日本テレビで放映されたドラマ「セクシー田中さん」で行われた原作改変問題について、5月31日にようやく報告書が発表されたようだ。
当初はゴールデンウイーク明けに発表とされていたが、聞き取り調査を慎重に行うとかで伸びているとされていた。ただ関係者といっても一桁の人数であり、一人に一日費やしたとしても、それをまとめる日数を加味したところで3ヶ月以上かかるとは思えない。
よって世間的には話題が風化することを望んでいたのではないかと言われていた。ところがドラマ「悪魔ゲーム」での改悪問題が登場し、夏の祭典である24時間TVを放映するにもいちいち「田中さん問題はどうなった」と突き上げを食らう。
そして仕方なく報告書ができましたと、日付的には夏休みの宿題を8月31日に提出するような形になったわけだ。
この発表を要約すれば。
『今後ドラマを作る上で、面倒な原作者に当たらないように注意しましょう。わたしたちはドラマ制作者たちを今後も守っていきます』
もはや開き直りとも言えるが、そんなに原作者の意見が聞きたくなければ、前部オリジナルドラマで行えば良いのにと思うわけである。
この点、例え滑りまくってもオリジナルドラマを放映するフジテレビは偉いのではないかと思える。
実はこの問題が表面化するまで、日本テレビにオリジナルドラマというか、オリジナルな脚本のものが無いことに気が付かなかった。確かにドラマにしてもアニメにしても、原作付きのものがとても多い。
マンガなどにも原作があるものも存在するが、それは別のメディアが元になっているというより、マンガのために新しい原作を作っている場合が多い。
章節が題材となっているものでわたしが知っているのは、光瀬龍氏のSF章節「百億の昼と千億の夜」を原作にした、萩尾望都氏の同名マンガである。章節の一部が改編されているが、マンガはとても良くできていると思う。
原作付きのマンガの場合、原作者がどこまで指定するかも作品によってだいぶ変わるようだ。事細かにコマの配置まで指定する原作者もいれば、設定だけを大まかに提示する原作者もいるらしい。
原哲夫氏の描画による「北斗の拳」の場合、北斗神拳のイメージは原哲夫氏のオリジナルであり、原作者の武論尊氏はそこに核戦争語の世界という設定と、経絡飛行の名前を提示したと言われている。
マンガの場合、要求と生産のバランスが崩れており、描画できる人材が不足することもあって一人の漫画家が同時に多数の連載をかかえることは珍しく無かった。そこで描画はアシスタントをまじえて人海戦術ができても、ストーリーの構築まで手が回らなくなったのだろう。
そこでストーリーについても分業化することで連載規模を保っていたことになる。どんなに連載を抱えていても前部をストーリーを考えていた手塚治虫氏や永井豪し、石ノ森章太郎氏のような猛者もいたわけだが、天才の数は限られるのだ。
さいとうたかお氏のゴルゴ13シリーズのように、ストーリー構成や描画などを完全分業化することで、作者がお亡くなりになった今でも連載は継続している。
また藤子F不二雄氏のドラエもんも、その作品テイストが共用化されることでアニメは継続しているわけだ。
テレビの実写ドラマ化において、制作者側からよく言われるのは「原作をそのまま実写に展開すると無理がでてくる。そのために放映しても無理が無いように変更を加えている」らしい。
その言い分は判るが、ならそのまま実写化しても無理が無い原作を選ぶべきではないかと思うのである。
テレビドラマになる原作がどのように選ばれているかと言えば、視聴率に繋がるものが優先となる。まずは話題になっていたり、マンガや章節であれば発行部数の多い者が選ばれるだろう。ここはそこまで間違っていないように思える。
そしてより視聴率を上げるために、視聴率を稼げる出演者を選ぶわけである。ここで原作との齟齬がでてくるわけだ。
少年マンガを原作とする場合、登場人物の年齢は低く抑えられていることが多い。場合によると小学校が舞台のこともある。
ところが実力もあって人気のある子役をそろえることは難しい。そこでテレビ局や代理店とべったりの芸能事務所から押された芸能人が割り当てられるわけだが、そこで舞台が小学校から高校になったりするわけである。
日本テレビで放映されていた「地獄先生ぬーべー」はその手の改悪が酷いものだった。ヒロインの一人である雪女のゆきめに至っては、大韓民国の歌手グループKARAのジオンが割り当てられており、日本語が不自由な雪女になっていた。
