見逃した人へ 藤田和之vsアリスターオーフレイム
豪腕対決
この試合凄い
藤田和之vsアリスターオーフレイム
藤田 和之(ふじた かずゆき、男性、1970年10月16日 - )は、日本のプロレスラー、総合格闘家。千葉県船橋市出身。八千代松陰高校、日本大学文理学部卒業。
プロレスラーアントニオ猪木を師匠とし、「猪木最後の闘魂継承者」と呼ばれる。猪木のテーマ曲だった「炎のファイター」のオーケストラ・ヴァージョンをテーマ曲にしている。
レスリングの選手を経て、プロレスデビューをし、総合格闘技選手としての活動も同時並行して行う。レスリング技術も然ることながら、圧倒的なパワーから繰り出される打撃は非常に強力で、外国人のトップ級ヘビー級選手であっても容易にマットに沈めるほどの威力を持つ。さらにテイクダウンからの打撃、袈裟固め、肩固めなどの技を得意とする。
数々の強豪外国人と対戦した実績から、日本人ヘビー級の最有力選手と見なされていたが、本来全盛期となるべき時期に、怪我や猪木事務所の方針もあり、総合において満足な試合数を重ねることが出来なかった。
来歴 [編集]
日本大学在学中に1989年より、レスリングで全日本学生選手権4連覇を果たした。1993年に大学を卒業してからは新日本プロレス職員としてアトランタオリンピック予選に挑戦したが敗退し、全日本選手権2度優勝の実績を残してレスリングは引退。
1996年に新日本プロレス所属のプロレスラーになり、11月1日に永田裕志戦でデビュー。
2000年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会でキモと対戦。膝蹴りが急所に入ってしまい、4分2秒反則負けとなった。この試合を最後に新日本プロレスを退団。
一時はリングスへの参戦に傾いていたが、アントニオ猪木が経営する猪木事務所所属となり、2000年1月30日の『PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦』でハンス・ナイマンに一本勝ち、総合格闘技のデビューを飾る。
2000年5月1日、『PRIDE GRANDPRIX 2000 決勝戦』の準々決勝で当時「霊長類最強の男」と謳われたマーク・ケアーに判定勝ち。桜庭和志がホイス・グレイシーを90分の死闘の末破った直後の試合だったが、それ以上の大番狂わせといわれた。しかし準決勝のマーク・コールマン戦ではケアー戦での左膝靭帯の損傷により開始直後にタオルが投入され、TKO負けとなった。
2001年4月9日、新日本プロレスのリングでスコット・ノートンを降し、第29代IWGP世界ヘビー級王者となった。6月6日に永田裕志、7月20日にドン・フライと防衛成功。
2001年8月19日、『K-1 ANDY MEMORIAL 2001』でミルコ・クロコップとMMAルールで対戦。3度目のタックルにカウンターの左膝蹴りを合わせられ、左眉横から大出血。ドクターストップ負けとなった。
人気選手となった2001年には、サントリーの缶コーヒーBOSSコーヒーのテレビCMにアントニオ猪木と共に出演したり、アニメ映画『デ・ジ・キャラット』に声優として出演するなど多彩な活動をした。
2001年12月、練習中に右アキレス腱を断裂。大晦日の『INOKI BOM-BA-YE 2001』出場および2002年1月4日に予定されていた永田裕志とのIWGP世界ヘビー級選手権試合はキャンセルされ、1月4日のリング上で挨拶を行い、IWGP王座返上が発表された。
2002年7月20日、9か月ぶりに新日本プロレス札幌大会における垣原賢人戦で復帰し、スリーパーホールドで一本勝ち。
2002年8月8日、『UFO LEGEND』で安田忠夫と対戦し、肩固めで一本勝ち。
2002年12月31日、『INOKI BOM-BA-YE 2002』でミルコ・クロコップとのリベンジマッチに挑むも、判定負け。
2003年6月8日、『PRIDE.26』でPRIDEヘビー級王者エメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦。右フックでヒョードルをぐらつかせる場面もあったが、最後はスリーパーホールドでタップアウト負け。
2003年12月31日、『INOKI BOM-BA-YE 2003』で元IBF世界クルーザー級王者イマム・メイフィールドと寝技20秒限定ルールで対戦し、スタンド式肩固めで一本勝ち。当初はWBO世界ヘビー級王者レイ・マーサーと対戦予定であったが出場キャンセルとなり、当日になって対戦相手変更が発表された。
2004年5月22日、『K-1 ROMANEX』におけるボブ・サップとの「野獣対決」にパウンドでタップアウト勝ち。『リアルビースト』と呼ばれるようになる。
2004年6月5日、大阪府立体育会館において棚橋弘至とIWGPヘビー級王座決定戦を行う(ボブ・サップの王座返上による)。この試合で、棚橋をサッカーボールキックからのKO勝ちに追い込んだ。ただし、前年のアルティメット・クラッシュでは棚橋にタッグながらピンフォール負けを喫している。
2004年12月31日、『K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!』でアテネオリンピックレスリング金メダリストカラム・イブラヒムと対戦。パウンドでTKO勝ち。
