ウーサー( ´∀`)/~~ -32ページ目

ラストマッチ



魔娑斗vsアンディサワー







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魔裟斗(まさと、男性、1979年3月10日 - )は、日本の元キックボクサー。本名は小林 雅人(こばやし まさと)。千葉県柏市出身。身長174cm、体重70kg。シルバーウルフ所属。日本人初のK-1 WORLD MAX世界王者。妻は女優・タレントの矢沢心。2009年12月31日を以って現役を引退した。

リングネーム『魔裟斗』の名付け親は、同ジムの加藤重夫会長。最初に藤 山海山(ふじ さんかいざん)なる名前を提案されるも断り、2番目に提案された魔裟斗に落ち着いた。当の魔裟斗は「暴走族みたいで嫌でしたよ。」と各所で述べている。
K-1 WORLD MAX開始当初は、ライバルと目されていた小比類巻貴之のストイックぶりと比較され、「試合の1か月前にもかかわらず飲み歩いている」などと、煽りVTRなどで貶められることが多かった。しかし、「これだけ練習したのだから負けることはない」と公言するほど練習熱心であり、真の「ミスターストイック」は魔裟斗であると評価する関係者も多い[1]。その一方で、当の「ミスターストイック」の異名を持つ小比類巻を「六本木で飲んでいる時バッタリ出会った」事を『さんまのまんま』(関西テレビ)出演時に明かしている。また、2008年のK-1 WORLD MAX世界トーナメント優勝直後にはリング上で「15年間やってきて、一つのことを頑張るといいことがあるって思ったね。皆も色々とあるだろうけど、途中で投げずに続ければ、結果はどうであれ、充実できると思う。はっきり言って俺は99%の努力と1%の才能でここまで来たけど、“継続は力なり”じゃないけど、ずっと続けたことが、このチャンピオンベルトにつながったと思います」とコメントした。
K-1 WORLD MAX誕生前から、中量級を世間に広めるべく、派手な試合や世間を意識したパフォーマンスをしており、「俺のライバルはヘビー級のピーター・アーツやジェロム・レ・バンナ」と言ってヘビー級への対抗心を燃やしていた。魔裟斗はK-1ミドル級だけでなく、総合格闘技界を含めて、中量級を世間に広めた最大の功労者と評価する声は多い。
歯に衣着せない強気な発言が多く、ナイトクラブで両脇に美女を従えて悠々と酒を飲みながら自信に溢れた発言をするパフォーマンスしたこともあった。しかし、後年のインタビューでは「俺は格闘技関係のメディアの前では“魔裟斗”を演じてるんですよ。バラエティ番組とかに出演するときは“素の小林雅人”になってますね。ヘビー級に比べてマイナーだった中量級を世間に広めるために、ああいうパフォーマンスをしてきた」と語っている。
試合当日は、必ず母手作りのおはぎを食べる。
試合後は勝敗に関係無く温泉に入りに箱根へ行くという。
普段の体重は74kg前後だが、試合に向けて食生活などを変えながら、K-1ミドル級のリミットである70.0kg丁度になるように仕上げることを信条としている[2]。また、「殴られすぎてパンチドランカーになった人を何人も見てきた」ことから、自身の体調管理にはかなり気を使っている。「パンチドランカーになった姿を子供に見せたくない」旨を引退理由の一つに挙げている。
K-1が一日で3試合も戦う1DAYトーナメント制を採用していることについてK-1参戦前から批判しており、「トーナメントは運の要素が強すぎて最強は決まらないのは明らかだし、選手の命を危険に晒してるから選手もファンも皆が迷惑してる」とコメントしており、K-1の世界トーナメントで優勝した以降の現在もその考えに変わっていない。また、2007年の世界トーナメント終了後に、一度はトーナメントから撤退してワンマッチに専念することを示唆していた。
ラスベガスでビッグマッチを戦うことを夢として挙げており、2003年にK-1 WORLD MAX初優勝を果たした後には「K-1 WORLD MAXで3連覇したら、ラスベガスでボクシング史上初の4団体統一世界ミドル級王者バーナード・ホプキンスと戦って引退したい」と発言したり、2008年6月のSRSと格闘技通信での武蔵との対談では「今年のK-1 WORLD MAXで優勝して来年はラスベガスでボクシング史上唯一の6階級制覇王者オスカー・デ・ラ・ホーヤと戦いたい」と発言していた。
2007年頃からフジテレビ放送のK-1 WORLD GPシリーズに解説者としても出演している。
格闘技以外の活動としては、後述の通り数々のテレビドラマ・映画・CMなどに出演、フレグランスやシルバーアクセサリーのプロデュースも手掛けていた。2009年にはスイスの時計ブランドであるオーデマ・ピゲと、日本人で初めて契約し、オリジナルデザインの「ロイヤル オーク オフショア MASATOモデル」を発表した。
ファイトスタイル [編集]
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10代の頃にボクシングジムに通っていた魔裟斗は、元々はパンチを武器とする典型的なインファイターであった。しかし、近年では、左右両方のパンチのコンビネーション・キック・膝蹴りなどの打撃を放つスタイルへと変わった。ディフェンステクニックで相手が放つ大振りなパンチをかわし、カウンターを合わせる。最も得意とするブローは相手の右を左でブロックし、即左フックを返すというものである。また、ローキックをブロックした直後に左のインローを返す得意技も公開している。近年ではリードブローに磨きがかかり、飛び込みざまに放つ左ジャブが相手の顔面を捉える場面をよく見かけるようになった。相手のガードの隙間を縫うような右アッパーも得意技の一つ。