ここだってもっとましな改編はできただろう。ぬーべーが韓国に出かけたときに出逢った妖怪であり、彼をしたって日本に来たとすれば日本語が片言でも問題無かったはずである。つまりゆきめである必要は無かったのだ。
報告書を見ても明らかだが、ドラマ制作側に原作と原作者のリクエストを答える意志はかけらも無いのだろう。ともかく視聴率につながりそうな要員がほしいわけであり、スポンサーを納得させる口実なわけだ。
この意識はそう簡単に変わるとは思えない。よって今後、日本テレビが原作付きドラマを作る場合は、確実に原作死亡フラグが立つと思った方が良いだろう。
日本テレビでは原作者を「自分の作品にこだわりがあって難しい人」としていたらしいが、自分の作品に愛情を持てない作家の作品に価値があるのだろうか。
小説家の中には、自分の原稿に手を入れられるのを嫌う人は多い。どれほどの改編が拒絶されるかというと、句読点や改行の位置すら変えることを許さない。
例えば一文において漢字ではなくひらがなやカタカナにしているのを漢字に直すとそれで大激怒である。漢字をひらがなにするのを「開く」と言うが、それにも立派な理由があるからだ。昔の純文学に繋がる作家はこの傾向が強いために、テレビドラマの制作陣はどこかでサジを投げると思う。
一時期、剛力あやめさんが実写ドラマに配役されることが多く、それが爆死につながることから批判されることがあった。
そして原作のファンは見事に壊された作品を見て「今回もわたしたちは剛力の侵略を止めることができなかった」と言って嘆いていたとか。
ここでも剛力さんが悪いと言うより、原作をきちんと再現するための配役を選ぶべきだったのである。もしそれが不可能であったら、原作の設定に手を加えるより、対象となる原作を別の原作に切り換えるべきなのだ。
きちんと実写ドラマになって評判のよいものだってあるわけだ。出来ないはずが無いが、その数の方が少ないのが現状だ。
幸いと言うのか、わたしは映像が判らないので声の演技に問題がなければ充分楽しめる。それだけハードルが低い成果、どれほど原作が壊されているか判らない。
せめて声だけは、プロの声優を使うとかでなんとかならないかと思うのである。
次回は、心拍数と寿命の関係について語りたい。
当初はゴールデンウイーク明けに発表とされていたが、聞き取り調査を慎重に行うとかで伸びているとされていた。ただ関係者といっても一桁の人数であり、一人に一日費やしたとしても、それをまとめる日数を加味したところで3ヶ月以上かかるとは思えない。
よって世間的には話題が風化することを望んでいたのではないかと言われていた。ところがドラマ「悪魔ゲーム」での改悪問題が登場し、夏の祭典である24時間TVを放映するにもいちいち「田中さん問題はどうなった」と突き上げを食らう。
そして仕方なく報告書ができましたと、日付的には夏休みの宿題を8月31日に提出するような形になったわけだ。
この発表を要約すれば。
『今後ドラマを作る上で、面倒な原作者に当たらないように注意しましょう。わたしたちはドラマ制作者たちを今後も守っていきます』
もはや開き直りとも言えるが、そんなに原作者の意見が聞きたくなければ、前部オリジナルドラマで行えば良いのにと思うわけである。
この点、例え滑りまくってもオリジナルドラマを放映するフジテレビは偉いのではないかと思える。
実はこの問題が表面化するまで、日本テレビにオリジナルドラマというか、オリジナルな脚本のものが無いことに気が付かなかった。確かにドラマにしてもアニメにしても、原作付きのものがとても多い。
マンガなどにも原作があるものも存在するが、それは別のメディアが元になっているというより、マンガのために新しい原作を作っている場合が多い。
章節が題材となっているものでわたしが知っているのは、光瀬龍氏のSF章節「百億の昼と千億の夜」を原作にした、萩尾望都氏の同名マンガである。章節の一部が改編されているが、マンガはとても良くできていると思う。
原作付きのマンガの場合、原作者がどこまで指定するかも作品によってだいぶ変わるようだ。事細かにコマの配置まで指定する原作者もいれば、設定だけを大まかに提示する原作者もいるらしい。
原哲夫氏の描画による「北斗の拳」の場合、北斗神拳のイメージは原哲夫氏のオリジナルであり、原作者の武論尊氏はそこに核戦争語の世界という設定と、経絡飛行の名前を提示したと言われている。