2005年4月、永田裕志、中西学、ケンドー・カシンとレスリング軍団「チーム・ジャパン(TJ軍)」を結成。
2006年2月1日をもって猪木事務所から独立し、株式会社藤田事務所所属となった。
2006年5月5日、PRIDE無差別級グランプリ1回戦でジェームス・トンプソンと対戦、右フックでKO勝ち。
2006年7月1日、PRIDE無差別級グランプリ準々決勝でヴァンダレイ・シウバと対戦。右フックで倒され、サッカーボールキックの連打でタオルが投入され、TKO負け。シウバはヒョードル欠場による代役であった。
2007年4月8日、『PRIDE.34』でUFC対PRIDE対抗戦としてジェフ・モンソンと対戦し、スリーパーホールドで一本負け。
2007年12月12日、PRIDE(PRIDE FC WORLDWIDE)との契約を解除したことを発表[1]。12月31日の「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」への出場オファーはあったものの出場は実現しなかったが、Dynamite!!の前日記者会見でピーター・グラハムが「藤田が試合をキャンセルした。腰抜け野郎」と挑発を行った[2]。
2008年3月5日、戦極旗揚げ戦戦極 ~第一陣~でピーター・グラハムと対戦し、ノースサウスチョーク(公式裁定はスピニングチョーク)で一本勝ち。前日記者会見ではグラハムの挑発に乗り、「こんな胸くそ悪い奴は初めて。このトサカ野郎」と発言し、乱闘寸前の騒ぎを起こしたが[3]、試合後は両者共にお互いを称えあった。
プロレスでの活動・評価 [編集]
小川直也のプロレス転向に伴うトレーニングパートナーとして帯同した際、佐山聡に「化け物」と評されたものの、総合格闘技を行うまでの新日本プロレスでの藤田の扱いは前座レスラーだった(1999年1月4日東京ドーム大会でも、藤田は第1試合で中西学と対戦)。しかし、PRIDEでの活躍を経た後は扱いが一変し、2001年4月9日に新日本プロレスの第29代のIWGPヘビー級王座を獲得(ただしこの試合では、藤田のスリーパーで落ちているはずのノートンが、レフェリーのゴング要請後、いつまでも腕を放そうとしない藤田の膝を右手で優しく揉みしだくシーンをテレビ中継で放映され、「ノートンのモミモミ事件」として話題となる)し、トップレスラーに登りつめる。IWGPのベルトはその後も2004年6月5日に棚橋弘至、2005年7月18日に天山広吉を下しIWGPヘビー級王座を計3度獲得した。しかし、リングに上がるのはビッグマッチ中心でほとんど巡業には参加しないことに蝶野正洋などが苦言を呈することもある。
また、対戦相手に勝つことだけを重視した、プロレスというよりは総合格闘技的なファイトスタイルや、プロレスに対してのモチベーションの低さを感じさせる態度はファンも感情移入しづらいため、藤田を否定するプロレスファンも多いことは事実である。意外ではあるが、フランケンシュタイナーを得意技としており、腕ひしぎ十字固めへの連携技も開発している(後に武藤敬司に模倣された)。
2006年1月4日の、新日本プロレス東京ドーム大会のメインイベントでIWGPヘビー級タイトルへの挑戦が決定していたが、直前の12月になり何の説明もないまま「試合には出られない」としてドーム大会への参加をキャンセルし、ファンや関係者から非難を浴びた。しかし、直後に藤田と公私ともに親しい関係にある元ゴング編集長の金澤克彦が雑誌や携帯サイトのコラム等で、「藤田は、新日本と猪木事務所の軋轢(あつれき)に巻き込まれた被害者であり、彼には何一つ非はない」と擁護している。
なお余談ではあるが、そのファイトスタイルやキャラクターとは裏腹にかなりの学生プロレスマニアで、新日本プロレスに棚橋弘至が入門してきたときに「おい、ハメヒロシ(棚橋の学プロ初期のリングネーム)」と声をかけたことがある。
主な戦績 [編集]
プロレス [編集]
2001年4月9日、スコット・ノートンを破り、第29代IWGPヘビー級王座を獲得(永田裕志、ドン・フライ相手に防衛後、返上)。
2003年5月2日、新日本プロレス「ULTIMATE CRUSH」にて中西学にTKO勝ち。
2004年6月5日、棚橋弘至を破り、第38代IWGPヘビー級王座を獲得(柴田勝頼相手に防衛)。
2004年10月9日、佐々木健介に破れ、王座から陥落。
2005年7月18日、天山広吉を破り、第43代IWGPヘビー級王座を獲得。
2005年10月8日、ブロック・レスナー、蝶野正洋との3WAYマッチに破れ、王座から陥落。
2005年、G1 CLIMAXに出場したが決勝で蝶野正洋に破れ、準優勝。
アリスター・オーフレイム(Alistair Overeem、男性、1980年5月17日 - )は、オランダ出身の総合格闘家。ゴールデン・グローリー所属。現Strikeforce世界ヘビー級王者。オランダ語発音で「アリステア・オーフェレーム」。
日本でのニックネームは「ダッチ・サイクロン」であり、PRIDE時代に笹原圭一が考案した[1]。日本国外では「デモリションマン」(「破壊者」の意)と呼ばれる。総合格闘家ヴァレンタイン・オーフレイムは実兄。
