第三百八十弾「 掌打」

第三百八十一弾「 掌打 ―― 第二章 遠き一撃」

第三百八十ニ弾「 掌打 ―― 第三章 名刺」

の続きです

 

# 掌打 ―― 第四章 家族

 有澤麗華という少女が、生まれてこの方、
家族に愛された記憶は一度もなかった。

 物心ついた頃にはもう、その序列は決まっていた。
両親――父・正義と母・精華――が向ける眼差しは、
常に妹の優華にだけ注がれていた。
麗華は、そこに存在しないも同然だった。
誠実であること。
真面目であること。
優しくあること。
努力を惜しまないこと。
麗華が積み重ねてきたそれらの美徳は、
この家の中では何の価値も持たなかった。
学校の成績は常に上位で、友人も多かった。
だが、そうした「よそでの評価」が
家に持ち帰られることは一度もなかった。
持ち帰ったところで、
誰も見ようとしなかったからだ。

 父はギャンブルに溺れ、母は浮気と浪費を繰り返した。

稼いだ金は右から左へと消えていき、
家計は常に火の車で、返しきれない借金が
雪だるま式に膨らんでいた。
それでも両親は、優華の我儘だけは決して拒まなかった。

ブランドの服、最新のスマートフォン、
欲しいと言えば何でも与えられた。
その一方で、麗華に与えられるものは、
何もなかった。

 甘やかされ続けた優華は、
当然のようにねじ曲がって育った。
我儘で、自分勝手で、横暴で、
他人の痛みというものを想像する力
そのものが欠落していた。
努力という言葉の意味を知らず、
楽をすることばかりを考え、
そのためなら誰にでも媚を売った。
学校では体を使って上級生や教師に取り入り、
次第に彼女に意見できる人間が誰もいなくなっていった。

その代わりに、優華の標的として選ばれたのが、
姉の麗華だった。

 いじめは、じわじわと、
しかし確実に麗華の日常を侵食していった。

 長く伸ばしていた黒髪は、ある日ペンキをかけられ、
切り落とすしかなくなった。
今では肩にも届かない、不揃いなショートヘアだ。
制服の下の肌は、いつも青黒い痣で埋まっていた。
殴られ、蹴られ、物を投げつけられる。
それが日常になると、痛みへの感覚さえ麻痺していく。
家に帰れば、そこにも安らぎはなかった。
両親からの暴言と、時には手も出る折檻。
優華からの理不尽な命令。
それでも麗華は、そこで生きていくしかなかった。
学費と生活費を自分で稼ぐために、
アルバイトを三つ掛け持ちしながら。

 その日も、麗華は自分の部屋で横になっていた。

 昨夜、階段の上から突き落とされたのだ。
優華の機嫌を損ねたという、それだけの理由で。
受け身を取る間もなく体が階段を転がり落ち、
右足に鈍い衝撃が走った。
立ち上がろうとした瞬間、足首から膝にかけて、
燃えるような激痛が突き抜けた。
骨が折れている。
素人目にも分かるほど、明らかな異変だった。

 それでも、病院には連れて行ってもらえなかった。

「そんなの放っておけばいいでしょ」

 母の精華は、
麗華の足など一瞥もせずにそう言い捨てた。

 朝になり、優華が部屋のドアを乱暴に開けた。

「ちょっと、買い物行ってきてよ。
お菓子とジュース買ってきて」

「……足が、痛くて」

「は? 知らないし。あんたが自分で勝手に転んだんでしょ」

 抗弁する気力も残っていなかった。
麗華は財布だけを掴み、部屋着のまま、
折れた足を引きずるようにして家を出た。
一歩踏み出すたびに、
視界が白く点滅するほどの痛みが走る。
それでも、優華の命令を無視すれば、
もっと恐ろしいことになる。
それだけは経験で知っていた。