2003年にK-1 WORLD MAXチャンピオンになった翌年の2004年は、ディフェンスを最重要視し、ポイントアウトを狙うチャンピオンらしい戦い方を貫いた。本人は後にこれを反省しており、現在は観客に魅せるファイトスタイルをモットーとしている。ポイントで圧倒的にリードしている場面でも、積極的に打ち合いにいくプロフェッショナルな姿勢が評価を集める一方、実際に相手からパンチをもらう場面も多く見られ、ファンを冷やりとさせることも。K-1MAXの解説を勤めていた元WBAライト級世界チャンピオンの畑山隆則は、「打たれて危ないところを見せておきながら、最後には勝利するスリリングな試合が魔裟斗選手の魅力」と評した。

K-1 WORLD MAXにおいて主役級の扱いを受け、第一線で戦える唯一といっていいMAX日本人選手である魔裟斗は、海外の選手から研究され狙われる立場であり、2004年ごろから判定決着が極度に増えてきている。

元ボクシング日本王者(3階級制覇)の前田宏行は自らのブログで「昔は知らないが今の魔裟斗選手のパンチの技術は、蹴り無しでも3Rなら並みの日本チャンピオンクラスではやられる確率は高い」と魔裟斗のボクシングスキルを評価した[3]。

ヨネクラボクシングジムで10代の頃の魔裟斗を指導していたエディ・タウンゼント賞受賞トレーナーの松本清司は、当時の魔裟斗のボクシングスキルについて「最低でも日本チャンピオンにはなれる」と評価し、「ごく稀にサボることはあったけど基本的に練習熱心だったし、素質はあった。それだけにプロテストに来なかったのには驚いたけど、当時はK-1の人気が高まってきた頃だったし、魔裟斗と親しい人から“魔裟斗はキックボクシングをやるかボクシングを続けるかで迷ってる”という話も聞いていた」とNumberのインタビューでコメントしている。

来歴 [編集]
両親の都合で柏市から埼玉県新座市へ引っ越す。埼玉栄高等学校中退。中退理由は、友人数人と「勢い」で辞めたと『ジャンクSPORTS』(フジテレビ)に出演した際に述べている。

高校中退後は10種類余りの職を転々とした。中でも焼き鳥店に至っては、勤務初日に「昼ご飯を食べに行く」と言い残し、そのまま戻らず辞めたという[4]。

1994年、15歳でボクシングの名門ヨネクラボクシングジムに入門。その後、「喧嘩に使えそうだから」との理由で17歳で藤ジムに入門、キックボクシングに転向する。

1997年3月23日、プロデビュー戦を竹原太と対戦し、1RKO勝ち。

1997年5月30日、小比類巻貴之と対戦し、膝蹴りの連打により3RKO負け。初黒星を喫した。共にデビュー2戦目同士で3回戦の前座扱いであったが、メイン、セミの試合のキャンセルが相次ぎ、繰上げでその日の興行のメインイベントになってしまった。この繰上げメインの試合を、『格闘技通信』(ベースボール・マガジン社)は急遽見開き2ページ、オールカラーで掲載した。