破壊力とスピードを兼ね備えたストライカー。以前はすぐにスタミナ切れを起こし、試合開始直後の数分間は攻撃的であるが、それを過ぎると途端に動きが悪くなることがあったがウェイトアップした現在では大幅に改善されてきている。また勝敗にかかわらず一本・KO決着が多く、長い手足を生かしたパンチと膝蹴りで多くのKOを奪い、得意の打撃を活かしてK-1ルールでも大活躍している。サブミッションの技術にも長けており、特に体格を活かしたフロントチョークを得意技とする。2005年1月にはアブダビコンバット欧州予選では全試合ギロチンチョークで一本勝ちし、優勝した[2](2005年5月の世界大会はPRIDE専念を理由に欠場した[3])。
来歴 [編集]
総合格闘技 [編集]
1999年10月28日、リングスKOKトーナメントで初来日。コーチキン・ユーリに判定負け。
2002年12月23日、PRIDE初参戦となったPRIDE.24でヴォルク・アターエフと対戦し、膝蹴りでKO勝ち。
2003年8月10日、PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦のミドル級GP1回戦でチャック・リデルと対戦し、序盤は圧倒していたが、スタミナ切れで逆転KO負け。
2005年にPRIDEミドル級グランプリに参戦。1回戦でビクトー・ベウフォートを、2回戦でイゴール・ボブチャンチンをいずれもフロントチョークで破るが、準決勝ではマウリシオ・ショーグンにパウンドでKOされてしまい決勝進出は逃してしまった。
2006年2月26日、PRIDE.31でセルゲイ・ハリトーノフと対戦し、試合開始直後にテイクダウンを奪取。ここでハリトーノフは受身を取り損ねて肩を脱臼。最後はグラウンドでの膝蹴りの連打でTKO勝利。
しかし、その後のPRIDEではファブリシオ・ヴェウドゥム、アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラ、ヒカルド・アローナ、マウリシオ・ショーグンとブラジル人総合格闘家相手に4連敗。
2007年6月23日、It's Showtime(K-1 WORLD GP 2007 IN AMSTERDAMと同時開催)でマイケル・ナープに変形ギロチンチョークで一本勝ち。
2007年9月17日、HERO'Sに初参戦。かつてPRIDEのリングで勝利したセルゲイ・ハリトーノフと再戦したが、TKO負け。
2007年11月16日、Strikeforceに参戦。ポール・ブエンテロに2R膝蹴りを腹に浴びせTKO勝利し、初代Strikeforce世界ヘビー級王座に就く。
2008年6月15日、DREAM初参戦となるDREAM.4でイ・テヒョンと対戦し、開始36秒左膝蹴りでKO勝ち。試合後のリング上でミルコ・クロコップとの対戦を要求した。
2008年7月21日、DREAM.5でマーク・ハントと対戦し、開始1分11秒V1アームロックで一本勝ち。試合後のリング上で再度クロコップとの対戦を要求した。
2008年9月23日、DREAM.6でミルコ・クロコップと対戦。試合開始早々からアリスターが優勢だったが、1R6分9秒にアリスターの偶発的なローブローによりミルコが試合続行不可能となりノーコンテストとなった。
2009年10月25日、DREAM初のケージ開催となったDREAM.12のメインイベントでジェームス・トンプソンと対戦し、開始33秒フロントチョークで一本勝ち。試合後には「2010年4月にエメリヤーエンコ・ヒョードル選手と対戦したい」とコメントした[4]。
キックボクシング [編集]
2001年2月4日、K-1オランダ大会でエロル・パリスにKO負け。
2004年5月30日、ICHIGEKIにて、一撃キックルールでグラウベ・フェイトーザと対戦し、右アッパーで1RKO負け。
2008年12月31日、Dynamite!! ~勇気のチカラ2008~でバダ・ハリとK-1ルールで対戦し、左フックでKO勝ちを収めた。
2009年3月28日、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAのスーパーファイトにて昨年の王者レミー・ボンヤスキーとK-1ルールで対戦。1R、2Rとプレッシャーをかけペースを握るも、3Rにダウンを奪われ判定負け。
2009年9月26日、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16に推薦枠にて出場。ピーター・アーツと対戦し終始圧倒して判定勝ち。
2009年12月5日、K-1 WORLD GP 2009 FINALの準々決勝でエヴェルトン・テイシェイラに左膝蹴りで1RKO勝ち。続く準決勝では昨年の大晦日に対戦したバダ・ハリと再戦。1Rに2度のダウンを奪われKO負け。大会後、谷川貞治イベントプロデューサーはテイシェイラ戦で掴んでから膝蹴りを2回繰り出しKOしたことについて「反則ギリギリだと思います。掴んだまま二回の攻撃はダメなんで、微妙です。」とコメントした[5]。その一方、角田信朗は自身のブログで「二発の膝の間に間違いなく首相撲状態は一瞬解除されてるんであれは反則ではありません」と見解を載せている[6]。
人物 [編集]
身の丈ほどもある巨大な「木製のハンマー」を会見や試合の入場時に持参することも有名である。本人はハンマーについて「デモリッションマンとして何でも破壊する自分のキャラクターのイメージ」だと語っている[7]。