 近所のコンビニまでの、
普段なら五分の道のりに、
その日は二十分近くかかった。

 ◆

 その夜、五郎はレジに立っていた。

 自動ドアの開く音に顔を上げた瞬間、
五郎の中で何かが凍りついた。

 入ってきたのは、若い女性だった。
だが、その姿は明らかに異常だった。
着ているものは薄汚れた部屋着で、
あちこちが擦り切れている。
右足を庇うように、体をくの字に折り曲げながら、
壁に手をついて一歩ずつ進んでいる。
短く切り揃えられた髪の隙間から見える顔は、
脂汗にまみれ、唇の色を失っていた。

「――大丈夫ですか!」

 五郎はレジを飛び出していた。
考えるより先に、体が動いていた。

 声をかけたのとほぼ同時に、
女性の体がぐらりと傾いだ。
膝から力が抜け、崩れ落ちる寸前だった。
五郎は間一髪でその体を支え、床にゆっくりと横たえた。

触れた腕の細さに、五郎は言葉を失った。
骨が浮くほど痩せている。
それに――服の袖からわずかに覗く肌に、
消えかけた痣と、
新しい痣が幾重にも重なっているのが見えた。

「すみません……ご迷惑、を……」

 女性は震える声で謝罪の言葉を紡ごうとしていた。
この状況で、なぜ謝るのか。
五郎には理解できなかった。

「喋らなくていいです。今、救急車呼びますから」

 五郎はポケットからスマートフォンを取り出した。
その拍子に、一枚のカードが床に滑り落ちた。

 **L'sコーポレーション 人事部 金澤桜子**

 あの名刺だった。
財布に入れたつもりが、
いつの間にかポケットに移っていたらしい。
落ちたそれを見た瞬間、五郎の指が動いた。
一一九番ではなく、名刺に刷られた番号を押していた。

「……あの、金澤さん。石川です。
すみません、急で……目の前で女性が倒れて、
酷い怪我をしていて。助けてもらえませんか」

 電話の向こうで、金澤桜子は一瞬の沈黙の後、
落ち着いた声で状況を尋ね、指示を出した。
救急車はすでに呼んだか。
分かりました、こちらでも把握します。
今から向かいます。
搬送先が決まったら教えてください。

 その声の確かさに、五郎は少しだけ安堵した。

 救急車が到着するまでの間、
五郎は店長に事情を説明し、
病院までの同乗の許可をもらった。
幸い、今夜はもう一人シフトに入っていた。
五郎は救急隊員に女性を託し、
自分もストレッチャーの傍らに乗り込んだ。

 サイレンの音の中、女性は薄く目を開けて五郎を見た。

「どうして……知らない人なのに」

「知らない人でも、目の前で倒れそうなら助けます。
それだけです」

 女性は、それ以上何も言わなかった。
ただ、その目に微かな涙が浮かんでいるのを、
五郎は見て見ぬふりをした。

 ◆

 病院に到着すると、
すでに金澤桜子がロビーで待っていた。

 夜だというのに、
彼女の身なりには一分の乱れもなかった。
スーツ姿のまま、五郎の姿を認めると、
まっすぐに歩み寄ってきた。

「石川さん。よく連絡をくださいました」

「あの……いきなりすみません。
他に頼れる人が思いつかなくて」

 五郎は麗華が処置室へ運ばれていくのを
見送りながら、経緯を話した。
コンビニに現れた時の姿。
足の状態。
体中の痣。
そして、名刺が落ちたこと。

「……もし、これで俺の評価が下がるなら、
それでもいいです。放っておけなかったので」

 五郎は、そう付け加えた。
スカウトの話を保留にしたまま、
勝手に名刺の番号を使った。
常識で考えれば、
褒められた行動ではないかもしれない。
だが後悔はしていなかった。

 金澤桜子は、その言葉に僅かに目を細めた。

「評価が下がる、ですか。
石川さん、それは違います」

 彼女の声には、迷いがなかった。

「今、そんなことを気にする必要はありません。
あなたは正しい判断をされました」

 そう言うと、金澤桜子はどこかへ電話をかけ始めた。
短いやり取りの中で、彼女は麗華の氏名、住所、
そして家族構成までもを、
驚くほど短時間で調べ上げてしまった。
五郎にはその手段も、
その速さの意味も分からなかった。
ただ、この女性が「ただの人事担当」ではない
ということだけは、はっきりと理解した。

