庭さんの中で誇りがあると思う。PRIDEで毎大会試合してましたよね?そこが格好いい!今でも。桜庭さんがPRIDEを背負っていた時の責任感が、DREAMの僕にも多少あると思うんですよ」と語っている。
雑誌で全日本キックボクシング連盟の石川直生と対談して以来、交流を深め、現在では一緒に打撃練習をする間柄である。
秋山成勲を激しく嫌っていると見受けられる発言を多くしている。事の発端は秋山がK-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!にて、青木が尊敬している桜庭和志を相手に、反則を犯した、いわゆる“ヌルヌル事件”である。また、DREAM参戦後の秋山の度重なる格下との対戦や尊大な言動に対して腹を立てており、DREAM.6では秋山が勝利した際にリング上で(戦極を主戦場とする)吉田秀彦への挑戦を表明した直後に、リング上で秋山に対して対戦要求を突きつけた。同大会の翌日の会見では同じ主戦場としているDREAMに対する秋山の姿勢を激しく非難[11]した。その後、マスコミを通じてDynamite!! ~勇気のチカラ2008~での秋山との対戦を熱望していたが、秋山が大会の欠場を表明したため、青木は自分の不戦勝だとし、秋山がまたお茶を濁すような試合をしにくるのなら来なくてもいいと発言した。と同時に、自らはエディ・アルバレスとの対戦に応じ「ライト級グランプリ幻の決勝戦」といわれた世界トップレベルの試合に臨んでみせた。
ニック・ディアス、ジェイク・シールズが青木との対戦を過去に要求している。UFC 104では、ジョー・スティーブンソンが敵団体にもかかわらず公的にDREAM青木との交流戦撃破を宣言した。
廣田 瑞人(ひろた みずと、男性、1981年5月5日 - )は、日本の総合格闘家。長崎県諫早市出身。フリーランス。現戦極ライト級王者、元CAGE FORCEライト級王者。
右上腕部にパグの刺青を彫っている(実家でパグを飼っていたことがある)。
2004年9月20日、第11回全日本アマチュア修斗選手権大会ウェルター級に参加し、優勝を果たした[1]。
2005年2月6日、プロ修斗デビュー。
2005年9月23日、修斗新人王決定トーナメント決勝で児山佳宏に判定勝ちし、ウェルター級新人王となった。
2007年2月17日、中蔵隆志と修斗環太平洋ウェルター級王座決定戦で対戦し、判定負け。
2007年12月1日、CAGE FORCE初参戦となるCAGE FORCE 05でシン・ドゥギと対戦し、開始16秒右フックでKO勝ち。
2008年4月5日、CAGE FORCE 06で鹿又智成とCAGE FORCEライト級王座決定戦で対戦し、パウンドでTKO勝ち。第2代CAGE FORCEライト級王者となった。
2008年8月24日、戦極初参戦となった戦極 ~第四陣~のライト級グランプリ1回戦でライアン・シュルツと対戦し、右フックでKO勝ち。
2008年11月1日、戦極 ~第六陣~のライト級グランプリ準決勝で横田一則と対戦し、判定負け。
2009年2月28日、CAGE FORCE EX -eastern bound-でパンクラスライト級王者井上克也を相手にCAGE FORCEライト級タイトルマッチを行い、三者三様の判定1-1でドロー防衛を果たした。
2009年5月10日、修斗で石田光洋と対戦し、パウンドでTKO勝ちを収めた。この試合は「戦極 vs. DREAM」として注目された。
2009年8月2日、戦極 ~第九陣~の戦極ライト級チャンピオンシップで王者北岡悟と対戦し、TKO勝ちで王座を獲得した。同年9月、戦極ライト級王座と並行しての防衛戦を行うことが難しいなどの理由によりCAGE FORCEライト級王座を返上した。

青木真也vs廣田瑞人(個人的にはこういう戦い好きです)
青木 真也(あおき しんや、男性、1983年5月9日 - )は、日本の総合格闘家、ブラジリアン柔術家。静岡県静岡市出身。パラエストラ東京所属。現DREAMライト級王者、現WAMMA世界ライト級王者。