DREAM.6でのミルコ戦の直後にリングに上がったバダ・ハリが「今日は抱き合ったりキスしたりするのしか見ていない。」と総合格闘技そのものを否定するような発言をし、更には観客に「本物の闘いが見たければK-1に来い」と発言したことについてアリスターは「俺はMMAファイターだが、K-1をリスペクトしているのに、なぜ奴にはMMAをリスペクトする気持ちが無いんだ!」と激怒した。その3か月後のDynamite!! ~勇気のチカラ2008~にてK-1ルールでハリとの対戦が決定した際、アリスターは自身の公式サイトで「2009年早々にMMAルールで再戦することにも合意した」と発表した(DREAMの笹原圭一、K-1の谷川貞治、ハリ陣営はその契約を否定。)。そして大晦日の対戦ではアリスターがKO勝利を収めた。大会後にアリスターはハリについて「ハリ戦は作戦を立てていてそれが上手くハマった。俺たちはハリを過小評価していたわけじゃないよ。彼はイージーなレベルのファイターじゃない。バダ・ハリは良い選手だと思うよ。俺のように常にKOを狙うファイターだし、それは観客も望んでいるしね。」とハリの実力を認めている一方で、「ただし団体とハリのマネージャーが彼のことをダメにしている。バダ・ハリは最近5試合は毎回のようにダウンしていて、K-1 WORLD GP決勝で3試合も戦ってから3週間しか経っていないのに俺と戦わされたんだから、ハリのマネージャーもバカだったと思うよ。それにバッドボーイのイメージが先行しすぎている。ピーター・グラハムとの乱闘、K-1 WORLD GP 2008 FINALでのレミー・ボンヤスキーへの反則の踏みつけ行為、MMAファイターをバカにした態度。おかげで誰もがさいたまスーパーアリーナで彼がKOされたのを喜んでいた。試合数の多さも問題だしダウンの数も多い」と指摘し、「ハリと彼のマネージャーはMMAルールで再戦する約束を守ろうとしないのも良くない」とコメントしている[8]。
K-1 WORLD GP 2008 FINAL決勝戦でのレミー・ボンヤスキーvsバダ・ハリ戦で、レミーが足を掴まれ倒されたところにハリの反則の踏みつけ攻撃を受け、ダメージが回復のためのインターバルが取られたものの、レミーがダブルヴィジョンを訴えて反則勝ちによって優勝した件について、アリスターは「レミーは『フライング・ジェントルマン』って名乗っているみたいだけど、『フライング・アクター』にした方がいい。バダとの決勝戦の演技は、最高だった。彼も、あそこで立ち上がってバダをKOしていれば、真のヒーローだったのにね。写真で判断しても演技としか思えない。反則はいけないことだけど、あの場面で、あの演技はないだろう。過去にもレミーはステファン・レコやボブ・サップと闘った時も、同じような演技をしたよね。疑われても仕方がないよ」と語っており、レミーの戦い方についても「亀のようにガードを固めてローキックをペチンペチンと蹴るレミーのような戦い方は地味で、ファンも盛り上がらないし、アグレッシブじゃないからイライラする。バダがレミーに対して怒りを感じる気持ちも理解できるね」とコメントしている[9]。レミーとの対戦を控えたK-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAの前日会見ではレミーの演技に対する皮肉を込めてオスカー像のレプリカをレミーにプレゼントするパフォーマンスを見せた[10]。
ここ数年の異常な筋肉の発達ぶりから、格闘技ファンからはドーピングを指摘されている。前述のレミー・ボンヤスキー戦の前日会見において、アリスターのパフォーマンスの直後にはレミーから直接「君は筋肉を作るためにずいぶんドラッグを飲んでいるようだが、ここで僕はアンチ・ドーピングを主張させてもらうよ」と挑発された。これに対しアリスターは「オランダはドラッグにリベラルな国なんだ」と笑顔で応じた。また、インタビューでステロイド、ドーピングの使用疑惑について聞かれた時には「俺は2006年頃まで93kg級で戦うために厳しい減量をしていた。2007年からは本格的にヘビー級に転向したことによって減量苦から解放されたし、体重を気にせず筋力トレーニングに励むことが出来るようになったから一気に筋肉が付いただけだ」とコメントしている。
2009年4月、兄のヴァレンタイン・オーフレイムと共にオランダのダンスクラブに遊びに出かけた際、兄のヴァレンタインが小銭を持っていなかったためトイレのチップをトイレウーマンに払えず、口論の末にセキュリティガードに無理やり強制退場させられた。その際セキュリティガードがヴァレンタインの頭を懐中電灯で殴打した上に3人がかりで襲い掛かったため、兄を助けようとしたアリスターによってセキュリティガード5人が病院送りとなった。オーフレイム兄弟は逮捕されたが、セキュリティガード側に問題があったため、5人のうちの1人はダンスクラブを解雇され、オーフレイム兄弟はすぐに釈放された。しかし、この際にアリスターは拳を負傷し、その傷口からバイ菌が入ってしまい、手を切断する寸前の状態にまで悪化したため、6月と8月に予定していたStrikeforce世界ヘビー級王座の防衛戦をキャンセルすることになった[11]。この事件を始めとして、ストリートファイトの経験も非常に多い。
2009年3月までは「Anthem 2004」を入場曲に使用していた。