 やがて金澤桜子は、
麗華の家族に連絡を取ったことを五郎に告げた。

「もうすぐ、ご家族がいらっしゃいます」

 その言葉に、五郎は素直に安堵した。
家族が来れば、麗華はきっと守られる。
そう思っていた。

 だが、その予想は――あまりにも、甘かった。

 ◆

 一時間ほどして、
処置室の外の待合スペースに、
三人の人物が駆け込んできた。

 中年の男女と、麗華と歳の近そうな若い女。
父の正義、母の精華、妹の優華だと、
五郎はすぐに察した。

 しかし、その三人の表情に、
娘を、姉を案じる色は一切なかった。

「はあ? 骨折? 何やってんのよ、あの子は」

 母の精華が、開口一番に吐き捨てた声だった。

「こっちは忙しいのに、わざわざ病院まで来させて。
迷惑にもほどがあるでしょ」

 父の正義も、苛立たしげに舌打ちをした。

「治療費、いくらかかるんだ。
まったく、金食い虫が」

 優華は優華で、退屈そうにスマートフォンを
いじりながら、五郎の方を一瞥もせず呟いた。

「あたし、買い物もまともにできないとか、
使えなすぎ」

 五郎は、自分の耳を疑った。

 目の前の光景が、理解できなかった。
娘が骨を折って運ばれてきたというのに、
この三人の口から出てくるのは、心配の言葉ではなく、
苛立ちと非難だけだった。
まるで、故障した家電の修理を
面倒がっているような態度だった。

 ――この人達は、本当に家族なのか?

 その疑問が、五郎の中でぐるぐると渦を巻いた。

 これまで五郎の中にあった「家族」の像は、
漠然としたものだった。
祖父との静かな暮らし。
厳しくはあったが、確かに自分を見てくれていた背中。
世間で言われる「家族」というものは、
多少の差はあれど、
基本的には互いを案じ合うものだと、
無意識に思い込んでいた。

 だが、それは思い込みに過ぎなかったのだと、
五郎は今、目の前の光景で思い知らされていた。

 ――そういえば、
統計上、殺人事件で最も多いのは親族間の犯行だと、
何かで読んだことがある。

 家族とは、最も近くにいる分だけ、
最も刃を向けやすい相手にもなり得る。
だが、優しい両親の下で育った人間は、
その事実を実感として理解できない。
ドラマや物語の中で、
両親というものは必ず子を案じる存在として描かれる。
それが当たり前だと思い込んで、
大人になっていく。

 だが、現実はそうではない。
世界には、実の親に虐げられ、見捨てられ、
時には命を奪われる子供が、想像を絶するほど存在する。

麗華の家族は、まさにその一例に過ぎなかった。
ただ、それが自分の目の前で起きるまで、
五郎はその事実を、
他人事の知識としてしか知らなかったのだ。

 やがて、松葉杖をついた麗華が、
看護師に付き添われて処置室から出てきた。
ギプスで固定された右足を庇いながら、
ぎこちない足取りでこちらへ向かってくる。

 その姿を見るなり、正義が声を荒らげた。

「お前、何で病院なんか来てんだよ! 
こっちに迷惑かけて!」

「わざわざ病院まで来させて、時間を無駄にさせて」

 精華も続けて非難の声を浴びせる。

「ただの捻挫でしょ、大袈裟なのよ」

 優華までもが、白けた顔でそう吐き捨てた。

「買い物、結局行けてないんだけど。
使えなさすぎでしょ」

 麗華は俯いたまま、何も言い返さなかった。
ただ、慣れた仕草で体を小さく縮めていた。
反論すれば、後でもっと酷い目に遭う。
その学習が、彼女の体に染みついているのが、
傍から見ていても分かった。