跳関十段(とびかんじゅうだん)の異名を持つ青木は奇想天外なサブミッションを仕掛けることで知られ、現在の総合格闘技の軽量級最高峰の寝技師と呼ばれている。
新宿のDEEPジムのインストラクターとしては働いているが、試合はパラエストラ東京の代表として出場している
東海大第一中学→静岡学園高校→早稲田大学人間科学部と柔道部に在籍。柔道時代からさまざまな格闘技に通じ、跳びつき腕ひしぎ十字固め・脇固め・スピニングチョーク・フットチョークなど、柔道においては特異な技の数々で勝利をものにしてきた。その結果全日本ジュニア強化選手となったが、競技柔道(講道館柔道)では投げ技による一本勝ちを重視する傾向があるため、青木のスタイルは異端児扱いされ、その格闘技観の違いから「極」を重視した格闘技へと活躍の場を移すことを決意。サンボと柔術、コンバットレスリング、総合格闘技などでその実力を表している。
柔術の師である中井祐樹からブラジリアン柔術黒帯を授けられる。
2003年11月24日、club DEEP 4thで行われたフューチャーキングトーナメント82kg以下級で優勝。
2004年10月30日、DEEP 16th IMPACTで中尾受太郎と対戦。寝技を駆使し試合を優位に進めるも、スタンドの打ち合いで左ストレートを食らいKO負け。
2004年11月28日、COPA reversal 2004で弘中邦佳と柔術マッチで対戦し、跳びつき腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。フィニッシュの腕ひしぎ十字固めで弘中は右肘を脱臼した[1]。
修斗時代 [編集]
2005年1月29日、初参戦となった修斗でキース・ウィスニエフスキーに腕ひしぎ脇固めで一本勝ち。試合後、「次はもっと強い人とやりたいです。チャンピオン目指します」とマイクアピールした。
2005年5月4日、修斗で岩瀬茂俊と対戦予定であったが、眼底検査で網膜裂孔と診断され、インターナショナル修斗コミッションよりライセンスが発行されず、欠場となった。
2005年5月28日、アブダビコンバットでは、77kg未満級の2回戦でマルセロ・ガッシアと対戦、バックを許し、チョークスリーパーで一本負け。翌日5月29日には無差別級の1回戦でホジャー・グレイシーと対戦し、アキレス腱固めで一本負け。
2005年6月11日、プロ柔術関西「大阪夏の陣」で渡辺直由へのリベンジに成功。試合後、セコンドについていた渡辺の師である早川光由に「次はお前だ!」と対戦要求した。
2005年7月30日、網膜裂孔が完治し修斗よりライセンスが発行され、5月に中止となった岩瀬茂俊と対戦。開始35秒右ローキックを股間に受けてしまい、反則勝ちとなった。
2005年8月20日、修斗で桜井"マッハ"速人と対戦し、判定負け。
2005年10月19日、カリフォルニア州で行われたヒクソン・グレイシー主催のブドーチャレンジ77kg未満級トーナメントに参戦。決勝でキャメロン・アールに一本勝ちし優勝を果たした。
2005年11月6日、1年前に柔術マッチで対戦した弘中と修斗で再戦し、三角絞めで固めた上での鉄槌で左眉付近をカットさせ、TKO勝ち。
2006年2月17日、修斗世界ミドル級王者菊地昭に判定勝ち、史上最短の5戦目にして第5代世界ミドル級王者となる。試合直後にリング上でマイクを握った青木は号泣しながら修斗への感謝を語り、「俺は一生修斗しかやりません」と宣言した[2]。
2006年3月に大学卒業後、警察官(静岡県警)となり警察学校に入るが2か月で退職し、プロ格闘家一本へ。そして雑誌にてPRIDEへの参戦を仄めかし、後にPRIDE参戦が決定。これが修斗ファンの怒りを買い、自身のブログが炎上し、後に閉鎖に追い込まれた。
PRIDE武士道時代 [編集]
2006年8月26日、PRIDE武士道に初参戦、ジェイソン・ブラックを相手に三角絞めで一本勝ち。試合後、マイクを持つと「修斗第8代世界ミドル級王者の青木真也です。修斗もPRIDEも皆さんの応援がある限り、まだまだ頑張ります」とコメントした[3]。