この試合凄い

藤田和之vsアリスターオーフレイム
藤田 和之(ふじた かずゆき、男性、1970年10月16日 - )は、日本のプロレスラー、総合格闘家。千葉県船橋市出身。八千代松陰高校、日本大学文理学部卒業。
プロレスラーアントニオ猪木を師匠とし、「猪木最後の闘魂継承者」と呼ばれる。猪木のテーマ曲だった「炎のファイター」のオーケストラ・ヴァージョンをテーマ曲にしている。
レスリングの選手を経て、プロレスデビューをし、総合格闘技選手としての活動も同時並行して行う。レスリング技術も然ることながら、圧倒的なパワーから繰り出される打撃は非常に強力で、外国人のトップ級ヘビー級選手であっても容易にマットに沈めるほどの威力を持つ。さらにテイクダウンからの打撃、袈裟固め、肩固めなどの技を得意とする。
数々の強豪外国人と対戦した実績から、日本人ヘビー級の最有力選手と見なされていたが、本来全盛期となるべき時期に、怪我や猪木事務所の方針もあり、総合において満足な試合数を重ねることが出来なかった。
来歴 [編集]
日本大学在学中に1989年より、レスリングで全日本学生選手権4連覇を果たした。1993年に大学を卒業してからは新日本プロレス職員としてアトランタオリンピック予選に挑戦したが敗退し、全日本選手権2度優勝の実績を残してレスリングは引退。
1996年に新日本プロレス所属のプロレスラーになり、11月1日に永田裕志戦でデビュー。
2000年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会でキモと対戦。膝蹴りが急所に入ってしまい、4分2秒反則負けとなった。この試合を最後に新日本プロレスを退団。
一時はリングスへの参戦に傾いていたが、アントニオ猪木が経営する猪木事務所所属となり、2000年1月30日の『PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦』でハンス・ナイマンに一本勝ち、総合格闘技のデビューを飾る。
2000年5月1日、『PRIDE GRANDPRIX 2000 決勝戦』の準々決勝で当時「霊長類最強の男」と謳われたマーク・ケアーに判定勝ち。桜庭和志がホイス・グレイシーを90分の死闘の末破った直後の試合だったが、それ以上の大番狂わせといわれた。しかし準決勝のマーク・コールマン戦ではケアー戦での左膝靭帯の損傷により開始直後にタオルが投入され、TKO負けとなった。
2001年4月9日、新日本プロレスのリングでスコット・ノートンを降し、第29代IWGP世界ヘビー級王者となった。6月6日に永田裕志、7月20日にドン・フライと防衛成功。
2001年8月19日、『K-1 ANDY MEMORIAL 2001』でミルコ・クロコップとMMAルールで対戦。3度目のタックルにカウンターの左膝蹴りを合わせられ、左眉横から大出血。ドクターストップ負けとなった。
人気選手となった2001年には、サントリーの缶コーヒーBOSSコーヒーのテレビCMにアントニオ猪木と共に出演したり、アニメ映画『デ・ジ・キャラット』に声優として出演するなど多彩な活動をした。
2001年12月、練習中に右アキレス腱を断裂。大晦日の『INOKI BOM-BA-YE 2001』出場および2002年1月4日に予定されていた永田裕志とのIWGP世界ヘビー級選手権試合はキャンセルされ、1月4日のリング上で挨拶を行い、IWGP王座返上が発表された。
2002年7月20日、9か月ぶりに新日本プロレス札幌大会における垣原賢人戦で復帰し、スリーパーホールドで一本勝ち。
2002年8月8日、『UFO LEGEND』で安田忠夫と対戦し、肩固めで一本勝ち。
2002年12月31日、『INOKI BOM-BA-YE 2002』でミルコ・クロコップとのリベンジマッチに挑むも、判定負け。
2003年6月8日、『PRIDE.26』でPRIDEヘビー級王者エメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦。右フックでヒョードルをぐらつかせる場面もあったが、最後はスリーパーホールドでタップアウト負け。
2003年12月31日、『INOKI BOM-BA-YE 2003』で元IBF世界クルーザー級王者イマム・メイフィールドと寝技20秒限定ルールで対戦し、スタンド式肩固めで一本勝ち。当初はWBO世界ヘビー級王者レイ・マーサーと対戦予定であったが出場キャンセルとなり、当日になって対戦相手変更が発表された。
2004年5月22日、『K-1 ROMANEX』におけるボブ・サップとの「野獣対決」にパウンドでタップアウト勝ち。『リアルビースト』と呼ばれるようになる。
2004年6月5日、大阪府立体育会館において棚橋弘至とIWGPヘビー級王座決定戦を行う(ボブ・サップの王座返上による)。この試合で、棚橋をサッカーボールキックからのKO勝ちに追い込んだ。ただし、前年のアルティメット・クラッシュでは棚橋にタッグながらピンフォール負けを喫している。
2004年12月31日、『K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!』でアテネオリンピックレスリング金メダリストカラム・イブラヒムと対戦。パウンドでTKO勝ち。
