小林元茂定孝(7) 本間棗軒 | 林泉居

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竹所の医学修行において最初の師となった本間棗軒は、水戸藩が誇る医師として数々の功績を挙げた人物でした。本間家は代々医師で棗軒が八代目に当たります。

初代は、道悦と名乗った医者でしたが元は近江の戸田家に仕えた武士でした。名を資道(やすみち)通称を弥三郎といいます。寛永14年(1637)の天草の乱に従軍した際足に槍を受け不自由となり尾張で漢方医学を学び医者となったそうです。その後江戸の青物町で開業、この時に松尾芭蕉の知己を得たそうです。芭蕉との話の中で常陸の潮来の風光明媚なことを聞かされていた道悦は、潮来に林泉の居を構えて暮らし始めますが、道悦には子供がいなかったため京都生まれの医師友松五郎兵衛を養子としました。これが二代目道因です。道因も又子がなく養子を迎え三代目道仙とします。4代目道意は3代目の実子でこの時に霞ヶ浦に面した小川に居を移します。五代目は、玄琢といい小川馬場村の村山儀右衛門の息子で養子縁組により本間家に入ります。玄琢には、七代目を継ぐ道偉がおりましたが、六代目は玄琢長女の婿で隣の玉造村成島佐五右衛門の三男玄有が継ぎます。この玄有の実子玄調が本間棗軒で道偉の娘幾會と縁組みし本間家八代を継ぎます。以上が棗軒までの本間家の大雑把な流れですが、井坂教著「小川稽医館」を参考にしました。

棗軒は、名を資章、字を和郷、最初玄調後棗軒と号しました。その医療の功績により藩主斉昭から救と名を与えられ後年手紙の署名などによく使っています。

                  「救」と署名の本間棗軒手紙

 
  
医学修行は、十七歳の時水戸藩医で四百石取りの重鎮原南陽に就いて始めます。その後杉田玄卿に西洋医学太田錦城に漢学を学んだ後華岡青州に入門します。三ヶ月後には長崎のシーボルトの下で種痘などの技術を教わりますが、これが文政10年のことです。シーボルトの下ではわずか二ヶ月の伝習ですが再び紀州の華岡青州の下に帰り数年間の修行を重ねます。それから江戸日本橋の榑正町で開業していたことは以前記した通りです。棗軒の医学知識や技量を買って水戸藩に推挙したのは、水戸藩士で儒者の小宮山楓軒でした。これ以降棗軒は水戸藩医として重用され側医となります。棗軒の功績についてよく語られることは、脱疽の患者の足を膝下から切断して治癒させたとか痔の手術に長けていて自らの痔も友人の医師を指導しながら行わせたというものです。水戸藩医おいては牛種痘普及の中心的人物の一人であったことなどが本においてもインターネット上でも多く紹介されていますのでここでは余り語られない話を一つ二つ述べてみたいと思います。その一つが譴責を受けたことです。具体的な理由が定かではないのですが不調法ということで遠慮を申しつけられていています。旭山もまた母親の葬儀の一件で譴責を受けましたが、水戸藩というところは、幕末は特に内部対立が激しく隙あらば揚げ足を取ってひっくり返してやろうというような動きも多かったようです。藩主を軸に一枚岩として統制の取れた組織では決してなかったようです。御三家の一角という家柄だけに何かと複雑な人事があったのだろうと思います。棗軒においては諸生派や天狗党といった守旧派対改革派の対立には中立を保ち争いに首を突っ込まなかったようですが、立場を変えて見ればふとした弾みでどちらからも攻撃される可能性なきにしもあらずではなかったかと思います。それだけに小さな過ちをことさら大きく取り上げていたぶられるという今でも続く組織内でのある種いやらしい風習の犠牲に晒されることが棗軒のみならず多くの藩士にもあったのではないかと想像されます。下の手紙は弟子の吉村道健と小林元茂竹所が連名で棗軒の救済を嘆願した手紙です。

我々共師匠本間救儀不調法の儀之有り遠慮小普請組え仰せ付け置かれ候所救儀先年弘く療治仕り尚又慎み中乍ら御姫様御療治仰せ付けられ有難き仕合わせに存じ奉り候・・・と始まり婉曲に寛容の措置を嘆願する内容の手紙です。この後心得違いということで許されます。

 
  エピソードの二つ目は、棗軒の梅毒治療方法です。江戸の町は、地方の藩から単身で赴任する藩士と妻子を持たない男衆で溢れかえっておりましたから喧嘩の種は尽きずいきり立つものを鎮めるには遊女の存在が欠かせませんでした。そうすると花柳病といわれた性病も当然のことながら次から次へと伝染させてしまうわけです。近年谷中あたりの墓地を掘り起こして人骨を医師が調査したことがありましたが、かなりの割合で梅毒に冒されていた兆候を発見したようです。

余談が長くなりましたが、棗軒の梅毒治療というものは、有機水銀である辰砂を細かく砕き紙に巻いて包み、それに火を付けて気化した水銀を吸わせるというものでした。確かに水銀の殺菌力は強いのですがよく知られている通りその副作用たる水銀中毒は人体に多大な悪影響をもたらします。棗軒はここで気化した水銀の吸引をやめさせるかどうかの見極めが難しいのだが、患者が訳の分からぬうわごとを口にし始めた頃合いを見計らうと述べています。そして梅毒疹についてはメスで切り取った後十二分に灸をしなければならないと彼の著書「内科秘録」或いは「瘍科秘録」だったかも知れませんが、そんなことを述べています。名医本間棗軒にも時代の制約があったという一つのエピソードです。

つづく