2000年1月21日、全日本キックボクシング連盟主催『LEGEND-I』のダブルメインイベント(セミファイナル)でモハメッド・オワリ(ベルギー)と対戦予定であったが、魔裟斗が試合出場を拒否し「試合放棄」とされた。3月14日付けで藤ジムと全日本キックボクシング連盟に退会届を提出し、同連盟ウェルター級王座も返上、「シルバーウルフ」所属となった。その後暫くは、総合格闘技団体・パンクラスの東京道場や新日本キックボクシング協会の伊原道場を間借りして練習を行う。魔裟斗は「自分のジムもなくて、いつ試合ができるかも分からないこの時期が一番つらかった」と語っている。

2000年7月26日、初の自主興行『Wolf Revolution』を開催し、メインイベントでクレイトン・コリヤーに1RKO勝ち。

2000年11月1日、K-1 WORLD MAXの前身に当たる興行『K-1 J・MAX』で、ムラッド・サリ(フランス)とI.S.K.A.世界オリエンタルウェルター級タイトルマッチを行い、2Rに左フックでKO勝ち。王座奪取成功。試合後、リング上でマイクを握った魔裟斗は「これからは俺の時代です」と宣言した。この試合は大きなターニングポイントになったと後に語っている。

2000年12月5日、タイで行われた『タイ国王生誕記念大会』でスリヤー・ソー・プルンチットと対戦し、判定負け。小比類巻貴之戦以来、3年6か月ぶりの敗戦となった。

2001年1月12日、Wolf Revolution ~Second Wave~にて1年前に対戦予定だったモハメッド・オワリを一方的に打ちのめして3RTKO勝ち。試合後、「俺が逃げたわけじゃないってことが証明できた」とコメントした。

2001年3月30日、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟主催『ODYSSEY-1』で伊藤隆の引退試合(エキシビションマッチ)の相手を務めた。

2002年2月11日、K-1 WORLD MAX 日本代表決定トーナメントに出場。1回戦、準決勝共にKO勝ちで決勝に進出し、小比類巻貴之と対戦。的確にパンチをヒットさせ判定勝ち。

2002年5月11日、K-1 WORLD MAX 2002 世界一決定戦の準決勝でアルバート・クラウス(オランダ)と対戦。2Rにクラウスの右ストレートでダウンを奪われ判定負け。試合後の控室に向かう途中、嗚咽を漏らし号泣した。

2002年10月11日、K-1 WORLD MAX 2002 世界王者対抗戦でアルバート・クラウスと対戦。雪辱を誓ったものの、互いに決め手を欠き引き分け。

2003年3月1日、K-1 WORLD MAX 2003 日本代表決定トーナメントに出場。3試合とも判定勝ちながら危なげない試合運びでトーナメント2連覇。

2003年7月5日、K-1 WORLD MAX 2003 世界一決定トーナメントの1回戦でマイク・ザンビディス(ギリシャ)と対戦。1R、わずかな隙を見せたザンビディスに跳び膝蹴りを見舞いダウンを奪うも、その後ザンビディスの反撃によりポイントを奪い返され、2-1の判定で辛勝。決勝戦で前年度王者アルバート・クラウスを2R、左フックでKOし、優勝を果たした。

2003年12月15日、『WOLF REVOLUTION meets LUZ』で宇野薫とエキシビションマッチを行った。1Rはキックボクシングルールであったが、2Rは総合格闘技ルールとなり、オープンフィンガーグローブでの戦いを披露した。