2005年4月、永田裕志、中西学、ケンドー・カシンとレスリング軍団「チーム・ジャパン(TJ軍)」を結成。
2006年2月1日をもって猪木事務所から独立し、株式会社藤田事務所所属となった。
2006年5月5日、PRIDE無差別級グランプリ1回戦でジェームス・トンプソンと対戦、右フックでKO勝ち。
2006年7月1日、PRIDE無差別級グランプリ準々決勝でヴァンダレイ・シウバと対戦。右フックで倒され、サッカーボールキックの連打でタオルが投入され、TKO負け。シウバはヒョードル欠場による代役であった。
2007年4月8日、『PRIDE.34』でUFC対PRIDE対抗戦としてジェフ・モンソンと対戦し、スリーパーホールドで一本負け。
2007年12月12日、PRIDE(PRIDE FC WORLDWIDE)との契約を解除したことを発表[1]。12月31日の「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」への出場オファーはあったものの出場は実現しなかったが、Dynamite!!の前日記者会見でピーター・グラハムが「藤田が試合をキャンセルした。腰抜け野郎」と挑発を行った[2]。
2008年3月5日、戦極旗揚げ戦戦極 ~第一陣~でピーター・グラハムと対戦し、ノースサウスチョーク(公式裁定はスピニングチョーク)で一本勝ち。前日記者会見ではグラハムの挑発に乗り、「こんな胸くそ悪い奴は初めて。このトサカ野郎」と発言し、乱闘寸前の騒ぎを起こしたが[3]、試合後は両者共にお互いを称えあった。
プロレスでの活動・評価 [編集]
小川直也のプロレス転向に伴うトレーニングパートナーとして帯同した際、佐山聡に「化け物」と評されたものの、総合格闘技を行うまでの新日本プロレスでの藤田の扱いは前座レスラーだった(1999年1月4日東京ドーム大会でも、藤田は第1試合で中西学と対戦)。しかし、PRIDEでの活躍を経た後は扱いが一変し、2001年4月9日に新日本プロレスの第29代のIWGPヘビー級王座を獲得(ただしこの試合では、藤田のスリーパーで落ちているはずのノートンが、レフェリーのゴング要請後、いつまでも腕を放そうとしない藤田の膝を右手で優しく揉みしだくシーンをテレビ中継で放映され、「ノートンのモミモミ事件」として話題となる)し、トップレスラーに登りつめる。IWGPのベルトはその後も2004年6月5日に棚橋弘至、2005年7月18日に天山広吉を下しIWGPヘビー級王座を計3度獲得した。しかし、リングに上がるのはビッグマッチ中心でほとんど巡業には参加しないことに蝶野正洋などが苦言を呈することもある。
また、対戦相手に勝つことだけを重視した、プロレスというよりは総合格闘技的なファイトスタイルや、プロレスに対してのモチベーションの低さを感じさせる態度はファンも感情移入しづらいため、藤田を否定するプロレスファンも多いことは事実である。意外ではあるが、フランケンシュタイナーを得意技としており、腕ひしぎ十字固めへの連携技も開発している(後に武藤敬司に模倣された)。
2006年1月4日の、新日本プロレス東京ドーム大会のメインイベントでIWGPヘビー級タイトルへの挑戦が決定していたが、直前の12月になり何の説明もないまま「試合には出られない」としてドーム大会への参加をキャンセルし、ファンや関係者から非難を浴びた。しかし、直後に藤田と公私ともに親しい関係にある元ゴング編集長の金澤克彦が雑誌や携帯サイトのコラム等で、「藤田は、新日本と猪木事務所の軋轢(あつれき)に巻き込まれた被害者であり、彼には何一つ非はない」と擁護している。
なお余談ではあるが、そのファイトスタイルやキャラクターとは裏腹にかなりの学生プロレスマニアで、新日本プロレスに棚橋弘至が入門してきたときに「おい、ハメヒロシ(棚橋の学プロ初期のリングネーム)」と声をかけたことがある。
主な戦績 [編集]
プロレス [編集]
2001年4月9日、スコット・ノートンを破り、第29代IWGPヘビー級王座を獲得(永田裕志、ドン・フライ相手に防衛後、返上)。
2003年5月2日、新日本プロレス「ULTIMATE CRUSH」にて中西学にTKO勝ち。
2004年6月5日、棚橋弘至を破り、第38代IWGPヘビー級王座を獲得(柴田勝頼相手に防衛)。
2004年10月9日、佐々木健介に破れ、王座から陥落。
2005年7月18日、天山広吉を破り、第43代IWGPヘビー級王座を獲得。
2005年10月8日、ブロック・レスナー、蝶野正洋との3WAYマッチに破れ、王座から陥落。
2005年、G1 CLIMAXに出場したが決勝で蝶野正洋に破れ、準優勝。
アリスター・オーフレイム(Alistair Overeem、男性、1980年5月17日 - )は、オランダ出身の総合格闘家。ゴールデン・グローリー所属。現Strikeforce世界ヘビー級王者。オランダ語発音で「アリステア・オーフェレーム」。
日本でのニックネームは「ダッチ・サイクロン」であり、PRIDE時代に笹原圭一が考案した[1]。日本国外では「デモリションマン」(「破壊者」の意)と呼ばれる。総合格闘家ヴァレンタイン・オーフレイムは実兄。
