第二百三十九弾「 夜明け前のコンビニ」

第二百九十三弾「夜明け前のコンビニ その2」

の続きです

 

# 夜明け前のコンビニ

## 幕間 ―孤狼―

### 一

両親が死んだのは、十月の夕方だった。

交差点で信号待ちをしていた
トラックのブレーキが壊れていた。
それだけのことだった。
世界が変わるには、それだけで充分だった。

葬式が終わった後、佐々木賢人は一人で家に帰った。

誰もいない家は、静かだった。

ただの静かさだった。
恐ろしくも、悲しくもなかった。
ただ、音がなかった。

賢人は自分の部屋に入って、ベッドに腰を下ろした。

机の引き出しの中に、
ずっと欲しかった漫画の最新刊が入っていた。
発売日に買いに行けなくて、
こっそりストックしておいたやつだ。
親に見つかって没収される前に隠していた。

賢人はそれを取り出して、読んだ。

誰にも怒られなかった。

それが最初の夜のことだった。

---

父親の名前は佐々木剛一といった。

格闘技の世界では知られた名前だった。
複数の武道を修めて、
独自の体系を作り上げた人間だった。
雑誌のインタビューで
「最強の格闘家を一人挙げるなら」
と問われたら彼の名を上げる記者が、何人かいた。

母親の名前は佐々木涼子、旧姓を桐島といった。

女子プロレスの世界で十年間リングに立った。
引退後も後進の指導をしていた。
腕の細さと強さが一致しない人間の典型で、
知らない人間が見たら
普通の穏やかな女性にしか見えなかった。

そういう二人の間に生まれた子供が、
どういう育てられ方をするかは、想像に難くない。

賢人が最初に山に連れて行かれたのは、
五歳の時だった。

父は何も説明しなかった。
ただ「来い」と言った。

山の中で、父は賢人に言った。
「お前は弱い。弱いまま生きていくのは辛い。
だから強くする」

賢人は「アニメが見たいです」と言った。

父は聞こえなかったふりをした。

走ること、体幹を作ること、受け身を覚えること、
重心の移し方、呼吸の整え方。
それが小学生の賢人の放課後だった。
友達が公園でゲームをしている時間に、
賢人は山の中を走っていた。

中学に入ると訓練の内容が変わった。

「複数の相手と戦う時、最初に何を考える?」

父は言った。

「……わかりません」

「全員を倒そうとするな。

動けなくすることだけ考えろ。

人間は、仲間が倒れると動揺する。その一瞬を使え」

賢人はノートにそれを書いた。

授業のノートより、そっちの方がページが多かった。

母は母で別のことを教えた。
「どんなに強い人間でも、疲れたら動きが変わる。
その変化を読むことが、体格差を埋める」

賢人はそれも書いた。

でも本当は、アニメが見たかった。
漫画が読みたかった。
同じクラスのみんなが話しているゲームを、
一度でいいからやってみたかった。

父に一度だけ言ったことがある。

「俺、格闘家になりたいわけじゃないんですけど」

父は少し考えてから言った。
「格闘家になれとは言っていない。
生きて帰れるようにしているんだ」

その意味が、賢人にはよくわからなかった。

---

### 二

高校に入って、クラスが変わった。

春のうちはよかった。
誰も賢人のことを知らなかった。
背は平均より少し低くて、眼鏡をかけていて、
口数が少くて、休み時間は本を読んでいる。
そういう生徒として認識されていた。

それで充分だった。

変わったのは夏休み明けだった。

親が死んで一人暮らしをしていることが、
どこからか広まった。

学校というのは不思議なもので、秘密は必ず漏れる。
誰かが誰かに話して、それがまた誰かに伝わって、
気づいた時には知らない生徒まで知っていた。

最初に来たのは三人組だった。

同じクラスではなかった。
賢人のことを廊下で呼び止めて、
「一人暮らしなんだって?
いいじゃん、たまり場にしようぜ」と言った。
笑っていた。
冗談のような言い方だったけど、
目が笑っていなかった。

「嫌です」

賢人は言った。

「は?」

「嫌です。来ないでください」

三人は顔を見合わせた。
それから笑った。
「なんだこいつ、ウケる」

その日は帰った。

翌日から、始まった。

---

上履きに画鋲が入っていた。

教科書のページが破られていた。

ロッカーに落書きがされた。

机に「死ね」と書かれた紙が貼られていた。

賢人はそれらを淡々と処理した。
画鋲は捨てた。
破られたページはテープで直した。
落書きは消した。
紙は丸めてゴミ箱に入れた。

担任に言おうとは思わなかった。
言ったところで何も変わらないことは、
なんとなくわかっていた。

それより困ったのは、放課後に囲まれることだった。
五人、六人で取り囲んで、
「なあ、家に行かせてくれよ」と繰り返した。
親がいないんだろと笑った。
何をしても怒らないだろうと思っていた。

