第百七十九弾「路地奥の灯り」から続いているお話です

 

他にも

第百八十弾「路地奥の灯り ― 遼の章 ―」

第百八十一弾「路地奥の灯り ― 真希の章 ―」があります



### 『路地奥の灯り ― 見えるもの ―』

 その日の夕方、真希はパソコンの前で固まっていた。

「……やっちゃった」

 小さな入力ミス。

 大事にはならなかった。修正もすぐに済んだ。

 それでも、胸の奥がざわつく。

 ――また、同じことを繰り返すんじゃないか。

 ブラック企業にいた頃の記憶が、嫌でも蘇る。

 

 遼は、少し離れた場所からその様子を見ていた。

 すぐに声をかけることもできたが、
 あえて少しだけ待つ。

 落ち着く時間を奪わないためだ。

 

「……大丈夫ですか」

 タイミングを見て、静かに声をかける。

 

「うん……大したことじゃないんだけど」

 真希は無理に笑った。

 

 遼は、画面をちらりと見た。

 そして、ふと違和感に気づく。

 

「……もしかして」

「?」

「目、悪いですか」

 

 真希は少し驚いた顔をした。

 

「え、分かんない。気にしたことない」

「文字、見づらそうにしてたので」

 

 言われてみれば。

 画面に顔を近づける癖はあった。

 

「一回、測ってみません?」

 

 軽い提案だった。

 責めるでもなく、問題を切り分けるような言い方。

 

「……うん、行ってみようかな」

 

 

 翌日。

 二人は近所の低価格な眼鏡店に入った。

 

 店内は明るく、整然としていた。

 真希は少しだけ緊張していたが、遼は淡々と手続きを進める。

 

「こちらで視力測りますねー」

 

 機械を覗き込む。

 レンズが入れ替わるたびに、世界の見え方が変わる。

 

「……え、なにこれ」

 

 思わず声が漏れた。

 

「どうしました?」

 

「めっちゃ見える……」

 

 自分でも驚くほど、輪郭がはっきりする。

 

 結果は、はっきりしていた。

 両目ともに軽度の近視。

 

「そりゃミスも出ますね」

 遼は苦笑した。

 

「今までよく気づかなかったね、私……」

 

 そこからは、フレーム選びだった。

 

「これどうかな」

「少し丸すぎるかもです」

「じゃあこれは?」

「似合ってます」

 

 並んで鏡を覗く。

 自然と距離が近くなる。

 

 真希は、少し楽しくなっていた。

 こういう時間を、誰かと過ごすのは久しぶりだった。

 

 

 数十分後。

 出来上がった眼鏡を受け取る。

 

 それをかけた瞬間――

 

 遼は、言葉を失った。

 

(……やばい)

 

 似合いすぎている。

 知的で、少し大人っぽくて、それでいて柔らかい。

 今まで見ていた真希と、同じなのに違う。

 

 視線が逸らせない。

 

 

「どう?」

 

 真希が振り向く。

 

「……あ、えっと」

 

 遼の顔が一気に赤くなる。

 

「すごく……似合ってます」

 

 それが精一杯だった。

 

 

 会計のとき。

 

「これ、就職祝いってことで」

 

 遼がさらっと言った。

 

「え、いいよ!自分で払うよ」

「いや、まだしてなかったので」

 

 押し切る形で支払いを済ませる。

 

 真希は何度も頭を下げた。

 

「ほんとにありがとう、遼」

 

 

 帰り道。

 

 遼は内心、完全にパニックだった。

 

(落ち着け、落ち着け……)

 横にいるだけで意識してしまう。

 眼鏡越しにふと目が合うたび、心臓が跳ねる。

 

 平静を装うのに必死だった。

 

 

 家に着いた瞬間、遼は一度キッチンに逃げた。

 

(なんだあれ……反則だろ……)

 

 顔が熱い。

 落ち着くまで数分かかった。

 

 

 そのとき。

 

 背中に、柔らかい感触。

 

「……遼」

 

 真希が後ろから抱きついていた。

 

「今日は本当にありがとう」

 

 遼の体が固まる。

 

「視力が悪いなんて、言われるまで気にしてなかったよ」

 

 そこで、ようやく異変に気づく。

 

「……遼?」

 

 顔を覗き込む。

 

 真っ赤だった。

 

「どうしたの?熱でもあるの?」

 

「い、いや……その……」

 

 視線が泳ぐ。

 

「真希の……眼鏡姿が……可愛くて……」

 

 しどろもどろだった。

 

 

 真希は、一瞬きょとんとしたあと――

 

 ふっと、笑った。

 

(ああ、この人……)

 

 取り繕えない。

 嘘がつけない。

 思ったことが、そのまま顔に出る。

 

 

(この人なら――)

 

 心の中で、静かに決意が固まる。

 

(ちゃんと一緒に生きていけるかもしれない)

 

 

 遼は、まだ気づいていない。

 

 この瞬間が、二人の関係を大きく動かしたことに。

 

 路地奥の家の灯りは、少しだけ色を変え始めていた。