破壊力とスピードを兼ね備えたストライカー。以前はすぐにスタミナ切れを起こし、試合開始直後の数分間は攻撃的であるが、それを過ぎると途端に動きが悪くなることがあったがウェイトアップした現在では大幅に改善されてきている。また勝敗にかかわらず一本・KO決着が多く、長い手足を生かしたパンチと膝蹴りで多くのKOを奪い、得意の打撃を活かしてK-1ルールでも大活躍している。サブミッションの技術にも長けており、特に体格を活かしたフロントチョークを得意技とする。2005年1月にはアブダビコンバット欧州予選では全試合ギロチンチョークで一本勝ちし、優勝した[2](2005年5月の世界大会はPRIDE専念を理由に欠場した[3])。
来歴 [編集]
総合格闘技 [編集]
1999年10月28日、リングスKOKトーナメントで初来日。コーチキン・ユーリに判定負け。
2002年12月23日、PRIDE初参戦となったPRIDE.24でヴォルク・アターエフと対戦し、膝蹴りでKO勝ち。
2003年8月10日、PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦のミドル級GP1回戦でチャック・リデルと対戦し、序盤は圧倒していたが、スタミナ切れで逆転KO負け。
2005年にPRIDEミドル級グランプリに参戦。1回戦でビクトー・ベウフォートを、2回戦でイゴール・ボブチャンチンをいずれもフロントチョークで破るが、準決勝ではマウリシオ・ショーグンにパウンドでKOされてしまい決勝進出は逃してしまった。
2006年2月26日、PRIDE.31でセルゲイ・ハリトーノフと対戦し、試合開始直後にテイクダウンを奪取。ここでハリトーノフは受身を取り損ねて肩を脱臼。最後はグラウンドでの膝蹴りの連打でTKO勝利。
しかし、その後のPRIDEではファブリシオ・ヴェウドゥム、アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラ、ヒカルド・アローナ、マウリシオ・ショーグンとブラジル人総合格闘家相手に4連敗。
2007年6月23日、It's Showtime(K-1 WORLD GP 2007 IN AMSTERDAMと同時開催)でマイケル・ナープに変形ギロチンチョークで一本勝ち。
2007年9月17日、HERO'Sに初参戦。かつてPRIDEのリングで勝利したセルゲイ・ハリトーノフと再戦したが、TKO負け。
2007年11月16日、Strikeforceに参戦。ポール・ブエンテロに2R膝蹴りを腹に浴びせTKO勝利し、初代Strikeforce世界ヘビー級王座に就く。
2008年6月15日、DREAM初参戦となるDREAM.4でイ・テヒョンと対戦し、開始36秒左膝蹴りでKO勝ち。試合後のリング上でミルコ・クロコップとの対戦を要求した。
2008年7月21日、DREAM.5でマーク・ハントと対戦し、開始1分11秒V1アームロックで一本勝ち。試合後のリング上で再度クロコップとの対戦を要求した。
2008年9月23日、DREAM.6でミルコ・クロコップと対戦。試合開始早々からアリスターが優勢だったが、1R6分9秒にアリスターの偶発的なローブローによりミルコが試合続行不可能となりノーコンテストとなった。
2009年10月25日、DREAM初のケージ開催となったDREAM.12のメインイベントでジェームス・トンプソンと対戦し、開始33秒フロントチョークで一本勝ち。試合後には「2010年4月にエメリヤーエンコ・ヒョードル選手と対戦したい」とコメントした[4]。
キックボクシング [編集]
2001年2月4日、K-1オランダ大会でエロル・パリスにKO負け。
2004年5月30日、ICHIGEKIにて、一撃キックルールでグラウベ・フェイトーザと対戦し、右アッパーで1RKO負け。
2008年12月31日、Dynamite!! ~勇気のチカラ2008~でバダ・ハリとK-1ルールで対戦し、左フックでKO勝ちを収めた。
2009年3月28日、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAのスーパーファイトにて昨年の王者レミー・ボンヤスキーとK-1ルールで対戦。1R、2Rとプレッシャーをかけペースを握るも、3Rにダウンを奪われ判定負け。
2009年9月26日、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16に推薦枠にて出場。ピーター・アーツと対戦し終始圧倒して判定勝ち。
2009年12月5日、K-1 WORLD GP 2009 FINALの準々決勝でエヴェルトン・テイシェイラに左膝蹴りで1RKO勝ち。続く準決勝では昨年の大晦日に対戦したバダ・ハリと再戦。1Rに2度のダウンを奪われKO負け。大会後、谷川貞治イベントプロデューサーはテイシェイラ戦で掴んでから膝蹴りを2回繰り出しKOしたことについて「反則ギリギリだと思います。掴んだまま二回の攻撃はダメなんで、微妙です。」とコメントした[5]。その一方、角田信朗は自身のブログで「二発の膝の間に間違いなく首相撲状態は一瞬解除されてるんであれは反則ではありません」と見解を載せている[6]。
人物 [編集]
身の丈ほどもある巨大な「木製のハンマー」を会見や試合の入場時に持参することも有名である。本人はハンマーについて「デモリッションマンとして何でも破壊する自分のキャラクターのイメージ」だと語っている[7]。