2004年7月7日、K-1 WORLD MAX 2004 世界一決定トーナメントでジャダンバ・ナラントンガラグ(モンゴル)、アルバート・クラウスをそれぞれ判定で下し、決勝戦でブアカーオ・ポー.プラムック(タイ)と対戦。連戦によるダメージが蓄積し、なおかつ片目が塞がった状態での戦いを強いられた。ブアカーオの攻撃に成す術もなく3Rにはフラフラの状態で戦っていたのにもかかわらず、3R終了時点判定1-0で延長R突入となり、延長Rで判定負け、準優勝となった。この判定は問題となり、大会終了後の7月9日に「3R終了時点の判定はミスジャッジングであり、不適格かつ不可解」であったとして、角田信朗を始めとした審判員の処分を発表した。また、3R終了時点でブアカーオが3-0の判定勝ちであったことを正式に認証することになったが、公式記録上の変更は行わなかった。

2004年12月31日、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で山本"KID"徳郁とK-1ルールで対戦。1R、山本にダウンを奪われた直後、ローキックが山本の金的を直撃し試合が中断する。山本自身「手足が震えた」というほどの致命的なダメージであった。この時、リプレイ映像を見た解説の船木誠勝が魔裟斗の視線が下に行っているのを指摘、故意であることを匂わせる発言をしている。そして5分の休憩の後、精彩を欠いた山本から2Rにダウンを奪い返し、判定勝ちを収めた。

2005年7月20日、K-1 WORLD MAX 2005 世界一決定トーナメント決勝戦の準々決勝でマイク・ザンビディスと対戦。ダウンを奪い判定勝ちしたが、自身の蹴りで左足腓骨を骨折し準決勝を棄権。

2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!で復帰。大東旭に2RTKO勝ち。

2006年6月30日、K-1 WORLD MAX 2006 世界一決定トーナメント決勝戦の準々決勝で小比類巻貴之と通算3度目の対戦。3Rにボディブローを効かせ、直後の左ストレートでダウンを奪い判定勝ち。準決勝でアンディ・サワー(オランダ)に3R終了間際にダウンを喫し判定で敗れ3位に終わる。

2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!において対戦予定だった元WBA世界スーパーウェルター級王者・チェ・ヨンス(韓国)が練習中に負傷したことにより、対戦相手がボクシング元日本ミドル級王者・鈴木悟に変更。結果は2RKO勝ち。

2007年2月11日、女優・タレントの矢沢心と6年間の交際、5年間の同棲を経て入籍[5]。翌2008年4月20日、都内のホテルで結婚披露宴を行った[6]。

2007年10月3日、K-1 WORLD MAX 2007 世界一決定トーナメント決勝戦では、自ら指名した前年度王者ブアカーオ・ポー.プラムックと準々決勝で対戦。1Rに右ストレートでダウンを奪い、判定勝ち。準決勝ではアルトゥール・キシェンコ(ウクライナ)に2Rにカウンターの左フックでKO勝ち。決勝ではアンディ・サワーと対戦したが、2試合を戦ったダメージの蓄積に加え、サワーの猛攻で足が限界に達し、2R終了時に立ち上がることが出来ず、セコンドがタオルを投入しTKO負け。準優勝に終わった。

2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!でチェ・ヨンスと対戦。3年続けて元ボクシング選手との対戦となった。1Rにダッキングに合わせたハイキックでダウンを奪うと、その後もパンチやローキックで攻め立てて3Rタオル投入によるTKO勝ち。

2008年10月1日、K-1 WORLD MAX 2008 FINALのトーナメント準決勝で、かねてから魔裟斗との対戦を熱望していた佐藤嘉洋と対戦。3Rに左フックでダウンを奪われる。当時は「優勢選手に必ず10ポイントを付ける」というルールがあったにもかかわらず、レフェリーの角田信朗がジャッジの採点を不正に改竄し[7]、ダウンを奪った佐藤に9ポイントしか付かなかったため[8]、試合は延長Rに縺れ込む。その後延長Rで形勢逆転し、判定勝ち。続くアルトゥール・キシェンコとの決勝戦でも同様の判定が起こり、2Rに右フックでダウンを喫するも3R巻き返し、終了時の判定は「ドロー」となり、延長Rに判定勝ち。2度目のK-1 WORLD MAX世界王者となった。

2009年3月22日、東京マラソン2009に出場し、3時間51分41秒で完走した[9]。

2009年4月1日、記者会見を開き、2009年末を以って引退する旨を表明。「大晦日のDynamite!!で今年のトーナメント優勝者と戦いたい」「アンディ・サワーとは2度戦ってまだ勝っていないから、是非ともサワーに優勝してもらって挑戦したい。最後に俺がサワーに勝って終わるのは俺の運命」と発言した。