 五郎の中で、何かが音を立てて軋んだ。

 気づけば、麗華と家族の間に、
体を滑り込ませていた。

「――彼女、足を骨折してるんです。
捻挫じゃありません」

 努めて冷静な声を出したつもりだった。
だが、内側で渦巻くものは、決して静かではなかった。

「あぁ? 何だお前」

 正義が五郎を睨みつけた。

「関係ない奴が口出すんじゃねえよ。
家族のことだ、引っ込んでろ」

「家族の、こと……」

 五郎はその言葉を、口の中で反芻した。
目の前で娘を罵倒し、その怪我を「大袈裟」
と切り捨てる人間が、家族という言葉を
使う資格があるのか。
喉元まで出かかった言葉を、
五郎はかろうじて飲み込んだ。
ここで自分が激昂したところで、
麗華の状況が良くなるわけではない。

「石川さん」

 そこに、静かな声が割り込んだ。
金澤桜子だった。

 彼女は正義たちの前に進み出ると、
手にしていたタブレット端末に視線を落としながら、
淡々と告げた。

「有澤麗華さんの身体には、今回の骨折以外にも、
複数の陳旧性の外傷が確認されています。
栄養状態も、標準を大きく下回っています。
麗華さんはまだ在学中の未成年です。
これは、警察と、学校を通じての児童相談所
――どちらにも連絡が必要なレベルかと思われます」

 その瞬間、正義と精華の顔色が、目に見えて変わった。

「な、なんだよそれ。大袈裟だろ、そんなの」

「そうよ、ちょっと躾で叩いたことは
あるかもしれないけど、
それくらいどこの家庭でも……」

 言い訳を重ねる二人の声は、
どんどん早口になり、どんどん軽くなっていった。
優華だけは、面倒事から距離を置くように、
興味なさそうな顔で視線を逸らしていた。

「あたし関係ないし」

 金澤桜子は、その反応の一つひとつを、
感情のない目で見つめていた。
そして、静かに――しかし、はっきりと告げた。

「今夜、麗華さんはホテルでお休みいただきます。
ご家族の皆様は、一旦お引き取りください」

 その声は、決して大きくはなかった。
怒鳴ってもいなければ、脅してもいない。
だがその一言が発せられた瞬間、
待合スペースの温度そのものが、
数度下がったような錯覚を、
その場にいた誰もが覚えた。

 金澤桜子の表情は、笑顔ですらなかった。
ただ、凪いだ水面のように、
何の感情も映していなかった。
その静けさが、正義たちの体を、芯から凍りつかせた。

「……わ、分かりました」

 あれほど威勢のよかった正義が、
蚊の鳴くような声でそう答えた。
精華も、頷くことしかできなかった。
優華だけが不服そうに口を尖らせていたが、
それ以上の反発はしなかった。

 三人は、逃げるようにその場を後にした。

 五郎は、その一部始終を、言葉もなく見つめていた。
あの権力的で理不尽な家族が、
金澤桜子のたった一言でこうも簡単に萎縮する。
それがどういう理屈で起きているのか、
五郎には分からなかった。
ただ、この人はやはり、ただの人事担当ではない
――その確信だけが、じわりと胸に広がっていった。

 我に返った五郎は、慌てて頭を下げた。

「あの……本当に、ありがとうございました」

「いいえ」

 金澤桜子は、いつもの穏やかな笑顔に戻っていた。
先ほどまでの冷たさが嘘のようだった。

「知らせてくださって、ありがとうございます」

 その言葉に、五郎は小さく頷いた。
だが、胸の中には、感謝とは別の感情が、
静かに渦巻いていた。

 自分には、あの右手がある。
触れれば骨を砕き、
振り下ろせば遠く離れた人間さえ打ち倒す、
得体の知れない力。
だがその力は、今夜、麗華を救う役には
一切立たなかった。
倒れた彼女を支えることはできても、
彼女が抱える理不尽そのものを打ち砕く力は、
五郎の手の中にはなかった。

 殴っても、壊しても、意味がない相手がいる。

 五郎は、自分の右手を、静かに握りしめた。

 病院の窓の外、
夜はまだ深く、明ける気配はなかった。