DREAM.6でのミルコ戦の直後にリングに上がったバダ・ハリが「今日は抱き合ったりキスしたりするのしか見ていない。」と総合格闘技そのものを否定するような発言をし、更には観客に「本物の闘いが見たければK-1に来い」と発言したことについてアリスターは「俺はMMAファイターだが、K-1をリスペクトしているのに、なぜ奴にはMMAをリスペクトする気持ちが無いんだ!」と激怒した。その3か月後のDynamite!! ~勇気のチカラ2008~にてK-1ルールでハリとの対戦が決定した際、アリスターは自身の公式サイトで「2009年早々にMMAルールで再戦することにも合意した」と発表した(DREAMの笹原圭一、K-1の谷川貞治、ハリ陣営はその契約を否定。)。そして大晦日の対戦ではアリスターがKO勝利を収めた。大会後にアリスターはハリについて「ハリ戦は作戦を立てていてそれが上手くハマった。俺たちはハリを過小評価していたわけじゃないよ。彼はイージーなレベルのファイターじゃない。バダ・ハリは良い選手だと思うよ。俺のように常にKOを狙うファイターだし、それは観客も望んでいるしね。」とハリの実力を認めている一方で、「ただし団体とハリのマネージャーが彼のことをダメにしている。バダ・ハリは最近5試合は毎回のようにダウンしていて、K-1 WORLD GP決勝で3試合も戦ってから3週間しか経っていないのに俺と戦わされたんだから、ハリのマネージャーもバカだったと思うよ。それにバッドボーイのイメージが先行しすぎている。ピーター・グラハムとの乱闘、K-1 WORLD GP 2008 FINALでのレミー・ボンヤスキーへの反則の踏みつけ行為、MMAファイターをバカにした態度。おかげで誰もがさいたまスーパーアリーナで彼がKOされたのを喜んでいた。試合数の多さも問題だしダウンの数も多い」と指摘し、「ハリと彼のマネージャーはMMAルールで再戦する約束を守ろうとしないのも良くない」とコメントしている[8]。
K-1 WORLD GP 2008 FINAL決勝戦でのレミー・ボンヤスキーvsバダ・ハリ戦で、レミーが足を掴まれ倒されたところにハリの反則の踏みつけ攻撃を受け、ダメージが回復のためのインターバルが取られたものの、レミーがダブルヴィジョンを訴えて反則勝ちによって優勝した件について、アリスターは「レミーは『フライング・ジェントルマン』って名乗っているみたいだけど、『フライング・アクター』にした方がいい。バダとの決勝戦の演技は、最高だった。彼も、あそこで立ち上がってバダをKOしていれば、真のヒーローだったのにね。写真で判断しても演技としか思えない。反則はいけないことだけど、あの場面で、あの演技はないだろう。過去にもレミーはステファン・レコやボブ・サップと闘った時も、同じような演技をしたよね。疑われても仕方がないよ」と語っており、レミーの戦い方についても「亀のようにガードを固めてローキックをペチンペチンと蹴るレミーのような戦い方は地味で、ファンも盛り上がらないし、アグレッシブじゃないからイライラする。バダがレミーに対して怒りを感じる気持ちも理解できるね」とコメントしている[9]。レミーとの対戦を控えたK-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAの前日会見ではレミーの演技に対する皮肉を込めてオスカー像のレプリカをレミーにプレゼントするパフォーマンスを見せた[10]。
ここ数年の異常な筋肉の発達ぶりから、格闘技ファンからはドーピングを指摘されている。前述のレミー・ボンヤスキー戦の前日会見において、アリスターのパフォーマンスの直後にはレミーから直接「君は筋肉を作るためにずいぶんドラッグを飲んでいるようだが、ここで僕はアンチ・ドーピングを主張させてもらうよ」と挑発された。これに対しアリスターは「オランダはドラッグにリベラルな国なんだ」と笑顔で応じた。また、インタビューでステロイド、ドーピングの使用疑惑について聞かれた時には「俺は2006年頃まで93kg級で戦うために厳しい減量をしていた。2007年からは本格的にヘビー級に転向したことによって減量苦から解放されたし、体重を気にせず筋力トレーニングに励むことが出来るようになったから一気に筋肉が付いただけだ」とコメントしている。
2009年4月、兄のヴァレンタイン・オーフレイムと共にオランダのダンスクラブに遊びに出かけた際、兄のヴァレンタインが小銭を持っていなかったためトイレのチップをトイレウーマンに払えず、口論の末にセキュリティガードに無理やり強制退場させられた。その際セキュリティガードがヴァレンタインの頭を懐中電灯で殴打した上に3人がかりで襲い掛かったため、兄を助けようとしたアリスターによってセキュリティガード5人が病院送りとなった。オーフレイム兄弟は逮捕されたが、セキュリティガード側に問題があったため、5人のうちの1人はダンスクラブを解雇され、オーフレイム兄弟はすぐに釈放された。しかし、この際にアリスターは拳を負傷し、その傷口からバイ菌が入ってしまい、手を切断する寸前の状態にまで悪化したため、6月と8月に予定していたStrikeforce世界ヘビー級王座の防衛戦をキャンセルすることになった[11]。この事件を始めとして、ストリートファイトの経験も非常に多い。
2009年3月までは「Anthem 2004」を入場曲に使用していた。