小林元茂定孝(6) | 林泉居

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天然痘は、その起源も古く人類の誕生と共に在ったといわれるほどですが、最もどの程度の確証があるかは定かでないようです。唯紀元前かなり古くから確認はされているようですからその流行の年にはなすすべもなく子供達が次々と犠牲になり人口の増加にも一定の歯止めを掛けるほどの災いであったことは想像に難くありません。しかし、今日天然痘は撲滅された伝染病となっています。ジェンナーによる種痘法が発明された功績によるものでした。1796年のことでした。

種痘そのものは紀元前かなり古く、今から3000年ほど前にインドで行われた記録があるそうですが、これは人痘法でした。これには安全性の問題がありましたが、日本でも牛の痘苗を使う以前はやはり人痘でした。江戸時代牛痘を使うに当たってはその抵抗もひとかたならず初期の普及には工夫が必要だったと語り継がれています。日本で最初に牛痘を使って種痘したのは、文化7年(1810)のことと言いますから結構古くに行われたわけです。ところが普及しませんでした。普及のきっかけとなったのは佐賀藩医の楢林宗健が嘉永2年(1849)にオランダ人医師モーニッケと共に行った牛種痘からということになっています。牛種痘の普及に当たって功績のあった代表的な人物に同じく佐賀藩出身で蘭方医として初めて幕府奥医師に迎えられた伊東玄朴がいます。しかし、数え上げると大阪の緒方洪庵はじめ各藩にもそれぞれ記録に残る医師があるようですから全国的に右へならえで牛種痘を普及させたのでしょう水戸藩においても本間棗軒や松延定雄等が中心となって進められました。本間棗軒の内科秘録(慶応3年刊)には第14巻に牛種痘について多くの頁がさかれて述べられています。

 

         本間棗軒著「内科秘録」第14巻より



 
  
 
水戸藩で最初に牛種痘を行ったのは嘉永3年のことで痘苗は薩摩の島津斉彬から貰い受け松延定雄が接種したということのようです。最初はやはり牛種痘に尻込みするものが多かったのですが藩主の子息等に施術するに従い追々順調に広まっていったそうです。水戸藩においては本間棗軒と松延定雄が独占的に取り扱っていたのですが、それでは普及の妨げにもなるというので許可を得て取り扱いの医師も増えていきました。旭山も又種痘にひとかたならぬ思い入れがあった様子で竹所に技術伝習に参加させ種痘を手懸けるようになりました。そして、追々牛種痘が普及すると今度は痘苗の入手に苦心するようになったようで江戸詰の医師等に痘苗の入手を依頼する手紙も数々残されています。

つづく