# 掌打

 夜の九時を過ぎると、コンビニの蛍光灯は
妙に白々しく感じられる。
石川五郎はレジの奥でおにぎりの棚を整えながら、
ガラス越しに滲む街灯の光をぼんやりと眺めていた。
二十歳。
高校を出てからもう二年が経つ。
眼鏡の奥の目は特に何かを見ているわけでもなく、
ただ習慣的に瞬きを繰り返しているだけだった。

 静岡の祖父の家を出て東京に来たのは、
他に行く場所がなかったからだ。
両親は五郎がまだ物心つく前に事故で死んだ。
記憶にあるのは祖父の背中と、
縁側から見える茶畑の緑だけだ。
祖父は寡黙な人で、五郎に多くを語らなかった。
ただ、五郎が何か失敗するたびに
「気にするな、次だ」とだけ言った。
その言葉だけが、五郎の中に染み付いている。

 高校を出て上京した当初は新聞配達をしていた。
朝の三時に起きて、まだ誰も歩いていない道を
バイクで走る。
寮生活は窮屈だったが、金は貯まった。
半年でアパートを借りられるだけの貯金ができると、
五郎は迷わず新聞屋を辞めて一人暮らしを始めた。
今のコンビニのバイトは、
時間の融通が利くというだけの理由で選んだ。
特別な夢も目標もない。
ただ、誰にも縛られずに、
自分のペースで生きていければそれでよかった。

 友達と呼べる人間はいない。
彼女もいない。
休みの日は部屋でゲームをするか、漫画を読むか、
あるいは何もせずに天井を眺めているだけだ。
そんな五郎の生活に波風が立つことは、
めったになかった。

 ただ、一つだけ。五郎には、
自分でもよく分からない「何か」があった。

 見た目は典型的な陰キャオタクそのものだ。
度の強い眼鏡、猫背気味の姿勢、
話しかけられてもうまく目を合わせられない。
だから絡まれることは多かった。
学生時代からそうだった。
廊下ですれ違いざまに肩をぶつけられ、
因縁をつけられる。
コンビニで働くようになってからも、
酔った客に絡まれることが何度もあった。

 そのたびに、五郎の右手が動いた。

 特に力を込めるわけではない。
腕を大きく振りかぶるわけでもない。
傍から見れば、ちょっとした手刀
――時代劇のワンシーンで見かけるような、
軽い仕草にしか映らない。
だが、それが相手の体に触れた瞬間、
何かが決定的に壊れる。

 最初にそれが起きたのは中学二年の時だった。
同級生に胸ぐらを掴まれ、
反射的に手を振り払っただけのつもりだった。
相手は「腕が動かない」と青ざめた顔で呟き、
その日のうちに病院に運ばれた。
診断は複雑骨折。
医者は「まるで内部から圧し折られたような骨折だ」
と首をひねっていたという。
五郎自身も、自分が何をしたのか分からなかった。
ただ手を振っただけだ。
それなのに、骨が折れる。
肉が裂ける。
時には――一度だけ、自転車にぶつけた時に、
フレームの金属が内側からひしゃげるように
切断されたこともあった。

 力ではない。
速さでもない。
見た目にはただの「軽い一撃」なのに、
当たったものの内部だけが確実に破壊される。
まるで、衝撃だけが皮膚を素通りして、
中身にだけ届いているかのようだった。

 五郎はその力を誰にも説明したことがない。
説明のしようがなかったからだ。
祖父にも話さなかった。
話したところで、何が変わるわけでもない。
ただ、絡んできた相手が一瞬で戦意を失い、
青い顔で逃げていく。
それだけのことが、これまで何度も繰り返されてきた。
五郎はそのたびに、
静かにその場を立ち去るだけだった。

 その夜も、いつもと同じはずだった。

 閉店作業を終え、シャッターを下ろし、
五郎は夜道を歩いていた。
アパートまでの近道は、
小さな公園を突っ切るルートだ。
街灯もまばらで、昼間は子供たちの声で
賑わうその場所も、夜には人影一つない。
いや――今夜は違った。

 公園の隅、錆びたベンチの近くで、
複数の人影が動いていた。

 最初は誰かがふざけているのかと思った。
だが、近づくにつれて、それが違うと分かった。
若い男が三人、地面に蹲る誰かを取り囲み、
代わる代わる足を振り下ろしていた。
蹲っているのは、
薄汚れた毛布を纏った初老の男だった。
ホームレスだと、五郎はすぐに理解した。

「おら、金あんだろ、隠すんじゃねえよ!」

 チンピラの一人が怒鳴る声が、静かな公園に響いた。
殴られている男は、もう声を上げる力も
残っていないのか、ただ体を丸めて
衝撃に耐えているだけだった。
あまりにも一方的だった。
三対一で、しかも抵抗する術のない老人を、
若い男たちが嬉々として痛めつけている。