2009年4月21日、引退発表後の「初戦」として出場したK-1 WORLD MAX 2009 FINAL16で、「魔裟斗の後継者」と目されるHIROYAとエキシビションマッチを行った。

2009年7月13日、K-1 WORLD MAXでのラストマッチとなったK-1 WORLD MAX 2009 FINAL8にて、ファン投票で推薦された総合格闘家・川尻達也と対戦。試合決定直後から、川尻の打撃トレーナーである山田武士も加わり激しい舌戦を繰り広げた。1Rに右ストレートでダウンを奪い、2Rにパンチのラッシュで追い込んだところで川尻陣営からタオルが投入されTKO勝ちを収めた。

2009年10月26日、K-1 WORLD MAX 2009 FINALにてジョルジオ・ペトロシアンが圧倒的な強さで優勝。その直後に魔裟斗はリング上でペトロシアンに対して「大晦日空いてるかな?」「大晦日、日本で待ってるよ。」と挑戦を表明した。しかし、その翌日、ペトロシアンが準決勝の時点で既に右手の指を骨折していたことが発覚したため、対戦の正式決定には至らなかった。

2009年11月7日、「SILVERWOLF presents FINAL REVOLUTION ~大宮司進 FINAL~」で行われた「大宮司進引退エキシビションマッチ」(K-1ルール・3分2R)で大宮司進と対戦した[10]。

2009年11月12日、世界王者ジョルジオ・ペトロシアンの右手の指の骨折が完治しないため、準優勝者でありそして魔裟斗が1度も勝利を収めたことのないアンディ・サワーとの大晦日での引退試合が決定した。これについて、魔裟斗は「サワーとの試合はやり残し。過去2度の対戦は、既にダメージが溜まっているトーナメントの準決勝と決勝だったけど、お互いが無傷で公平なワンマッチなら俺の方が強い」と意気込んでいる。決戦は大晦日Dynamite!! ~勇気のチカラ2009~にてK-1特別ルール(3分5ラウンド延長1ラウンド、サワーが希望するシュートボクシングのロングスパッツ着用可)で行われる。


獲得タイトル [編集]
全日本キックボクシング連盟ウェルター級王座(0度防衛)
I.S.K.A.世界オリエンタルウェルター級王座(0度防衛)
K-1 WORLD MAX 2002 日本代表決定トーナメント 優勝
K-1 WORLD MAX 2003 日本代表決定トーナメント 優勝
K-1 WORLD MAX 2003 世界一決定トーナメント 優勝
K-1 WORLD MAX 2004 世界一決定トーナメント 準優勝
K-1 WORLD MAX 2007 世界一決定トーナメント 準優勝
K-1 WORLD MAX 2008 世界一決定トーナメント 優勝
出演作品 [編集]
テレビ [編集]
とんねるずのみなさんのおかげでした』(2001年12月27日、フジテレビ) - 「ねるとん紅鯨団」に出演し、来栖あつことのカップルが成立した。
はるちゃん6(2002年、東海テレビ) - 牧周作役
ドラマ特別企画『生きたい~家族の命リレー・生体肝移植~』(2005年1月22日、朝日放送制作・テレビ朝日系列) - 大久保啓太役
陽炎の辻~居眠り磐音 江戸双紙~ 第3シリーズ(2009年、NHK) - 雑賀衆:辰見喰助役
月曜ゴールデン『緑川警部vs86人の容疑者』(2009年6月22日、毎日放送制作・TBS系列) - 坪井今日介役
JNN50周年記念 歴史大河スペクタクル 唐招提寺1200年の謎 天平を駆けぬけた男と女たち(2009年11月3日、TBS系列) - 道鏡役
映画 [編集]
DEAD OR ALIVE 2 逃亡者(2000年、大映・東映ビデオ製作) - HOO役
武勇伝(2003年、アートポート) - 矢島龍平役(主演)
IZO(2004年、IZOパートナーズ) - 浪人役
忍者 原題:終極忍者(2004年、アートポート)
軍鶏 -Shamo-(2008年、アートポート) - 菅原直人役
CM [編集]
ケンタッキーフライドチキン 特盛セット
MEN'S TBC 男がエステ・あの人も編(2004年)
FIELDS パチスロ「鬼武者3」
DUBジュエリー
サイバーエージェントFX(2008年)
ノバルティスファーマ ボルタレンAC(2009年)
脚注 [編集]
^ 2009年3月8日放送『ソロモン流』
^ 『ダウンタウンDX』より
^ 前田宏行公式ブログ:ボクシングとk-1の続き 2008年3月27日
^ 『ズバリ言うわよ!』より
^ 魔裟斗さん:5年間同居の女優、矢沢心さんと結婚 毎日jp(毎日新聞) 2007年2月13日
^ 魔裟斗&矢沢心が結婚披露宴「まだ他人事見たい」 スポーツナビ 2008年4月20日
^ 【Sports Watch】魔裟斗戦の不可解判定、今になって突然の釈明 Sports Watch 2009年10月10日
^ 魔裟斗vs佐藤嘉洋のジャッジについて角田信朗氏が説明 kamipro.com 2008年10月2日
^ 魔裟斗がマラソン完走「今年はやりたいことがある」 K-1 公式サイト 2009年3月22日
^ 大宮司、引退エキシビションの相手は盟友・魔裟斗 BoutReview 2009年11月9日