賢人は毎回「嫌です」と言った。

怒鳴られた。
蹴られた。
荷物を蹴り飛ばされた。

それでも「嫌です」と言い続けた。

父の訓練を使おうとは思わなかった。
それを使うことへの抵抗感が、賢人にはあった。
暴力で解決したくなかった、
というより、そういう人間になりたくなかった。

でも相手の数は増えていった。

---

十月の土曜日、
スーパーで買い物をしていた時だった。

野菜コーナーで大根を見ていたら、
後ろから肩を叩かれた。

振り向くと、見たことのある顔だった。
嫌がらせのグループの一人だった。

「ちょうどよかった。今日、河川敷に来い」

周りに人がいた。
レジのおばさんが、チラリとこちらを見た。

賢人は大根を籠に入れた。

「……何時ですか」

「三時。来なかったら、このスーパーで暴れるから」

賢人は男の顔を見た。本気だと思った。

「行きます」

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### 三

河川敷に着いた時、賢人は思わず立ち止まった。

人が多かった。

数えてみた。
三十人は下らなかった。

土手の上と下に分かれて、賢人が来るのを待っていた。
見たことのない顔も多かった。
どこから呼んできたのか。

賢人は堤防の下に降りた。

砂利が足の下で鳴った。
夕日が川面に伸びていた。
風が少しあった。

「来たじゃん」

中心にいた男が言った。
一番体格がよかった。
「俺らの言うこと聞いてりゃよかったのに。
なんで素直にできないの」

賢人は川を見た。

水が、静かに流れていた。

(帰ったらあのアニメの続きを見よう)

そう思った。

「かかれ!」

男が言った。

最初の一人が突っ込んできた。

---

賢人はその一人の重心が右に傾くのを見た。

右足が出る。
右拳が来る。

半歩右にずれた。
拳が空を切った。
その勢いを使って、男の右腕を掴んで引いた。
前のめりになった体に、肘を一つ入れた。

男は砂利の上に崩れた。

次の二人が同時に来た。

賢人は後退しなかった。
前に出た。
二人の間に入り込んで、一人の顎に掌底を当てた。
もう一人の蹴りを腕で受けながら、
そのまま足を払った。

三秒で、三人が倒れた。

後ろから来た。
振り向かずに肘を後方に送った。
鈍い音がした。

父の声が、頭の中で聞こえた。

*複数の相手と戦う時、最初に何を考える。
全員を倒そうとするな。
動けなくすることだけ考えろ。*

賢人は考えていなかった。

考えなくても、体が動いた。
十年間、それだけをやり続けてきたから。

五人が来た。
正面三人、左右に一人ずつ。

正面の真ん中の一人に向かって走った。
意表を突かれた顔をした。
その隙に右の一人の横をすり抜けて、
背後から首に腕を回した。
意識が飛ぶ手前で離して、次に移った。

人間は、仲間が倒れると動揺する。

その通りだった。

動揺した隙に、また次が崩れた。

時間にして、どのくらいだったか。

気づいたら、周りが静かになっていた。

砂利の上に、人が転がっていた。
呻き声がしていた。
立っている人間が、賢人以外にいなかった。

賢人は砂利の上に立って、川を見た。

夕日が傾いていた。水が光っていた。

誰も立ち上がらなかった。
立ち上がろうとした者が何人かいたけど、
賢人が振り向くと、また砂利に座り込んだ。

賢人は土手を上がった。

堤防の上から振り返った。
三十人が、河川敷に転がっていた。

誰も彼も、信じられないという顔をしていた。

賢人は自転車を押して、帰り道を歩いた。

スーパーの袋が前輪に引っかかっていた。
大根が、まだ入っていた。

(今夜は大根と豆腐の味噌汁にしよう)

そう思いながら、家に帰った。

---

### 四

その夜のことは、賢人の知らない場所で広まった。

最初は当事者たちの間だけだった。
三十人が、一人にやられた。
しかもどう見ても普通の眼鏡の高校生に。
信じられなかった。
でも全員が同じ目で見ていた。

話は広がった。

尾ひれがついた。

「一人で三十人を秒で沈めた奴がいる」

「素手で。しかも全然強そうに見えない」

「どこの誰かわからない。名前も知らない」

「河川敷に一人で現れて、一人で帰った」

誰かが呼んだ。孤狼、と。

理由はわからない。でもその名前が定着した。

不良たちの間で、
都市伝説のように語られるようになった。
どこかに、一人で何十人も倒せる化け物がいる。
その正体は誰も知らない。

---

当の賢人は、何も知らなかった。

翌週から、学校で嫌がらせがなくなった。

廊下で呼び止められることもなくなった。
視線を感じることはあったけど、
近づいてくる者はいなかった。

なぜかは、考えなかった。

理由を追うより、
空いた時間に漫画を読む方が大事だった。

ある日の昼休み、
隣のクラスの男子が興奮した様子で
話しているのが聞こえた。

「孤狼って知ってる?河川敷で三十人をぶっ倒した奴」

「都市伝説だろ、それ」

「いや、本当にいるらしいって。しかも素手で」

賢人はその会話をぼんやり聞きながら、
弁当のから揚げを食べた。

(怖い人がいるんだなあ)

そう思った。

---

高校を卒業して、就職に失敗して、
コンビニでバイトを始めて、宝くじが当たった。

河川敷のことは、遠い記憶になった。

今の生活に、あれは必要ない。

アニメを見て、漫画を読んで、コミケに行く。
それだけでいい。

それだけで、充分に幸せだった。

少なくとも、
レイが公園のベンチにいるのを見つけるまでは、
そう思っていた。

---

*続く*