今日は4月26日。わたしにとって、忘れられないこの4・26が今年も巡ってきた。
1986年4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発で原子力発電開発史上最悪の事故が発生した。同年8月、ソ連政府がIAEA(国際原子力機関)に出した事故報告によると、大量の放射線被曝による急性障害が200名余の原発職員と消防士に現れ、31人が死亡した。事故翌日の4月27日に、原発に隣接するプリピャチ市住民4万5000人が避難し、5月3日から6日にかけて周辺30km圏から9万人、結局13万5000人の住民が避難した。この原発事故は世界中に影響を与えた。原発から放出された放射能は風に乗って、チェルノブイリから1800kmも離れた日本にも届いた。雨が降れば放射能汚染されると恐れ、飲水や食品も汚染されていないかと大騒ぎになった。放射能検知器が売れた。反原発の運動を押し上げた。
少し時間がたつと、チェルノブイリ周辺の人々はどうなっているのか。子どもたちは安全なところにいるのか?汚染食品不買運動ではなく現地の人々の支援をすべきではないかと各地の反原発運動から声が上がった。さらに、そもそも汚染食品を先進国が拒否すれば誰がそれを食べるのか。放射能汚染で正常でない身体の子どもが産まれるから原発反対というが、それは既に存在する身体の正常でない子どもたちを否定するのではないか、原発で働く労働者の被爆問題はどうなっているのかなど、環境問題だけではなく人権問題としての反原発、いや脱原発運動の考え方が議論された。
1990 年6 月、チェルノブイリ支援運動・九州を設立し、1991年6月、第一回現地調査団をウクライナとベラルーシに送った。メンバーは団長、通訳、朝日新聞記者、日本の医師、大分のメンバー、わたしの6人。放射能測定器、心電計、真空採血管、針、粉ミルク 、医薬品など支援物資を山ほど抱えての旅だった。
チェルノブイリ支援運動・九州の機関紙「チェルノブイリ通信No.8」に書いた報告会活動報告をアップします。30年も前の文章は言葉の使い方も今と違うし、名前も違いますが、当時の反原発運動の思いが伝わるかな。運動脱落者としてはなんとも拷問・・・。
「チェルノブイリからのメッセージ」・・・たみやけいこ
今年6月の現地開査から帰ってきて、約2ヵ月間はそれこそ「平和の夏」で、褊岡ではイベントが多いので、私は調査報告の原稿書き(新聞、ミニコミ)に専念して、報告会はしませんでした。その間に、大分の河野さん、北九州の深江さんは精力的に報告会をこなしているという風の便りを開き、もう私の出番はないのかと思っていましたが、そうは間屋がおろさない! 8月29日の福岡市南区「アミカス」を皮切りに、あっという間に十数ヵ所も回らなければならなくなりました。それだけチェルノブイリへの関心は高いのでしょうか。
はじめは淡々と、見たこと、聞いたことを伝えていましたが、それだけではかえって真実が伝わりにくいことに気が付きました。というのが、チェルノブイリ現地で私が見たことというのは、ただ、その場にいただけで衝撃的ということではないからです。目の前でバタバタ人が倒れたり、死んでいくという状況ならともかく、じわじわ被爆していく放射能被害の怖さというのは想像力でしかわかりませんから、その想像力を引き出すための「言葉」が必要になってくるのです。つまり、それは私自身が現地で経験したことを「私がどう感じたかということを伝える」作業なのです。
現地で出会ったことの中に、「まだ3才なのにあと1ヶ月という寿命を宣告された白血病の少年ミーシャくんのこと」があります。彼には薬品がてにはいり、それなりの治療をすれば、快方に向かうかもしれない可能性がありました。しかし、薬品は手に入らず、ミーシャくんは本当に1ヶ月で亡くなりました。その話はそれ自体、非情に衝撃的ですが、事例としてその子の話を私たちが出会った「一件の事実」として話しても、それはどこにでもある話しでしかないのです。けれども、そういう子供たちがチェルノブイリ周辺にはたくさんいるのです。そして、私たちが募金を集めて薬品を送っても、それで救われるのはほんのひと握りでしかないでしょう。