アンディ・サワー(Andy Souwer、男性、1982年11月9日 - )は、オランダのキックボクサー、シュートボクサー。身長178cm、体重70kg[1]。元リンホージム所属。現在、シュートボクシングシーザージム・オランダ/TEAMサワーに所属。

元来、スーパーウェルター級を主戦場にしており、6つの世界タイトルを保持している(WKA、ISKA、WMTA、WPKA、FIMC、WSBA)。柔道や空手も学んでいた。100戦を超えるキャリア(試合)を積んでおり、アルバート・クラウスとは元同門。

2000年頃からシュートボクシングに参戦し、次第にキックボクサーではなくシュートボクサーとしてロングスパッツを履いて試合に臨むようになった。K-1 WORLD MAXには2003年の初参戦時から、シュートボクシング代表としてロングスパッツを履き試合に臨んでいた(2008年10月1日のK-1 WORLD MAX 2008 FINALよりロングスパッツの着用が禁止されたため、K-1ではトランクスを着用するようになった)。

自らも認めるスロースターターであるが[2]、シュートボクシング仕込みの回転力のあるパンチ、的確かつ強力なローキックを得意とする。2006年始め頃に右のカウンターを使い始め、2007年からはクロスカウンターをも使いこなすようになった。

2002年5月11日に行われたK-1 WORLD MAX 2002のトーナメントに出場予定であったが、怪我により欠場。代理出場となったリンホージムの弟弟子(当時)アルバート・クラウスが優勝を果たした。

2002年7月7日、シュートボクシング「S-cup 2002」で初来日。1回戦ではマヌエル・フォンセカにKO勝ち、準決勝では土井広之にKO勝ち、決勝では鄭裕蒿に判定勝ち。19歳にして優勝を果たした。

2003年7月5日、K-1 WORLD MAX 2003に初出場。トーナメント1回戦でアルバート・クラウスと対戦。左目付近をカットし1R終了時点で棄権、TKO負けとなった。試合後、「クラウスの肘による攻撃でカットした。きれいな試合ではなかった」とコメントした。

2004年9月19日、S-cup 2004に出場。1回戦、準決勝を勝ち抜くと、決勝では宍戸大樹にTKO勝ちし、S-cup連覇を果たした。

2005年5月4日、K-1 WORLD MAX 2005のトーナメント1回戦でマルフィオ"ザ・ウォーリヤータイガー"カノレッティに判定勝ち。7月20日の準々決勝では小比類巻貴之に判定勝ち、準決勝では安廣一哉にTKO勝ち、決勝では前年の優勝者ブアカーオ・ポー.プラムックに延長判定勝ちし、初優勝を果たした。