2006年10月14日、修斗でジョージ・ソテロポロスと対戦し、金的攻撃による反則勝ちとなった。
2006年11月5日、PRIDE 武士道 -其の十三-でギルバート・メレンデスと対戦予定だったが、メレンデスが負傷欠場。代役のクレイ・フレンチと対戦し、跳び三角絞めで一本勝ち。試合後、リング上でマイクを握った青木は、リングサイドで腕をギプスで固定しながら観戦していたメレンデスに対して、大晦日に試合をすることを呼びかけ、メレンデスもこれに賛同したものの[4]、結局同年の大晦日は青木はハンセンと、メレンデスは川尻達也と対戦したため両者の対戦は実現しなかった。
2006年12月31日、PRIDE 男祭り 2006でヨアキム・ハンセンと対戦。レインボーカラーのスパッツ&マウスピースといういでたちで登場、開始早々にグラウンドに引きずり込みフットチョークで一本勝ち。強豪のハンセン相手に総合格闘技史上初のフットチョークによるタップアウト勝ちだったため、大きなインパクトを与えた。試合後、マイクを持つと「PRIDEも修斗も、総合格闘技最高です」とアピールした。
2007年2月17日、修斗・横浜大会で修斗世界ミドル級王座の初防衛戦で前王者・菊地昭と再戦し、三角絞めやオモプラッタを交えた絞め技(糸通し)、関節技でグラウンドを支配するも、菊池のパウンドで若干ポイントを取られ、2-1のスプリットデシジョンで王座防衛を果たした。
2007年3月には師である今成正和が所属するDEEP GYMに自らが指導するクラスを開始させた。
2007年4月8日、PRIDE.34でブライアン・ローアンユーと対戦。ローアンユーのパウンドや膝蹴りでダメージを負うも、冷静に下から腕ひしぎ十字固めを極め一本勝ち。
2007年6月17日、グラップリング大会『DEEP X』のメインイベントでペドロ・アキーラと対戦。開始38秒、チョークスリーパーで一本勝ち。
2007年12月31日、やれんのか! 大晦日! 2007でJ.Z.カルバンと対戦予定であったが、カルバンの負傷による欠場により、代わりに参戦となったチョン・ブギョンとメインイベントで対戦。腕ひしぎ十字固めを2度極めかけられるなど苦戦するも、パウンドで流れを引き寄せ3-0の判定勝ち。
DREAM設立後 [編集]
2008年3月15日、DREAM.1のライト級グランプリ1回戦でJ.Z.カルバンと対戦。1R序盤、カルバンがガブッた体勢から振り下ろした肘が青木の首に当たってしまう。反則行為である延髄への打撃と見なされ、ダメージの残る青木に3分間のインターバルが与えられるも回復せず、偶発的なアクシデントによりノーコンテストとなった。トーナメントの勝ち上がりは主催者預かりとなったが、4月4日の記者会見で没収試合に裁定変更のうえDREAM.2で再戦することが発表された。
2008年4月29日、DREAM.2でJ.Z.カルバンと再戦。1Rにカルバンのパウンドを被弾するもバックを奪い、2Rにも再三跳び関節を仕掛け、3-0の判定で勝利。昨年の大晦日から続いた因縁に決着をつけた。
2008年6月15日、DREAM.4の2回戦で永田克彦と対戦し、マウントからのフットチョークで一本勝ち。
2008年7月21日、DREAM.5のライト級グランプリ準決勝で宇野薫と対戦。終始ペースを握って次々と関節技を仕掛け、宇野の粘りに一本は奪えなかったものの3-0の判定勝ち。決勝ではリザーブから上がってきたヨアキム・ハンセンにパウンドでTKO負け。準優勝となった。
2008年9月23日、DREAM.6ではトッド・ムーアに一本勝ちを収めた。試合後マイクを持つと、「僕の前に試合をした秋山“マイケル・ジャクソン”成勲先輩!青木真也と大晦日にネバーランドでワオワオしませんか?」と秋山成勲に対戦を要求する。