40キュリー以上あるというホットスポット(点在する高治発地のこと)の存在する土地にすんでいる家族にも会いました、この家族は、ホットスポットの存在を知り、移住したいと思っているけれども、資金も行くあてもなく、土地平均では12キュリーしかないために致府の援助も受けられず、どうすることも出来ないのです。この家族には幼い子供があり、子供たちはこの土地にいるだけで被爆し、健康を損なうごとはわかっているのです。いいえ、すでに症我がでていました。どんな思いで毎日を過ごしていることでしょうか。この話もまた、大変な話ではあるけれども、私たちが出会った事例としては1件でしかないわけで、それだけ話しても「今までにも、どこかで聞いた話」でしかないのです。しかし、この話もまた、事実としては、実にたくさんあるのです。白ロシアだけでも、230万人くらいが汚染地に住んでいるといわれます。そのほとんどの人がこの家族のような思いを尊いて生活をしなければないのだというごとを伝えねばなりません。そして、やはり、この家族だけを助けられても、ほかの多くの人たちまでは手が回らないでしょう。
ミーシャくんの話もホットスポットの家族の話も、これらは、たくさんいるチェルノブイリ被災地のほんの一部の話でしがないことを、私は教字を出しながら話します。そして、報告者も聞く方も、たどりつくのは絶望的な無力感です。これから何万人出てくるか分からない放射能被害者たち、移住すべき数百万人の人々にとって、私たち市民グループができることといえば、ほとんど僅かなことなのです。私たちはなんと無力なのでしょう。ミーシャくん一人「救うことができない」のです。
さて、しかし私たちのグループ名は「チェルノブイリ支援運動」です。私たちは「支援者」なのです。実は、このグループの名前を決めるときに、ずいぶんもめました。「チェルノブイリ救援」というのが、一般的に使われていましたから、九州でもはじめはこの名が候補に上がりました。私はそれがイヤでした。「上からお救けする」みたいな印象が「救援」にはあったのです。去年、私たちはまだ報道でしかチェルノブイリのことを知りませんでしたが、それでもチェルノブイリの人たちを「教う」なんで、とてもできないだろうと思ったのです。でも、どこかそういうのは「屁理屈」かなぁという迷いもありました。
それが今度、実際にチェルノブイリに行ってみて、やはり、私たちは「支援者」なのだと改めて思いました。「救う」ことはできないかもしれない。でも、精一杯『支え、援助していかなければ」と思ったのです。小さな支えです。でも、ウクライナの、そして白ロシアの人たちは遠い日本から仕事や家庭をおいで、自分たちのお金で出かけていった私たちの心をとても大事にしてくれました。政治や駆け引きでない私たち「チェルノブイリ支運動」の活動を理解してくれたのです。
ただ、お金を終めて送るだけでないこの支援選動の意義は大きいと、私は報告会で一人ー人の顔を見ながら思っています。そして、人を税うごとの出来ない非力な秘たちだからこそ、ヂェルノブイリのような事故をいつ起こすか分からない原券は止めなければならないと、強く感うのです。事故が起こっても何も出来ない私たちだから、そして、すでに出てしまった犠牲者たらを思えばこそ、「原発をやめようよ」と、言い続けなければならないのです。
チェルノブイリ原発・・・たった一基の原発の事故が、どれだけ多くの人たちの悲劇を生み、国土を丸ごとだめにしでしまったかを、私たちは伝える義務があります。チェルノブイリの人たちは口を揃えたように言いました。
「この事実をひとりでも多くの人に伝えてください。」
・・・・・以下は調査団が撮影した画像の一部です。
1991年6月14日、ウクライナ・ナロジチこども病院の建物、看板。
こども病院内で、副院長と調査団メンバー。
こども病院の病室、少年ミーシャと調査団医師。
1991年6月16日、放射能避難者の家を訪問。
調査団メンバー(左端がわたし)と避難者母子。
1991年6月17日、腫瘍調査所兼サナトリウム。
調査団メンバーと現地職員、子どもたち。若い女性の喉に包帯。
1991年6月19日、ベラルーシ・モギュリョフの医院の中。
村人を避難させたいが難しいと医師、看護師の話す様子。
モビュリョフの村。放射線値が高くて住めないと言われる村の家。
体調が悪いので避難したいがお金がないと話す村人たち。
飲んではいけない汚染された川で遊ぶ子どもたち。浮き輪を持っている。

