 五郎の中で、何かが小さく音を立てた。

 普段の五郎なら、
見て見ぬふりをして通り過ぎていたかもしれない。
関わり合いになりたくない、というのが本音だった。
厄介事は嫌いだ。
平穏な日常が一番いい。
そう思って生きてきたはずだった。

 だが、足が勝手に動いていた。

「――やめろよ」

 自分でも驚くほど、それは掠れた小さな声だった。
決して勇ましいものではない。
だが、三人の視線が一斉に五郎に向いた瞬間、
公園の空気が変わった。

「あぁ? 何だテメェ」

 一番体格のいい男が、五郎を上から下まで眺め回した。

眼鏡をかけた、どこにでもいそうな冴えない青年。
ガタイもよくない、喧嘩慣れしている様子も微塵もない。

舐められるのは当然だった。

「関係ねえなら消えろよ、オタクくん」

 嘲笑うような声とともに、
一人が五郎に向かって踏み込んできた。
振りかぶられた拳が、五郎の顔面を狙って迫る。

 五郎は、それを避けようともしなかった。
ただ、右手を軽く持ち上げ
――掌の側面を、
相手の伸びてきた腕にそっと当てた。

 ドッ、という鈍い音がした。

 殴りかかってきた男の動きが、
途中でぴたりと止まった。
伸ばした腕が、奇妙な角度に曲がっている。
骨が、肉の中で完全に折れていた。
男は自分の腕を見下ろし、
何が起きたのか理解できないまま、
口を開けたまま固まっていた。
悲鳴すら、一拍遅れてようやく漏れた。

「て、テメェ何しやがっ――」

 二人目が反射的に殴りかかってくる。
五郎はほとんど動かなかった。
振り上げられた拳の軌道に、
無造作に手刀を滑り込ませただけだった。
掌が相手の前腕に触れる。
それだけで十分だった。

 パキン、と枝が折れるような音。
男は声にならない悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
腕の中で、何かが完全に潰れた感触があった。
折れたなどという生易しいものではない。
骨そのものが、内側から圧し折られていた。

 三人目は、もう戦う気力を失っていた。
仲間が二人、目の前で一瞬にして戦闘不能になった。
それも、目に見えるような力業ではなく、
軽く手が触れただけで。
理解の範疇を超えた恐怖が、男の足を凍りつかせていた。

「な、なんだよ、お前……」

 震える声で後退る男に、五郎はゆっくりと近づいた。
特に怒りを表に出しているわけでもない。
ただ淡々と、機械的に距離を詰めていく。
その無感情さが、かえって恐怖を煽った。

「ひっ……!」

 男は踵を返し、脱兎のごとく公園から逃げ出した。
仲間の二人を置き去りにしたまま、夜の闇に消えていく。

残された二人は地面に蹲り、
折れた腕を抱えて呻き続けていた。
その呻き声にも、五郎はもう興味を示さなかった。

 五郎は蹲ったままのホームレスの男に近づき、
その手を取った。
骨ばった、冷たい手だった。

「立てますか」

 男は驚いたように顔を上げた。
殴られた頬が赤く腫れ、
口の端が切れて血が滲んでいる。
だが目には、まだ確かな光が残っていた。

「あ、ああ……すまない、すまないね……」

 五郎は男を支えながら、公園の出口へと歩いた。
呻き声を上げる二人のチンピラを背に、
足早にその場を離れる。
誰かが騒ぎを聞きつけて通報するかもしれない。
面倒事に巻き込まれるのは御免だった。

 公園から少し離れた街灯の下まで来ると、
五郎はようやく足を止めた。

「この辺で大丈夫ですか」

「ああ……本当に、助かったよ。ありがとう」

 男は何度も頭を下げた。
皺だらけの顔に、
涙とも安堵ともつかない表情が浮かんでいる。
五郎はその様子を、どこか他人事のように眺めていた。
自分が何か特別なことをしたという実感は薄い。
ただ、目の前で理不尽なことが起きていたから、
体が勝手に動いただけだ。

「気を付けてください。
ああいう連中、また来るかもしれないんで」

 それだけ言うと、五郎は踵を返した。
ホームレスの男は、
五郎の背中が夜の闇に溶けて見えなくなるまで、
深々と頭を下げ続けていた。
ありがとう、ありがとう、と呟く声が、
静かな夜の中にいつまでも残っていた。

 五郎はアパートへの道を歩きながら、
自分の右手をぼんやりと見下ろした。
何の変哲もない、ただの掌だ。
骨ばっていて、少し節くれ立っている。
これのどこに、あんな力が眠っているのか、
五郎自身にも見当がつかなかった。

 ただ、一つだけ確かなことがあった。

 この力は、望んで手に入れたものではない。
だが、今夜のように、
誰かを助けるために使えるのなら
――それも悪くないのかもしれない。

 五郎は小さく息を吐くと、
いつもと変わらぬ足取りで、夜道を歩き続けた。
彼がまだ知らないところで、
この夜の出来事が、静かに、
しかし確実に、何かの歯車を回し始めていた。