2008年12月31日、Dynamite!! ~勇気のチカラ2008~でライト級グランプリ決勝で対戦するはずであったエディ・アルバレスと対戦し、踵固めを極め一本勝ち。試合後のマイクでは「UFCよく聞け、日本がトップだコノヤロー!」と絶叫した。この勝利により、初代WAMMA世界ライト級王者に認定された[5]。
2009年3月8日、ウェルター級GPへの参戦を見据えてライト級の体重から増量し、74kg契約でDREAM.7でデイビッド・ガードナーと対戦。ガードナーが「ハロージャパン」と発声したスキを突き[6]チョークスリーパーを極め一本勝ちを収めた。試合後のコメントでウェルター級GPへの参戦を表明した。
2009年4月5日、DREAM.8のウェルター級グランプリ1回戦で桜井"マッハ"速人と対戦し、開始直後にテイクダウンを奪ったもののバタフライ・スイープで体位の逆転を許し、開始27秒パウンドでKO負けを喫した。
2009年4月29日、「DEEP M-1 CHALLENGE 3rd EDITION in JAPAN」でエメリヤーエンコ・ヒョードルとサンボ衣着用・打撃ありのスーパーエキシビションファイトを行なった。お互いに見せ場を作った後、終了間際に青木がヒョードルのアキレス腱固めにタップアウト。
2009年7月20日、DREAM.10でビトー・シャオリン・ヒベイロと対戦。スパッツの上にキックパンツを履いて試合に臨み、スタンドでのミドルキックや膝蹴りで攻勢となり、判定勝ち。試合後のリング上で「いやー、ムエタイって面白いでしょ?」(友人である藤原あらしの発言のオマージュ)と発言すると、会場からブーイングが起こった。
2009年10月6日、DREAM.11のライト級タイトルマッチで3度目となったヨアキム・ハンセンと対戦し、2ラウンド残り4秒で一本勝ち。ライト級王座を獲得し、DREAM初の日本人王者となった。
2010年1月7日、Dynamite!!での試合後の不道徳行為について、パラエストラ東京から厳重注意が与えられ、パラエストラ東京の指導スタッフから解任されたことが発表された[10]。
人物 [編集]
寝技に対する拘りは強く、「今の総合格闘技界は打撃偏重だからこそ、俺は寝技に拘る!」と豪語しており、寝技について(暴力性を感じさせる)打撃によるKOが本人の意思とは関係なく起こるのと比べて、関節技や絞め技による一本勝ちは相手に自らの意思でタップさせることにより怪我のリスクを少なく、屈服させることが出来るので芸術的と語っている。しかし、Dynamite!! ~勇気のチカラ2009~の廣田瑞人戦においては、アームロックで右上腕を骨折させた[7]。自身の(総合格闘技における)寝技の技術は世界一でアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラよりも自分のほうが上である、という発言もしている。
五味隆典がPRIDE 男祭り 2004の試合後のマイクパフォーマンスで「大晦日にね、判定?駄目だよ、KOじゃなきゃ!」とコメントしたのをパロディとして、「判定?駄目だよ、一本じゃなきゃ!」を決め台詞としている。
自他共に認める格闘技おたくであり、近代柔道やレスリング、サンボのテクニック解説本を小学校3年生の時から収集しているなど研究熱心である。また、寝技だけでなく、打撃に対してもその研究熱心さは変わらず、マニアックなムエタイ戦士や日本では知名度の低い総合格闘家の名前や試合も数多く覚えており、インタビューなどでも度々その豊富な知識を披露している。
ロングスパッツの着用については「寝技の時に相手や自分の汗で滑りやすくなることがあるので、それを防ぐために着ている」と語っている。
入場時には胴衣を着て入場曲のバカサバイバーを歌いながら入場してくる。入場ゲートの途中まで歩いてきたところで後ろを振り返って、一旦戻るように歩いてセコンドの面々と短く言葉をかわした後、再びリングに向かって歩くのが恒例となっている。また、この時に今成正和の背中を軽く触るのは本人曰く「験担ぎ」とのこと。