マンガの場合、要求と生産のバランスが崩れており、描画できる人材が不足することもあって一人の漫画家が同時に多数の連載をかかえることは珍しく無かった。そこで描画はアシスタントをまじえて人海戦術ができても、ストーリーの構築まで手が回らなくなったのだろう。
そこでストーリーについても分業化することで連載規模を保っていたことになる。どんなに連載を抱えていても前部をストーリーを考えていた手塚治虫氏や永井豪し、石ノ森章太郎氏のような猛者もいたわけだが、天才の数は限られるのだ。
さいとうたかお氏のゴルゴ13シリーズのように、ストーリー構成や描画などを完全分業化することで、作者がお亡くなりになった今でも連載は継続している。
また藤子F不二雄氏のドラエもんも、その作品テイストが共用化されることでアニメは継続しているわけだ。
テレビの実写ドラマ化において、制作者側からよく言われるのは「原作をそのまま実写に展開すると無理がでてくる。そのために放映しても無理が無いように変更を加えている」らしい。
その言い分は判るが、ならそのまま実写化しても無理が無い原作を選ぶべきではないかと思うのである。
テレビドラマになる原作がどのように選ばれているかと言えば、視聴率に繋がるものが優先となる。まずは話題になっていたり、マンガや章節であれば発行部数の多い者が選ばれるだろう。ここはそこまで間違っていないように思える。
そしてより視聴率を上げるために、視聴率を稼げる出演者を選ぶわけである。ここで原作との齟齬がでてくるわけだ。
少年マンガを原作とする場合、登場人物の年齢は低く抑えられていることが多い。場合によると小学校が舞台のこともある。
ところが実力もあって人気のある子役をそろえることは難しい。そこでテレビ局や代理店とべったりの芸能事務所から押された芸能人が割り当てられるわけだが、そこで舞台が小学校から高校になったりするわけである。
日本テレビで放映されていた「地獄先生ぬーべー」はその手の改悪が酷いものだった。ヒロインの一人である雪女のゆきめに至っては、大韓民国の歌手グループKARAのジオンが割り当てられており、日本語が不自由な雪女になっていた。
ここだってもっとましな改編はできただろう。ぬーべーが韓国に出かけたときに出逢った妖怪であり、彼をしたって日本に来たとすれば日本語が片言でも問題無かったはずである。つまりゆきめである必要は無かったのだ。
報告書を見ても明らかだが、ドラマ制作側に原作と原作者のリクエストを答える意志はかけらも無いのだろう。ともかく視聴率につながりそうな要員がほしいわけであり、スポンサーを納得させる口実なわけだ。
この意識はそう簡単に変わるとは思えない。よって今後、日本テレビが原作付きドラマを作る場合は、確実に原作死亡フラグが立つと思った方が良いだろう。
日本テレビでは原作者を「自分の作品にこだわりがあって難しい人」としていたらしいが、自分の作品に愛情を持てない作家の作品に価値があるのだろうか。
小説家の中には、自分の原稿に手を入れられるのを嫌う人は多い。どれほどの改編が拒絶されるかというと、句読点や改行の位置すら変えることを許さない。
例えば一文において漢字ではなくひらがなやカタカナにしているのを漢字に直すとそれで大激怒である。漢字をひらがなにするのを「開く」と言うが、それにも立派な理由があるからだ。昔の純文学に繋がる作家はこの傾向が強いために、テレビドラマの制作陣はどこかでサジを投げると思う。
一時期、剛力あやめさんが実写ドラマに配役されることが多く、それが爆死につながることから批判されることがあった。
そして原作のファンは見事に壊された作品を見て「今回もわたしたちは剛力の侵略を止めることができなかった」と言って嘆いていたとか。
ここでも剛力さんが悪いと言うより、原作をきちんと再現するための配役を選ぶべきだったのである。もしそれが不可能であったら、原作の設定に手を加えるより、対象となる原作を別の原作に切り換えるべきなのだ。
きちんと実写ドラマになって評判のよいものだってあるわけだ。出来ないはずが無いが、その数の方が少ないのが現状だ。
幸いと言うのか、わたしは映像が判らないので声の演技に問題がなければ充分楽しめる。それだけハードルが低い成果、どれほど原作が壊されているか判らない。
せめて声だけは、プロの声優を使うとかでなんとかならないかと思うのである。
次回は、心拍数と寿命の関係について語りたい。