2006年4月5日、K-1 WORLD MAX 2006のトーナメント1回戦でアマラ忍に判定勝ち。6月30日の準々決勝ではヴァージル・カラコダに1Rにダウンをもらうも逆転KO勝ち、準決勝では魔裟斗に判定勝ち、決勝は前年と同じ組み合わせとなりブアカーオ・ポー.プラムックと対決。2Rまで互角に試合を進めるも、組み際でブレイクと勘違いした所に左フックを被弾しダウン。その後パンチを纏められて3ダウンし、準優勝となった。

2006年7月8日、オランダで結婚式を挙げた。

2006年11月3日、S-cup 2006に出場。1回戦、準決勝を判定で勝ち抜いたが、決勝で緒形健一に判定負けし、3連覇を阻まれた。

2007年6月28日、K-1 WORLD MAX 2007のトーナメント1回戦でオーレ・ローセンに右クロスカウンターでKO勝ち。10月3日の準々決勝ではドラゴに再び右クロスカウンターでKO勝ち、準決勝ではアルバート・クラウスに判定勝ち、決勝は魔裟斗のタオル投入によるTKO勝ち、2度目の優勝を果たした。

2007年10月28日、SHOOT BOXING BATTLE SUMMIT GROUND ZERO TOKYO 2007でアンディ・オロゴンと対戦。1Rに右ストレートでダウンを奪われるも、2Rにダウンを奪い返すなどして、判定勝ち。

2007年11月24日、オランダでのシュートボクシング興行を自らプロデュース。ニキー・ホルツケンと対戦し、判定勝ち。

2008年3月2日、オランダでヨードセングライ・フェアテックスと対戦し、判定勝ち。

2008年4月9日、K-1 WORLD MAX 2008 FINAL16のトーナメント1回戦でマイク・ザンビディスと対戦。延長Rまで縺れる接戦になるも、最後は左ハイキックでKO勝ち。7月7日、K-1 WORLD MAX 2008 FINAL8のトーナメント準々決勝でウォーレン・スティーブルマンズと対戦し、判定勝ち。

2008年10月1日、K-1 WORLD MAX 2008 FINALのトーナメント準決勝でアルトゥール・キシェンコと対戦し、延長R判定負け。今大会よりロングスパッツの着用が禁止されたため、トランクスで登場した。

2008年11月22日、S-cup 2008に出場。1回戦ではエドウィン・キバスにTKO勝ち、準決勝では宍戸大樹に判定勝ち、決勝では緒形健一にTKO勝ち。3度目の優勝を果たした。

2009年3月14日、イタリアで開催されたOktagonでジョルジオ・ペトロシアンと対戦。3Rまでは互角の戦いを繰り広げるも、延長Rにスリップ気味のダウンを奪われ判定負けを喫した。

2009年4月21日、K-1 WORLD MAX 2009 FINAL16のトーナメント1回戦でリーロイ・ケスナーと対戦。1Rに2度、3Rに1度のダウンを奪い、大差の判定勝ちを収めた。

2009年7月13日、K-1 WORLD MAX 2009 FINAL8のトーナメント準々決勝でアルトゥール・キシェンコと再戦し、延長R判定勝ちを収めた。

2009年10月26日、K-1 WORLD MAX 2009 FINALに出場。準決勝でブアカーオ・ポー.プラムックに延長Rを2-1で判定勝ちするも、決勝でジョルジオ・ペトロシアンに2Rに左膝蹴りでダウンを奪われ、判定負けを喫し、準優勝となった。

2009年11月12日、大晦日に引退を表明している魔裟斗との試合が、谷川貞治K-1イベントプロデューサーより、発表された。当初、魔裟斗は「今年のチャンピオンの引退試合をしたい」と語っており、世界王者のジョルジオ・ペトロシアンに魔裟斗は「大晦日空いてるかな?」「大晦日、日本で待ってるよ。」と挑戦を表明していたが、そのペトロシアンが今年の10月の山本優弥戦で、右手の指を骨折していることが解かり、準優勝、そして魔裟斗が1度も勝利を収めたことのない、サワーとの引退試合が決定した。これについて、魔裟斗は「サワーとの試合はやり残し。」と意気込んでいる。決戦は大晦日Dynamite!! ~勇気のチカラ2009~にて行われる。

私生活 [編集]
結婚式の日に花嫁を白馬に乗って迎えにいくというロマンチックな一面もある。