最も尊敬する格闘家として木村政彦と桜庭和志を挙げている。木村については「“殺し”に関してはこれ(ニコニコ動画にアップロードされている木村の動画)見なきゃ男はチェストー!(駄目だよ、という意味と思われる)」と語っている。桜庭については「桜庭さんの中で誇りがあると思う。PRIDEで毎大会試合してましたよね?そこが格好いい!今でも。桜庭さんがPRIDEを背負っていた時の責任感が、DREAMの僕にも多少あると思うんですよ」と語っている。
雑誌で全日本キックボクシング連盟の石川直生と対談して以来、交流を深め、現在では一緒に打撃練習をする間柄である。
秋山成勲を激しく嫌っていると見受けられる発言を多くしている。事の発端は秋山がK-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!にて、青木が尊敬している桜庭和志を相手に、反則を犯した、いわゆる“ヌルヌル事件”である。また、DREAM参戦後の秋山の度重なる格下との対戦や尊大な言動に対して腹を立てており、DREAM.6では秋山が勝利した際にリング上で(戦極を主戦場とする)吉田秀彦への挑戦を表明した直後に、リング上で秋山に対して対戦要求を突きつけた。同大会の翌日の会見では同じ主戦場としているDREAMに対する秋山の姿勢を激しく非難[11]した。その後、マスコミを通じてDynamite!! ~勇気のチカラ2008~での秋山との対戦を熱望していたが、秋山が大会の欠場を表明したため、青木は自分の不戦勝だとし、秋山がまたお茶を濁すような試合をしにくるのなら来なくてもいいと発言した。と同時に、自らはエディ・アルバレスとの対戦に応じ「ライト級グランプリ幻の決勝戦」といわれた世界トップレベルの試合に臨んでみせた。
ニック・ディアス、ジェイク・シールズが青木との対戦を過去に要求している。UFC 104では、ジョー・スティーブンソンが敵団体にもかかわらず公的にDREAM青木との交流戦撃破を宣言した。
廣田 瑞人(ひろた みずと、男性、1981年5月5日 - )は、日本の総合格闘家。長崎県諫早市出身。フリーランス。現戦極ライト級王者、元CAGE FORCEライト級王者。
右上腕部にパグの刺青を彫っている(実家でパグを飼っていたことがある)。
2004年9月20日、第11回全日本アマチュア修斗選手権大会ウェルター級に参加し、優勝を果たした[1]。
2005年2月6日、プロ修斗デビュー。
2005年9月23日、修斗新人王決定トーナメント決勝で児山佳宏に判定勝ちし、ウェルター級新人王となった。
2007年2月17日、中蔵隆志と修斗環太平洋ウェルター級王座決定戦で対戦し、判定負け。
2007年12月1日、CAGE FORCE初参戦となるCAGE FORCE 05でシン・ドゥギと対戦し、開始16秒右フックでKO勝ち。
2008年4月5日、CAGE FORCE 06で鹿又智成とCAGE FORCEライト級王座決定戦で対戦し、パウンドでTKO勝ち。第2代CAGE FORCEライト級王者となった。
2008年8月24日、戦極初参戦となった戦極 ~第四陣~のライト級グランプリ1回戦でライアン・シュルツと対戦し、右フックでKO勝ち。
2008年11月1日、戦極 ~第六陣~のライト級グランプリ準決勝で横田一則と対戦し、判定負け。
2009年2月28日、CAGE FORCE EX -eastern bound-でパンクラスライト級王者井上克也を相手にCAGE FORCEライト級タイトルマッチを行い、三者三様の判定1-1でドロー防衛を果たした。
2009年5月10日、修斗で石田光洋と対戦し、パウンドでTKO勝ちを収めた。この試合は「戦極 vs. DREAM」として注目された。
2009年8月2日、戦極 ~第九陣~の戦極ライト級チャンピオンシップで王者北岡悟と対戦し、TKO勝ちで王座を獲得した。同年9月、戦極ライト級王座と並行しての防衛戦を行うことが難しいなどの理由によりCAGE FORCEライト級王座を返上した。